リブート
知らない天井があかりの視界を埋めている。真っ白くて、無機質な。
――あれ……?
混乱してしまう。今までずっと、自分は海の上を漂っていると思っていた。ゆらゆらと波に揺られ、陸地の見えない海をあてもなく、どこまでも。
ここは、さっきまでいた海より何倍も実存感があると思った。頬に空気を感じる気がする。微かな気流を髪に感じた。これもさっきまではなかったことだった。
とりあえず起き上がろうとして自分が思うように動かないことに気づいた。動かせなくはない。ただ、各部を動かすのに一度"タメ"が必要な感じで、スムーズに動いてくれない。
どうにか身体を起こしてみる。それだけで恐ろしく疲弊した。かかっていたシーツが引力に従って落ちる。周囲を見ると、モニターやら電子機器やらが所狭しと置かれていた。特に、病室の壁際に継ぎ目のない長いモニターが横に設置されているのが目を引いた。そこには横になったあかりの全身図と、血圧と思しき数値や、体温、心拍、その他の数値が表示され、リアルタイムで変動している。
――ここは。
病院だ、と思ったところで部屋の引き戸が開けられた。
「ああっ」
入ってきたのは年輩の女性看護師。
「渡来――あかりさん?」
念の為なのか、近寄りながら聞いてくる。枕元のナースコールを押し、医師を呼んだ。
「ああ、まさか本当にこんなことが……ティアさんの言った通り」
手元を両手で覆いながら看護師は感極まった様子で独り言のような、あかりに話しかけているような、どっちつかずの呟きを漏らす。何を言うべきか、あかりは曖昧に微笑んだ。
そこへ医者であろう男が入ってきた。あかりは半身を起こしている態勢が辛くなってゆっくりとベッドに横たわる。医者が彼女の脈を取り、瞳孔の反射を見る。
「渡来さん、ご気分いかがですか? どこかおかしなところはないですか」
少し考えて首を振る。
「血圧、酸素飽和度などに異常はないね。師長さん、ティアさんを呼んでくれる?」
「もう呼んであります」
「そうか。ありがとう」
医師は少しかがんで患者の顔をのぞき込むようにする。左胸のネームプレートが『石田』と読めた。
「ええと、今から人が来るんですが、あなたのことについてとてもよく知っている人です。まず、その人から説明を……」
病室の外で誰かがこちらに走ってくる気配がした。やがて入口のドアを開けた人物は、逆光で表情はおろか服装さえもよく見えなかった。
「あかりさん?」
声からして女性だと思われるその人物は駆け寄ると、覆い被さるようにしてあかりを抱きしめた。真っ赤な髪があかりに当たる――陽光に映えて、燃えるようだった。
「良かった。本当に、良かった……」
女性はよく見ると泣いているようだった。あかりは顔にかかる髪が擦れて、痒みを覚えたため少し顔をよじった。
「あの……」
あかりは声を出しみて、自分がこんな声をしていたかどうかすぐに思い出せず混乱する。
「あっ、ごめんなさい」
女性は顔を上げて涙を拭う。師長が出してくれた椅子を受け取り、あかりの頭の側で腰を下ろした。女性は微笑んでいる。紺色のスーツに、タイト気味のスカート。見た目は二十代だろうか、真っ赤な髪の毛をだらっと下ろしている。透けるような白い肌に、緑色の瞳が控えめに光っていた。
――綺麗な人……。
「ではティアさん。私たちはいったん下がります」
何かあったら呼んで下さいね、師長は石田を伴って退室した。ティアと呼ばれた女性は自分の胸を右手で押さえ、ゆっくりと口を開いた。
「あかりさん、初めまして。私はティア・フルール・ティオ・ドラグンと申します」
美しい日本語だった。流暢で隙のない、柔らかくて、それでいて切れない絹糸のような。
「私はあかりさんのお父さんの古くからの知り合いで、今はとある研究所の副所長をやっています」
と言われても何をする仕事なのか、困惑の表情で見上げる。
「父の、知り合い――なんですか?」
さっき石田という医師も、また、師長も『ティアさん』と呼んでいた――からには確かな身分の人なのだろうと思うが、記憶にはいない人物。
「まあ、私のことはおいおいお話しします」
取り敢えず頷くしかない。
「さて、今とても混乱していることと思います……あかりさん、何か、最近で覚えていることはありますか?」
「最近? 父と――喧嘩をしました。それで仲直りをしようと……」
聞いたティアは少し目を閉じ何かを振り払うように緩くかぶりを振った。
「その日、どうやって家に帰ったかを覚えていますか」
「どうやっ、て……?」
なぜそんなことを聞くのかと思う。どうもこうも、どうやろうと家には帰ったはずであり、その方法を問われるなど。
それは、と言い掛けて自分の中に答えの持ち合わせがないことに気付く。何てこと、家に帰った記憶がない。前の晩、父と些細なことで喧嘩をした。それから部屋に引きこもり、翌朝、父を避けて登校し、放課後……。
「屋敷に電話を入れて、迎えの車を断って……」
会話と言うよりは思わず漏れ出したという方が近い。ティアは黙っている。
――ひとりで帰りたいのよ。
自分の声が内耳によみがえる。その電話を切って、信号待ちをしていた……。
ぢりりっ。
不意に意識が真っ黒になる。スイッチが切られるように出し抜けに思考が働かなくなった。無意識に首筋を押さえていた。
「あかりさん! 大丈夫ですか?」
「ティア――さん」
息が荒くなっている。
「ちょっと、気分が悪く、なってきたので、今日はもう」
「了解したわ」ティアは何でもないと言った顔で立ち上がると、病室を出ていった。
――何だって言うのよ。
ひどく疲れていた。
あかりはすぐに、眠ってしまった。




