12.お大事に
「頬の抜糸は一週間後だ。痕は若干残るだろうが、嫁に行く訳でもない。気にしなくていいだろう。日に焼ければ分からんさ」
治療を終えて、俺は診察室で医師の男と対峙していた。傍らには腕を組んだ岳が佇んでいる。
医師の名は副島と言う。年の頃は四十代半ばくらいか。
羽織った白衣の前を全開にし、医師にしては清潔感のかける長めの髪をかきあげながら、カルテに何事か書き込みそう口にした。
鼻にかかった眼鏡がずり落ちるのを直しつつ、治療が夕食時だったせいか、時折げっぷを飲み込んでいた。
大丈夫か?
やや不安にもなるが、岳も信頼しているのだ。信用するしかなかった。
「しかし、素人が巻き込まれて…。大和君も怖かったろ?」
副島はカルテから顔を上げると、同情の目を向けて来た。
「喧嘩は慣れてるし。まあ、本気で切られたことはなかったけど…」
「細い割にいい身体してるしな? 鍛えてるだろ? なんかやってるのか?」
「鍛えるって程は…。現場のバイトで鍛えられたのかも。あとは、前住んでたアパートに元プロボクサーとタイ人でムエタイのできる奴がいて、たまに遊びで教わってたくらいかな?」
「なかなか面白そうなアパートだな?」
副島は眼鏡のブリッジを上げながら和やかに笑う。
「お前、格闘技ができたのか? ならどうして大人しくやられた?」
岳が眉をひそめて尋ねてくる。俺は視線を床に落としつつ。
「だって、相手は俺を亜貴と間違えてるんだろ? ひ弱な高校生がムエタイやらボクシングやらできたら、いくら何でも可笑しいだろ?」
「相手に気づかれない為に大人しくしてたのか?」
岳はいささか呆れた様に問い返す。
「まあ、そうなるな。俺でまだ良かったって」
すると副島は頷きながら。
「岳、いい用心棒を雇ったな? 新しい若衆か?」
「副島。何時代の話だ。大和は用心棒でもないし組員でもない。うちの家政婦だ」
岳はムッとしたようにそう返すと、俺を見下ろし。
「亜貴を守ってくれたことには感謝する。けれど、代わりに大和がケガを負うのはいただけないな」
「どうして?」
せっかく亜貴が無傷ですんだというのに。
俺は納得が行かず聞き返すが、岳は鬱陶し気に乱れた前髪をかき上げた後。
「前にも言ったと思うが、お前は家にいる間は家族だと思っている。その家族が傷を負って、喜ぶと思うか?」
「ん…」
家族。たまに出てくるキーワード。
でもさ。俺は借金を支払い終えるまでの間だけで。
いつか、真琴と話していた時にも感じた寂しさが蘇る。すると、横から副島が引き取って。
「岳はこう見えて、結構熱い男だからな? 鬱陶しいだろうが暫く付き合ってやってくれ。岳の友人として頼む」
「なんでお前が俺の事を頼むんだ? 大和、今日から暫く家事はしなくていい。抜糸が終わるまでは大人しくしていろ」
「なんでだよ? 俺動けるって。殴られたのなんてたいしたことねぇし。冷蔵庫の食材、腐らせる気か? 買ったばっかなのに…」
牧に言って結構大量に購入してもらったのだ。肉や魚は冷凍できても、野菜はすぐにいたんでしまう。
せっかくメニューも考えて用意したのに…。
しょぼくれていると。
「俺がやるからいい」
「は?」
聞き間違いかと思い顔を上げた。岳は淡々とした口調で続ける。
「昔は自炊してたんだ。今はやらないがな。弁当までは手が回らないが、朝晩なら作れる。お前の抜糸が終わるまでやろう」
はぁ。これはまた。
俺はまじまじと岳を見つめた。
ヤクザのくせにモデル並みに格好良く、性格も人当たりが良く悪くない。しかも料理までできるとは。
俺へちょっかいを出す事さえ除けば、受けない筈がない。
「岳、モテモテだろ?」
「は?」
今度は岳が聞き返してきた。それを傍らで聞いていた副島が笑い出す。
「お前らいいコンビだな? いや。確かに岳は大モテだ。男女構わず、組の連中にもな? 今度の諍いもそれが原因なんだろう? お前は若頭補佐の楠と人気を二分してるからな」
「副島。余計な事言うな」
岳が睨み返すが、
「なんだよ。余計なって。やられた俺に話してくれてもいいだろ?」
俺は食いつく。岳はため息を漏らすと。
「…そうだ。うちの組は後継に俺を推す者と、補佐役の楠を推す者とで割れているんだ」
初耳だった。だから周囲が荒れているのか。
副島はイスを軋ませながら腕を組むと。
「しかし一体誰だ? 組長の息子をやろうなんてバカは」
副島の問いに岳は唇を一度引き結んだあと。
「真琴から報告を受けた。やったのは楠の実の弟だ」
「楠の? なんでまた…」
副島は素っ頓狂な声を上げた。
それには答えず岳は端末を胸元から取り出し、一枚の画像を見せてきた。
「この中にお前をやった奴はいるか?」
柄の悪い連中がどこかの繁華街で仲間とたむろして笑っている姿。隠し撮りだろう。
確かに中央に立つ人物は、俺を殴ってきた男だった。
「このアッシュグレーの奴、こいつだ」
見間違うはずもない。何のためらいもなく、頬を切ってきた。そういったことに慣れている風なのが伺えたが。
「亜貴の証言でそうだと確信したが、これで決まりだ」
口を引き結んだまま、端末を懐へしまうと。
「奴は兄の楠を相当慕ってる。鴎澤組を継ぐのは楠だと思っていただろうからな。兄の邪魔になる俺への脅しだろう。組員でもないから、うちに何の義理も感じていない。組長の息子だろうが関係ないだろう」
「どうするんだ? 楠は親父さんと親子の盃交わしてんだろ。親父さん、怒ってんだろう?」
副島は身を乗り出すが、さあなと軽くかわして。
「病院にいる親父にも、楠にも電話で伝えてあるが、正式な報告は明日だ。楠には先に弟を押えろと伝えてある」
岳の口調も表情も淡々としているが、怒りの色は見て取れた。
「兄を思うあまり、か。あんな奴でもそんな感情があるんだな…」
俺のつぶやきに岳は。
「兄を思う故もあるが、それを理由に暴れたいだけだろう。生粋のチンピラだ」
それから副島を振り返ると。
「色々すまなかった。治療代は組へ回しておいてくれ。大和、帰るぞ」
言うと、大和の背に手を回し支えるようにして、イスから立ち上がるのに手を貸してくれる。
「岳。大丈夫だって」
「このケガは俺の責任だ。好きにさせてくれ」
きっぱりと言い切られ、俺は継ぐ言葉を失くす。そんな俺たちを、副島はニヤニヤしながら見つめ。
「岳。お大事に」
その言葉に、岳はきっと睨み返した。
+++
診察室を出た所で、傍らの岳を振り仰ぐ。
「なんで俺じゃなくて岳に『お大事に』なんだ?」
「…ふん。あいつがバカな勘繰りをしているだけだ」
「バカな…?」
そこで岳は、ふうっと深いため息をひとつ吐き出すと。
「まあ、あながち間違ってはいないだろうが…」
「?」
突然、肩を引き寄せられ、岳の胸元に額が当たる。気がつけばその腕の中だ。
薄暗い廊下には誰もいない。
俺は岳の腕を突っぱねようとは思わなかった。
「本当に命にかかわらなくて良かった。もし何かあったら、俺は後悔してもしきれなかった…」
「岳…」
「大事な家政婦だ。…いや。家族の一人だ」
ふわりと心の内が温かくなったと同時、寂しさもつのる。
俺は岳の胸に頭を預けながら、ずっと思っていた疑問を投げかけた。
「俺は借金を払い終わったら、家政婦も終わりだ。あのマンションを出て行くことになるんだろう? そうしたら、俺は他人で。家族って言ってもそこで終わりじゃ…」
「そうだな…」
肯定しながらも、岳の手は更に俺を抱き寄せる。爪先立ちになって、岳の腕に抱えられていた。
出した言葉と行為が重ならない。
胸の内にきゅっと苦しくなるような、甘酸っぱい気持ちが生まれた。
なんなんだ? これは──。
俺は岳の着ていた血の付いたシャツの胸元を、ギュッと握りしめた。




