心を洗い流して
日曜日、昼過ぎ。ティアは近所のスーパーにさっき出掛けていった。
一人残された私が家の自室でぼんやりしていると、スマホにメッセージが飛んで来た。
『あかり、大雨が降るらしいから、今すぐ洗濯物取り込んで!』
私は重い腰を上げて、階下に降りる。
するともう降り出していて、庭に出る直前に土砂降りになった。
――うわー。これはもう駄目だわ。
私が庭に出るための大窓の前で茫然としているとティアが戻って来た。
「ちょっと、あかり? 何で取り込んでないのよ!」
「えー、仕方ないじゃん。あっという間だったんだよ」
私は雨を指す。
ティアは立ち尽くす私の横に来ると、雨模様を見て言葉を失う。
「あー、もー。洗い直しじゃ」
諦めたのか彼女は台所に行く。
「止むまで待とう――コーヒーでも淹れるわ」
豆の袋を戸棚から出す。
「あ、私、紅茶がいいな」
「えー。まだ飲めないの?」
私はコーヒーが苦手だ。頷く。
ティアはコーヒー豆を取っ手の付いた小さな、銀色の立方体に入れてスイッチを押す。箱から豆を挽く音がする。暫くして、短く電子音が鳴る。立方体の取っ手を握ると注ぎ口が自動で現れた。そのままマグカップにコーヒーを淹れる。
続けて、別の缶から小袋を取り出し、別のマグカップに中身を置く。キューブ状に押し固められた紅茶のフリーズドライだ。ポットのお湯を注ぐだけで出来上がり。
私は台所のテーブルに座る。
やがて、ティアがマグカップを二つ持って来て向かいに座る。
「ありがとう」私は早速ひとくち。
「いえいえ」
ティアもコーヒーを啜る。
「にしても、よく降るねぇ……」
「今日は雨の予報じゃなかったのに。ああ、お気に入りのカットソーが、デニムが……」
「こんなに世の中進んでるのに、予報って難しいんだね」
「まあね。気象予測は変数の塊だから」
これでもスパコンの演算能力は年々上がり続けてるんだけどね、と言ってティアはマグカップに口を付ける。
「ティアはさ」
「ん?」
窓の外を見つめていたティアの横顔に私は言葉を投げる。
「どんな本が好きなの」
「えー? なあに、その質問」
「いや、この世界って、本屋がないから……」
電子書籍が普及して久しい。そのせいでリアル店舗の本屋はもう、数えるほどしか残っていなかった。
家の中にも紙の本がなく、私はティアがどんな本を読むのかさえ知らない。
「そうだなぁ……」
ティアは席を立って二階へ上がり、何かを持って帰って来た。
彼女のタブレット端末だ。ティアはそれを操作して、
「結構ミステリーとか読むよ。あとは学術書かな」
本棚の画面を見せてくれる。
「あ、これ、私も読んだよ」
私は本棚に表示されていたカバー写真を指し示す。
「あー、それね。面白かった」
「うん。犯人が意外だったよね」
「あれ? そうだっけ?」
途端にティアが考え込む。
「ん? 読んだんじゃないの?」
「いや、歳のせいか記憶が……」
などと、笑えない冗談を言う。
「なによ、それ」私はちょっと吹き出す。
「あかりは、どんな本を読むの?」
「私? 私は……」
ふ、と屋敷の自分の部屋がフラッシュバックする。
子供の頃から繰り返し読んだ冒険小説。それはベッドサイドに何冊も置いてあっていつでも手に取れた。他にも、お気に入りの本は本棚にたくさんあって、中には、お父さんから貰ったものや、藤野さんからプレゼントされたものも――。
「――あかり?」
「ん?」
「どうしたの?」
私は首を振る。近くて遠い過去に対する憧憬が、私の心をあっという間に捉えていた。
「んーん、何でもない」
努めて平静を装う。
「何だか心ここに在らずに見える」
「そんなことないよ」
私はどうにか微笑んだ。自分の腕を掴んで、身体の震えをティアに悟られないようにする。
「あかり――」
「わわっ?」
身を乗り出したティアにぎゅっと抱き寄せられた。
「――あかり、大丈夫か」
私は不意をつかれた所為か、感情の制御に失敗する。
「……っ」
ティアの腕の中で、溢れる涙が止められない。
「ご、ごめ、ごめんなさい。急に……どうしたんだろ……」
「大丈夫よ。あかり」
ティアは何故泣いているのか、私に訳を聞かない。
「うっ……、うっ……」
泣き続ける。ティアは、私が泣き止むまで無言だった。
「もう大丈夫。ありがとう」
ティアは私から腕を解くと、肩に手を置いた。
「よし、雨、止んだから、洗濯物、取り込もう」
言われて窓の外を見る。相変わらずの土砂降り。
「や、止んでないよ?」
「――そんなことないよ」
言うが早いかティアは大窓を開けて庭に出た。
「ちょっと? ティア!」
「あかりもおいで!」
ティアは見る間にずぶ濡れになっていく。
その姿、訳もなくカッコいい。
私も思い切って庭に出る。
秋の終わり、その割には暖かな雨が私の身体を打つ。
「どう――あかり?」
どう、と言われても――。
でも、洗い流されていく。何が、とはっきり言えないが、確かに私の身体から流れ出て行くものはあった。
それがほんの少しだけ、私を軽くする。
「いいね! ティア」
「でしょ?」
なぜか得意気なティア。
私は物干しに近付いて、洗濯物を取り込んでいく。
「あたしもやるよ!」
ティアも物干しに手をかけて、衣類を取り外していく。時々絞りながら手際良く軒下に入れていく。
私も若干まごつくが、服を軒下へ。
「これ、楽しいね! ティア!」
彼女は頷いた。
取り込んだ洗濯物をかごに入れ、お風呂に入ることにした。
湯船にお湯を張り、私たちは二人で浸かる。
「ねぇあかり?」
「うん?」
私はティアのバランスのとれた身体に見とれている。
二人で入るのは初めてだ。
「あたしといて、楽しい?」
「楽しいよ。今日みたいに予測不能なことも起こるしね」
そっか、と言ってティアは私の頭に手を置いた。
「ティア?」
「あたしとあかり、二人でさ、ちゃんと暮らしていこう」
にこりとするティア。
とても温かなものがその笑顔から流れ出し、私を包む。
――っ……。
また涙が滲んだ。
でも、嫌な感じはしなかった。
「――うん、分かった」
私は、涙を手の甲で擦りながら頷いた。




