聖歌隊は天使様の夢を見るか?
作者がこういう夢を見ました。
私は幼き頃より聖歌隊におります。
私は幼少期からこの歌声を周囲の大人たちに褒めそやされて育ち、美しい声だという自負もありましたから、七つになる年、聖歌隊の試験に向かいました。天使様と神様を讃えるために歌い、天使様と神様の敵を裁くために戦う、名誉ある御役目です。実際、彼の番になるまでは私の声が一番でした。
彼。そう、彼です。私たちの代には彼がいたのです。純黒の髪、凛々しい顔、そして神様に祝福を受けたかのように美しく澄み渡る声。その声の畏ろしいまでの美しさに、私は彼が不正を働いているのではとさえ思いましたが、そこに不正など無く、それはまさしく彼に授けられた天性の声で、私は彼を本物の天使様だと思いました。そう思わなければ、私は自信を失い、彼を憎んでしまいそうでした。
やがて試験を通過した者は聖歌隊を育成する学校に入りました。私と彼ももちろん入学できました。そこは全寮制で、幼いうちは外出すら許されていませんが、皆お役目のために寂しさを耐えて修練に励みました。
最初こそ私は彼に嫉妬し、彼の才能を邪魔に思いましたが、どれだけ衝突しても最後には笑顔で私を受け入れて共に上を目指そうとする彼に、いつしか私は心を許し、気づけば私たちは一番の友となっておりました。楽しい年月でした。互いに聖歌隊としての歌と剣技を磨き、私たちは凛々しい青年に成長しました。
けれど、休日の外出が許される年齢になり、それからまた年月を重ね、先輩よりも後輩の学年のほうが多くなった頃に、私たちの平穏は終わりました。
ある日の外出時のことです。私たちは一人の孤児を見ました。白髪の幼い少女です。随分と薄汚れた格好で、お腹も空かせているようでした。私たちは少女を保護して教会に連れて行こうとしましたが、途中で少女は無法者の男に目をつけられました。どうも酒を飲んで眠っている男の食料を盗み取ろうとしたようです。
私たちは男の説得を試みましたが、男は聞く耳を持ちませんでした。男が酒を飲んで昂っていたのも良くなかったのでしょう。男は少女に斬りかかり、そして、少女を──私の友が──彼が、庇ったのです。
倒れ伏した彼に駆け寄ると、彼はぴくりとも動かず、頭がぱっくりと割れて、そこから夥しい血を流しておりました。私は思わず立ち止まりました、彼の、死を悟って。
けれど男は再び彼に攻撃を加えました。動かない者にとどめを刺すように。やめろと叫びましたが男は止まらず、次に少女を狙いました。私は剣に手をかけましたが、上手く体が動きません。
聖歌隊では、一定の年齢になると剣を与えられます。我々は聖歌隊として天使様と神様を讃えるだけでなく、天使様と神様の代わりの執行人として敵を斬る御役目もあるのです。
つまり、これは神々のための剣です。神々が人間を裁くための剣です。
ですから、人間が人間を裁くために使うことは、決して、何があっても、やってはいけないのです。
神々の剣を、神々の命令無く血で汚すことは、聖歌隊の禁忌。これで斬っていいのは、神々の敵、神々にとっての罪人だけなのですから。
だから彼は、男を斬るのではなく、身を挺して少女を庇うことを選んだのです。それこそが聖歌隊としてあるべき姿でしたから。私もまた、あれほど習って上達した剣を、抜くことすら躊躇いました。目の前で彼が殺されたというのに!
……そして私の逡巡の間に、少女も殺されました。男は私を見ました、私のことも、殺す気でした。恐ろしくなりました。周囲には私たち以外誰もいませんでした。誰も見ていないという囁きが頭の中で聞こえました。地面には親友だったものと少女だったものが転がっていました。悲しくて憎くて死を恐れて、私は、
私は、剣を、使いました。
憎しみに任せて、剣を振るいました。神々に賜った、誇り高き聖歌隊の剣を、人間の都合だけで使いました。人間が人間を裁くために血で汚しました。友を喪失した悲哀、友を奪われた憎悪、何よりも自らの死への恐怖という人間らしく穢らわしい薄汚れた感情によって!
いつかの昔、彼を天使様だと思った日のことを、思い出しました。初めて彼に会ったとき私は彼を、本物の天使様だと思ったのです。だから、天使様を傷つけた相手を裁いたのだから、この剣の使い方は正当だと──そんなことを考えて、心底嫌になりました。
彼は天使なんかじゃない。人間だ。天使様だと思ったのは、ただ彼の美しい声を讃えるためで、こんな、殺人の正当化に使うためではなかった。こんなことに使いたくなかった。彼は、私と同じ、人間だ。
幸い私たちのことは誰も見ていませんでしたから、私は返り血を必死に拭い、一人で聖歌隊の校舎に帰りました。
彼と男と少女の死体はすぐに通行人に発見されて騒ぎになりましたが、目撃者がいないために、少女を守るためにやむを得ず彼が男を殺して相討ちになったのだという結論に達したようでした。聖歌隊にとって彼は神々の剣を人間のために振るった罪人となり、民衆にとって彼は禁忌を冒してでも少女を救おうとした悲劇の英雄となりました。
真相を知っているのは、私だけです。そして私は、今まで一度たりとも、ついに真相を明かせませんでした。私は、彼に殺人の罪を被せたまま、老いた今となってものうのうと聖歌隊に所属して、次世代の子供たちに師範として剣を教えております。私のような、冒した禁忌を明かすこともできない、臆病な恥知らずが、です。
──ああ、神様、申し訳ありません。私は、あなたをもはや信じられない!禁忌を冒したあの日から、私はもうあなたを信じていないのです!禁忌を冒しながら一切の罰を受けることなく私が聖歌隊に所属し続けたことこそが、あなたの存在を否定する証左となる!
だってそうでしょう、あなたが存在するというのなら、真に禁忌を冒した私を赦すわけがない。彼を殺人者にしたまま生きる私に、その御力でもって罰を与えるはずだ!そして彼の罪を晴らし、私の代わりに真相を知らしめるはずだ!
それが無かったということは。神様など、きっとどこにも存在しないのです。聖歌隊も民衆も、虚構を信じ続けているのです。私たち人間の世界に、神様など、いませんでした。
──それでも。それでも私は、未だ神様を信じている者たちを、愚かと笑うことはできません。
私は、神様をもはや信じられません。けれど、ああ、笑ってください。私は、天使様の存在ならば、未だ信じているのです。
いいえ、信じているわけではないのかもしれません。縋っている。天使様はきっと必ずいると、信じて、縋っているのです。
私はある日夢を見ました。美しく眩い宝石が幾つも転がっている真っ暗な空間に、たくさんの天使様たちが一つの椅子を囲んで集っている夢です。その椅子には、一人の少年が座っておりました。
それはまさしく、初めて出会った頃の彼でした。
天使様たちが椅子の前に置かれた鏡を示すと、鏡の中に映る彼の姿がゆっくりと変化していき、やがて鏡の中の彼は青年の姿に成長し、真白に煌めく立派な翼を持った、天使様になりました。
そして椅子に座った彼もまた、立ち上がってこちらを向く頃には、天使様の姿になり、穏やかでいて決して人間にはできない笑顔を浮かべました。
そこで私の目は覚めましたが──私は以来、彼は本当に天使様になったのだと、信じております。本物の天使様のようだと思った幼き頃の幻想ではなく、本当に、事実として、死んだ彼の魂は天使様たちに掬い上げられて、冤罪も禁忌も赦されて新たな天使様になったのだと。
それならば、私が彼に被せてしまった現世の罪も、赦される気がして。
まったく、まったくもって、愚かしい話です。
この手紙は、どうぞあなたのお好きになさってください。
これは私の、懺悔です。