35.再会
そこは日本の中央にある山。単独峰だった。
学生時代、幾度か登った事がある。
はがきに載っていた山には山小屋はなかった。なら、その山が見える場所は? そう考えてやってきた場所だ。
ここは山がよく見えるな。
確かに葉書きにある風景がそこには広がっていた。遠くの山並みが青くかすむ。
この景色を大和も見たのか。
「宿泊者ですか?」
声をかけられ振り返れば、長身の青年が立っていた。両手に水の入ったタンクを抱えている。
ここは小屋の勝手口にあたるようだった。見れば壁際に不要になった段ボール箱が積まれ、隣には空瓶の類も置かれている。
入口を間違えたと思われたのだろう。
年の頃は二十代半ばか。大和より少し上くらいだろう。日に焼けた精悍な顔つきだが、何処か見覚えがある気がした。
それは青年も同じだったようで、首を傾げる様にした後。
「岳…先輩?」
呼ばれて一気に記憶が甦る。
大学時代、山岳部の後輩だった男だ。
岳が三年生の時、入部してきた。名前を瀬良祐二と言ったはず。
「…瀬良か? お前、なんかデカくなったなぁ。大学で伸びたのか?」
「はあ、まあ。てか、先輩は変わりませんね? 相変わらずの男ぶりで。本当、久しぶりです。今日は登りに来たんですか?」
「ああ、いや…。人を探しててな。仕事中にすまない。ここでこういう奴は働いてないか?」
そう言って端末の写真を見せる。
そこには少し照れくさそうに笑みを浮かべる大和が写っていた。朝のリビングで撮ったものだ。
自然な表情は撮り手が岳だったせいもあるのかも知れない。
「もしかしたら髪型が変わったり、日焼けをしたりしているかも知れないが…」
すると祐二の表情がすっと硬いものになった。
「…大和に何の用ですか?」
その言葉に、祐二の態度とは裏腹に一気にテンションが上がる。
「大和がいるのか? いるなら会いたいんだ」
「岳先輩…。どうして大和を追ってきたんですか?」
「どうしてって…。それは──」
「ここに来たとき、大和は随分憔悴してました。大和となにかあったんですか? ようやく最近、元気になって…。大和は今、俺にとって大事なスタッフでここの後輩なんです。先輩と関わる事でまた元の状態になってしまうかも知れない…。場合によっては会わせる事はできません」
きっぱりとそう言い切る。
瀬良達後輩にも、岳と紗月の関係は知られていたらしい。それを思えば、大和と何かしらあったと思うのも無理はない。
「なくはないが、詳しくは言えない。ただ会って話したい。それだけだ…」
すると祐二はため息をついてから。
「…いません。大和は用事があって今山を降りてます。しばらく休みを取らせてるんです。いつ戻るかは分かりません。それじゃあ俺、仕事があるんで」
「ちょっと待てって。何か連絡先は──」
「知ってても教えられません。友人なら大和が連絡するでしょう? だいたい一緒に働いてましたけど、先輩の名前は一度も聞いた事がありません。無いって事は会いたくないってことじゃないですか? じゃあ、仕事の途中なんで」
そう言って再度、水を運び出した所へ。
「祐二! 水あとどれくらい──」
弾むような声が背後から聞こえてきた。忘れるはずもない声に弾かれた様に振り返る。
同じく振り返った祐二は舌打ちすると。
「…下で待ってろって言ったろ?」
「……」
祐二はそこに立ち尽くす大和の手から、水の入ったタンクを取り上げる。
下の水場から登って来たらしい。
大和は岳の姿を認め、そこに立ったままぽかんと口を開けている。
「大和…?」
やはりここにいたのだ。
先程の祐二の態度はひとまず置いておくとして、それよりも大和だ。思わず数歩近づく。
久しぶりに見た大和はだいぶ日に焼けていた。髪は短めにカットされている。Tシャツから伸びる、細いがしなやかな筋肉が付いた腕。頬の傷は殆ど目立たない。
あと少し、近づけば触れられるという所で。
「…んで?」
大和は震える声でようやく言葉を口にした。
祐二は大和が運んできた分のタンクも小屋の中に運び込むと、直ぐに戻って来て。
「これから仕事なんです。話は後にしてもらえますか?」
祐二は二人の間に割って入るように立つ。
「…何時頃なら話せる?」
岳は大和から視線を外さない。
「昼の休憩は短いですから。二時から四時までは自由時間です」
「じゃあ、それまで待たせて貰う。時間になったらここに来る。大和、また後で…」
祐二の向こうに立つ大和は、相変わらず目を見開き無言のまま。拒絶でも容認でもなく。
それでも、漸く会うことができた。
元気な姿に安堵と嬉しさを覚える。大和を見るのは、あの河原で別れて以来。
今すぐにでも抱き締めたくなる気持ちを堪え、そこを後にする。大和はただじっとこちらを見つめていた。
大和に会ったら謝りたいと思っていた。そして、誤解を解くこと。
迎えに行く資格はないと言いながらも、大和を忘れる事など出来なかった。
一度は共に生きようと心に決めたのだ。そこまでの相手を振り切る事など出来なかった。
今も愛している。
その一言を伝えたかった。
+++
「何しに来たんだろう…」
余りにも動揺を隠せないでいる俺に、祐二は奥で洗濯物を畳むよう命じた。
ジャガイモの皮むきも、玉ねぎの薄切りも、キャベツの千切りも。刃物を扱うものは危なっかしく任せられないと言われ。
部屋の奥で大量のタオル、シーツの類いを畳みながら。
岳…。
ちっとも変わっていなかった。
髪は前より伸びて、肌も少し焼けているけれど、強い眼差しや低く落ち着いた声音。何も変わっていない。
あと少し近づけば触れられた。
「って、何なんだよ、俺。全然、まだ岳のこと…」
──思っている。
手にしたタオルを握りしめた。
そうなのだ。あの日。自分の目にした岳は新たな相手がいたのだ。
岳の様な魅力ある人間が数ヶ月と言えど、ひとりでいるはずもなく。
もう、迎えには来ない。
俺は振られたのだ。
そのまま、いわゆる傷心旅行に出た。傷は時間が癒やしてくれる。それを信じた。
揺れる電車の中で岳を思う。
責めるつもりは無かった。俺を思う余り、動けなくなったのだ。責めても仕方がない。
俺はただ、岳を守りたかった。岳もまた、俺を守ると誓って。
それが上手く噛み合わなかっただけのこと。嫌いになった訳じゃない。ただ、守りきれなかった事で、続ける自信を無くしたのだろう。
それでも、倫也に襲われたあの時の選択は正しかったと思っている。もし、呼び止めていたらどんな結果になっていたか。
目の前で俺が刺されれば、岳の心に大きな傷を残しただろう。それに、岳も怪我を負わされたかも知れない。
あのまま、俺が死んでもダメだったけどな。
携帯越しに話した岳の声は今でも覚えている。逆にあそこで終わっていたなら、俺は幸せだったのかも知れない。
『俺もだ』
今も残る、岳の声。
目が覚めて、これからも一緒に過ごせるのだと知って、不覚にも涙が出た。
ただ、岳と生きられる事が嬉しかったのだ。
でも、迎えは来なかった。
幼い頃から、ひとりは馴れている。
捨てられる事も、忘れられる事も。
中学三年になった時、母親が病で亡くなって。それから、家計を支えつつ、家事をこなし、飲んだくれる父親を世話しながらひとり奮闘してきた。
いくらアパートの住人がいたとは言え、一人になることも多く。ものもろくにない、サッパリとした部屋で一人食卓で手を合わせ。
でも、自分を可哀想だとは思わなかった。
ただ、淡々と事実を受け止め、目の前のやるべき事をこなし。
ひとり過ごす日々にも、馴れれば寂しいとは思わなくなっていた。
岳に捨てられて、一人になっても。俺は大丈夫。
そう言い聞かせても、やはり辛かった。
偶然、降りた駅の掲示板でチラシを見つけた。
『一緒に山小屋で働きませんか』
手描きで一色刷りのシンプルな募集広告。
体力に自信のある方なら誰でもOK。年齢問わず。
何処かひと目のつかない所で働きたかった俺は、直ぐに連絡する。やった事のない仕事なら、忙しくて岳の事を考えずに済むと思ったからだ。
端末の電源は入れたくない。駅にあった公衆電話で書かれた番号へ連絡すると、出たのは祐二だった。
駅の掲示板の募集を見たと言うと。
『今、ちょうど山降りたんで、駅のベンチで待ってて貰えますか?』
抑揚のない無愛想な声。でも、冷たくはない。不必要な愛想がないだけだ。
「分かりました」
そう答えて待つこと数十分。空の背負子を背負った祐二が現れた。
祐二は俺に販売機で買った缶コーヒーを渡しながら、簡単に素性を尋ねてきた。面接だ。年齢、今までの職歴、犯罪歴の有無。
全て正直に話すと、飲み終わった缶をゴミ箱に捨ててから。
「じゃあ、行こうか」
そう言って、すっかり日に焼けた手を差し出して来た。それが、祐二との出会い、この仕事の始まりだった。
それからの日々は忙しく、あっという間に季節は過ぎて行き。
山での生活は不便はあっても楽しかった。
それに、そこにいると自然と落ち込んでばかりもいられず。
毎日、昇る朝日に沈む夕日を見つめているうちに、カチカチに固まっていた心がほぐされていくようで。
自然と深呼吸が出来る様になっていた。
岳の事は忘れられない。忘れなくてもいい。無理に忘れようとするから、辛いのだ。
岳が忘れても、俺は好きでいる。当分はそれでいいんだ。
そう思う様になっていた。
ようやく連絡したのは秋も終わりかける頃。直に小屋も閉める時期だった。
その後も岳の事はそれでもずっと頭にあった。忘れる事などなく。
仕事でどんなに疲れて、泥のように眠っても、頭の片隅にはいつも岳はいた。
その岳が会いに来た。
理由はなにか。
岳はあの青年と付き合っているはずだった。分からない。俺に会いに来る理由なんて。
気づくとシーツの端を握りしめていた。慌ててくしゃくしゃになったシーツから手を離し伸ばす。
「大和。やっぱり手につかないか?」
はっとして振り返ると戸口に肩を預け祐二が立っていた。いつからそこにいたのだろう。
「べ、別に。あとちょっとで終わる…」
すると祐二も部屋に上がってきて、板の間に座ると一緒に洗濯物を畳み出した。もう、昼の片付けや夕飯の仕込みは済んだらしい。
積まれていたタオルはあっという間に片付いて行く。
「大和。先輩に会うのが嫌だったら無理するな? 会いたくなければ、俺が何とかするから」
「う…ん…」
曖昧に返事をすると。
「大和、先輩と付き合ってたのか?」
「へっ?」
なんでそうなる? というか分かったのかと、驚いて見返せば。俺の反応にやっぱりと呟いて。
「山岳部でも、岳先輩が男と付き合ってんの知られてたからさ。同じ部に相手がいたんだ。で、大和の様子見てピンと来た。なんか拗れてんのか?」
「拗れるって、そんなんじゃねぇけど。俺が振られたってだけで…。だから、会いに来た理由が分からなくて…」
「お前、元々男が恋愛対象なのか?」
「…違う。違った。色々事情があって、岳の家で世話になって、それで──」
祐二はそういった事柄を笑う奴じゃない。今までの事の顛末を掻い摘んで話した。
父親の借金のせいで岳に家政婦として雇われた事。俺が岳の弟の代わりに襲われた辺りから、岳との関係が変わって行ったこと。
その後、岳の父親が襲われ、結果、岳が急遽跡を継ぐことになって。
それでも、迎えに来るから待っていて欲しいと言われ、俺も受け入れ。
けれど、今度は俺が襲われ、そのせいで岳との関係が崩れた事。
「てか、先輩。そっちの関係者だったのか…」
「でも、大学を卒業してから知ったみたいだ。それまでは知らなかったって。それに、今はもう、違う…」
「大和はもう先輩の事は吹っ切れてんのか?」
「いや、その…。うん…」
俯き言葉を濁す俺に、祐二はため息をつくと。
「吹っ切れてないんだな…。先輩の来た理由もその辺にある気がするけどな」
「俺、それでも会いに行ったんだ。そしたらやたら綺麗な男と一緒にいたぞ? いい雰囲気でさ…。あれ見たら誰でも諦めるしか無いって。それに俺の写真も全部処分したって言ってた。俺は…必要ないんだ」
「綺麗な、ね。それってかなり美人?」
「なんか、女性でも通りそうなくらい──」
「それって、紗月先輩かな? 大学時代の恋人。卒業したときに別れたって聞いたけどな。凄い美形で男女構わず人気があったんだ。お互い話し合って円満に別れたって。紗月先輩はイギリス留学したらしいけど。幾ら別れたとしても、仲がいいのは当たり前だよな?」
「そう、なのか…?」
「てか、岳先輩。写真、持ってたぞ? 偉くリラックスした大和の。たまたま持ってたって感じの写真じゃなかったけどな…」
祐二の言葉に動揺する。
それは、昔付き合っていたなら、打ち解けた雰囲気もあるだろうが。
写真だって処分したって…。じゃあなんで持っているんだ?
理由がわからず混乱する。
祐二は胡座を組んで座った上に肘をつくと。
「もう、答え出てんじゃないのか?」
「……」
祐二の言葉に押し黙る。
「なあ、どういうつもりか試してみるか」
そこで祐二は、にっと笑んで見せた。




