9.酔っ払い
その後、何事もなかった様に日々過ぎていった。
ただ、二人きりになるとスキンシップが増えたのは、気の所為ではないはず。
何時もの日課、食後にリビングのソファで会話を楽しんでいても、何処か身体の一部が触れていて。
今もさり気なく、岳は俺の座る側のソファの背もたれに腕を伸ばしていた。
お陰で、ふとした拍子に肩や腕が触れて、距離の近さを感じる。
この、距離感。
嫌ではない。
別に二人だけならそれも気にならないのだ。逆に落ち着くくらいで。
我ながらどうかとは思うが、事実だから仕方ない。
岳といると、ほっとすんだよな? 居心地がいいって言うか…。不思議だな。
そんなある夜。
深夜も近くなった頃、岳が真琴に肩を貸されて帰ってきた。酔い潰れているのだ。
「うわっ! 出来上がってる…」
「すまない。飲ませ過ぎた。気分よく飲んでいるからつい…。大和、後を頼んでいいか?」
玄関を上がり、なんとか千鳥足の岳を浴室へと担ぐように運んでいくと、真琴は傍らの大和を振り返った。
「おう。まかせとけ。ってか、こんな岳初めて見たな」
「俺もほとんど見たことがない。外では気を張っているから、こんな隙の出る飲み方はめったにしないんだが──」
言いかけてふと、俺を見つめた後。
「そういえば、大和の話で盛り上がってな。そのせいかもしれない…」
「俺?!」
聞き返せば。
「あ! 兄さん…」
騒ぎに気づいて亜貴も起きてきた。俺は亜貴を下がらせる。
「亜貴は寝てていい。俺が見とくから」
「…それが心配なんだけど」
「?」
亜貴の小さな呟きは、俺の耳には入らなかった。
「わかった。兄さんには飲みすぎるなって言っておいて」
そういうと、亜貴は踵を返し部屋に戻って行った。
「亜貴も気付ていたか…」
今度は真琴が呟く。それはきちんと耳に入って、俺は真琴を見やった。
「気付くってなにが?」
「…こっちの話だ。さて、岳。シャワーでも浴びて目を覚ませよ? じゃあ、大和、後は頼んだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「おう」
真琴の目は笑っていた。
そうして真琴が帰って行き、その場には泥酔する岳が残される。
シャワーを浴びれば目を覚ますだろう。この酒臭いまま、ベッドには放り込めない。
「岳。起きろ! 起きてシャワー浴びろよ。自分で脱がないと俺が脱がすぞ?」
「…大和?」
「そうだ。脱がされたくなかったら、自分でやれ。ほら」
しかし、岳は薄っすら目を開け俺を確認したものの、ちっとも動こうとしない。
「…いいよ。大和が脱がしてくれ…」
そう言って、目を閉じてしまう。俺はため息を付くと。
「よし。分かった。全部脱がすからな? 覚悟しろよ!」
とは言ったものの、シャツを脱がすまでは良かったが、そこからが難儀した。
長い足をよけながらスラックスを脱がし、靴下を脱がし下着を下ろし。
岳、よく鍛えてるよな?
腹筋も割れていて、無駄な贅肉は一つもない。けれど、マッチョと言う訳ではなく。
すらりとした肢体は、目を惹く。
何か少し変な気分になりそうになって、慌てて頭を振って我に返った。
岳って、妙に色気があるんだよな?
亜貴とは違う、大人の色気だ。男の俺が見たってそう思う。
フェロモンが駄々洩れだな。
酔っているせいで吐息が熱い。
立たせようとして、その懐に入って持ち上げたのだが、思わず抱きつくような体勢になってしまい焦った。
「…大和…」
「なんだ? 起きたんなら、ちゃんとしろって。重いんだぞ?」
岳の素肌の胸元が頬にあたる。心音が聞こえてくるようだった。
「……だ…。大和…」
と、突然、寝ぼけた岳が俺に抱きついてくる。流石に裸の岳に抱きつかれるのは恥ずかしい。
「酔っ払い! 抱きつくな! 目ぇ覚ませ! シャワー浴びろっ!」
「これ、夢だろ…? だったら──」
岳の手が俺の右手首を捉え、浴室の壁に押し付ける。
ん?
もう一方の手が下肢に伸びてくると、履いていたパジャマのズボンの中へと入りこんできた。
あろうことか、そのまま下着の中にまで入り込んで来る。
「お、おおおおいっ! 誰と間違えてる! そんなとこ触るんじゃ…っ! ばっ! やめ、ふ…んっ」
アルコールで体温が上昇し、熱くなった岳の手が、強く意思をもって直に触れてくる。
これにはまいった。というか、やばい。
てか、予測通りだが、動きが手慣れていて上手いのだ。
「っ──!」
思わず声が漏れそうになって、慌てて歯を食いしばった。
俺は必死になって、空いた一方の手で岳の二の腕掴む。そんな俺を無視して、岳の指先は熱を煽った。
「…大和だろ? だったら間違ってない…」
あ、わっ! やばいっ! やばいって!
腰に震えがきて、限界まであと僅かと知らせている。
途端に何も考えられなくなった。ただ、岳の動きに翻弄されるだけだ。
呼吸が荒くなる。他人に触られるのはこれが初めてで。
岳はそんな俺を、熱を帯びた眼差しで、じっと見下ろしていた。
「っ…! やっ、めっ…ん、ん──」
涙目で懇願するが。
「止めるつもりはない…」
岳は意地悪く笑っただけだ。
もう、ダメだ…。
あと少しで達すると思った所で。
突然、冷水のシャワーが襲い掛かった。
「っ?!」
「…兄さん。目、覚ましなよ。強姦罪で訴えられるよ?」
見れば、岳の肩越しに亜貴の冷たい視線が見えた。手にシャワーホースを握っている。
そこから溢れる冷水が容赦なく岳に向けられていた。
「音がするから来てみれば…。こんな事だろうと思った…」
「…? 大和? なんでだ?」
岳は漸く意識を取り戻したらしい。腕の中の俺を見下ろしてくる。
「お、ふ、ふざけんなっ! さっさとシャワー浴びやがれ!」
涙目になって──いや。恥ずかしいが実際、泣いていた──見上げると、岳ははたと我に返って、がっくりと項垂れた。
夢ではなかったと、気づいたらしい。
「…すまない。大和。久しぶりに飲んで、飛んだ…」
「いいから手、放せってのっ!」
流石に下に回った手は離れていたが、右手首は岳に握られたままだ。
しかし、項垂れた岳は手を離さない。酷く落胆した様子で、俺を見下ろすと。
「…許してくれるか?」
「ゆ、許すって! アルコールの所為だろ? いいから手、離せよ! 早くっ!」
「なんで焦ってる?」
きょとんとする岳に。
「……!」
俺は本気で岳の腹にパンチをお見舞いし、出来るだけ急いでトイレへと駆け込んだ。
あのまま、あそこでするわけにはいかない。亜貴もいたのだ。
にしたって。あいつ。
巧すぎ──じゃなくて、手癖、悪すぎだ!
悪態をつきつつも、岳の手を思い出して済ませたのは、致し方ない事だろう。
すべて処理してトイレから出れば、壁に背を預け岳が佇んでいた。
髪は濡れ肩にはタオルがかかっていたが、ろくに拭いていないのが見て取れた。
「って、なんでいんだよっ」
気まずいことこの上ない。睨みつけてやれば、
「…すまない。酔っていたとは言え。怖い思いをさせて済まなかった…」
これ以上、ないくらい項垂れている。俺は慌てた。
「別に怖くなんてなかったって。ただ、驚いただけだ。今度は酔っぱらって襲わないよう、気をつけろよ? てか、そんな癖があったらあぶないぞ? 大丈夫か?」
「大丈夫だ。これに限っては、な。兎に角、済まなかった…」
「いいから気にすんな。ほら、部屋に戻れ。頭、拭いてやる」
仲直りの意味も込め、その背を押すと、岳の自室へと押しやった。
岳は何も言わずに俺の言う通り部屋へ戻ると、ベッドサイドに腰かける。俺はその背後から髪を拭いてやった。
「亜貴、遠慮なくかけたな? 目、覚めただろ?」
「…ああ。あのあと、こっぴどく怒られた」
「流石の兄貴も形無しだな?」
「お前…。本当に怖くはなかったのか?」
「大丈夫だって。岳の事が怖いことなんてねぇよ。…ただ、他人にあんな風に触られたのは初めてで、びっくりしたって言うか、何ていうか…」
正直に言うと、『良かった』のだが、流石に言えない。
「…俺は、ほとんど覚えてない。所々、大和の顔が浮かぶが…」
「!? そ、そんなの忘れろって! 俺の顔なんて気持ち悪いだろっ?」
そんなの悪夢でしかないだろう。
亜貴のように可愛ければ別だが、俺の感じている顔なんて、おぞましいだけで──。
「別に。気持ち悪くなんかない。…覚えておきたかった」
小さく呟く岳に、俺はぽかりとその頭を叩く。
「まだ酔いが残ってんだろ? 忘れろ、忘れろ! きれいさっぱり忘れちまえっ! それが俺への贖罪だと思え!」
ハアハアと荒く息をつく。すると岳は肩を落として。
「…わかった」
すっかり髪を拭き終え、ベッドから降りる。
「水、持ってくるからそれ飲んで寝ろよ? 明日もいつも通りの時間に起きれるのか?」
岳は頭をこくりと下げ頷く。
余りに意気消沈した様子に、心配になった。
水をもって部屋に戻ってくると、岳はすでにベッドに横になっていた。
俺は傍らに腰かけ、サイドボードに水を置くと、布団の間から覗く顔を見下ろし。
「気分悪いのか? 今、水飲むか? それとも後に──」
「大丈夫だ。後で飲む…」
「分かった。ここに置いておくから後で飲めよ?」
「ああ。……大和」
「なんだ?」
少し間を置いたのち。
「…俺が眠るまで、ここにいてくれないか?」
懇願するような目に、俺は否とも言えず。
「わかった…。いるよ。よく眠ってくれ」
俺は仕方なく、岳のベッドに上がると、シーツの上に横になった。岳とは向かい合う形になる。
そうして布団越し、ぽんぽんとその肩辺りを軽く叩くと。
「俺はちっとも怒ってねぇし、あれくらいで嫌ったりもしねぇって。だから心配すんなって。ヤクザの親分が形無しだぞ?」
見知らぬ何処かのヤローにやられたなら、気持ち悪さこの上ないが、相手は岳なのだ。
嫌でも怒りが込み上げるでもない。
岳の目を覗き込んでそう口にすれば、岳は苦笑し。
「ありがとう。大和…」
そう言って、安心した様に目を閉じた。
+++
これをデジャブというのか。
次の日、聞き覚えのある電子音で目が覚める。
しかし、いつかの様にそれは勝手に止まらない。
俺は腕を伸ばして止めようとしたが、その腕がしっかりホールドされ上がらなかった。
何事かと目を開ければ、目の前に岳の顔。気持ちよさそうに寝息を立てている。
かわいいよな。
なんて思う自分を、どうかしていると思いつつ。
「岳。おはよ。腕、ほどけよ…」
「あ…? ごめ…」
腕が解かれ、俺は漸く目覚ましを止める事が出来た。
さて、起きて朝食準備を──と思ったがその前に。
「んでまた…。ここで寝てんだ?」
「…あのまま、大和も熟睡してたからさ。起こすのもどうかと思ってな。あとは前と同じ。以下同文」
「っ…!」
こいつ。
やっぱり俺をぬいぐるみかなんかだと思ってやがんな?
「俺は人間だからな? 断じてコツメじゃねぇからな?」
くっくと笑いながら。
「分かってる」
きっと、また同じことがあるだろうことを覚悟した。




