II「新天地」-③「少女との出会い」
右を見る。奥が暗くて見通せない、それだけ長い廊下だとわかる。
左を見る。右ほど長くはない……がトイレは無さそうだ。
「はっ!」
アスカは、寝る前にフレネットが隣の部屋にいると言っていたことを思い出し、そして激しく渋い顔をした。
――お姉さん怖いからトイレついてきてぇ?
「却下」
仕方なく左を選択。突き当りを更に左に曲がる。
歩く--「うわっ!?」全身鎧。
歩く--「ひょえっ!?」石膏像。
歩く--「ほあっ!?」母子の肖像画
これが明るい時間に案内付きでの城内案内であれば、見たことのない芸術品や骨董品の並んだ海外の美術館にいるような気持ちで楽しめただろうが、今だけは無理だ。鎧は月明かりを反射する斧を持ち目の奥を見通せないヘルメットを被り、石膏像は今にも動き出しそうなほど柔らかな輪郭をし、肖像画は妙にリアル。それら全て不気味でしかなかった。もはや海外版お化け屋敷である。 アスカはプルプルと肩を震わせた。
「ルネッサーーーーンス!!!!」
そして走り出した。内股、小幅、ストトト。
何度も驚いたせいで膀胱の主張が激しさを増す。限界はすぐそこまで迫っていた。
何度目かの曲がり角を曲がったところで、明るい廊下に出た。光源は月の光。屋根で切り取られ斜めに差し込んだ光が廊下の床を照らしている。
--勝ったな。
壁や窓で遮られていない渡り廊下から外に飛び出し、人目につかない場所を確認。充填はとっくの昔に済んでいた。即座にチャックを全開、筒を取り出し照準を合わせ発射した。
「えーゔぃでぇーい、あぁいリッすんとぅーまいハー。ひぃとりじゃーなーいー」
開放感。アスカは鎖から解き放たれた。異世界にようやく体が馴染んだような気がする。
月に照らされる庭の緑、
鼻からいっぱいに吸い込む空気
足元にできた水たまり。
全てを愛おしく感じた。
「このそーらのみむねにー、ふんふふふんふーんふーん……ふぅ。」
ぼんやりとしながらズボンを上げる。そしてチャックを上げようとした時。
--パチパチパチパチ
場違いな拍手の音。焦ったアスカの手元が盛大に狂う。
「あぎゃあッ!?」
命の次に大事なものを挟んでうずくまるアスカの背後すぐ側まで歩いてきた何者かが立ち止まった。
なんとかチャックを外せたことにアスカは安堵したが、別のことで頭がいっぱいだった。
--誰だ。俺の後ろに立っているのは!?
窮地において走馬灯を見る余裕はなく、数秒後に訪れ得る未来のことで頭が一杯だ。
ヴィロージ伯なら斬首。べネロさんや城内の職員ならヴィロージ伯に報告のち斬首。レギーナさんならなんか打ち込まれそう。フレネットさんなら土下座のち自首。
「大丈夫?」
訪ねる声は--女性のもの。そしてフレネットでもレギーナでもない
「あっはは、今晩は冷えますねー…冷えすぎて夜露であちこち濡れてますし」
「さすがにどうなのそれ」
「ですよね。」
アスカは土下座した。
「--というわけなんです。」
アスカの釈明を聞いた少女はとても大きくため息をついた。
呆れる少女を見ながら、あまり歳は離れていないだろうなとアスカは思った。
こちらの世界に来て初めてのアジア系の顔に親近感を抱いて口が軽くなり、つらつらと不要はことも口走ったような気がする。口数が多くなったのは親近感だけが要因ではなく、実際には少女の顔がアスカのストライクゾーンど真ん中で、なんとかして名誉挽回したかったこともある……というかそれが9割だった。
「いくら渡り人だからってやりすぎたらダメじゃん。」
「あれ?なんで俺が渡り人って」
「うーん、話聞いてたから。べネロから」
「べネロさんから!?頼みます、どうかこのことは内密にしていただけるとッ!」
「言えるわけないじゃんこんなこと……貸し一つね」
「本当にありがとうございます!」
「もういいって。移動しよ。ここ匂うし。」
「ごめんなさい」
少女の後ろをついていく。背は高くない。160ないくらいだろうか。でも均整な体型だ。夜の暗がりでも艶めく瑠璃色の髪も相まって、現実離れした美を感じる。
彼女をヒロインにしたいという衝動がアスカの頭をもたげる。胸が熱かった。
「ちょっと寄り道するね」と少女は振り返らずに言う。「はい」と応える。
少女が立ち寄ったのは厨房だった。「茶葉どこだっけなー」とか「料理はっけーん」とか呟きながら色々と物色している。
「お待たせー。これあげる。持って。」
「うわっとっと……」
軽くて大きな紙包みやら飲み物の瓶やら料理の載った皿やら、色々渡されて手が一杯になった。一方少女はスタスタ歩きながら何か缶のような入れ物の蓋を開けて「んー!いい匂い」とご機嫌だ。
「……っとっと、と、あっ!」
アスカは皿を落とした。
「危ない!」
前を歩いていた少女は振り向き、すんでのところで地面に落ちる前に皿をキャッチした。
「台車みたいなの使おっか。」
「ぜひお願いします。」
結構な距離を歩いた。台車を押しながら。
一つの建物ではありえないほど。渡り廊下を通ったり庭園を抜けたりしていくと、装飾が控えめな造りになっていった。別の区画に入ったのかもしれない。
少女は並んだ扉のうちの一つの前で立ち止まって「ここが私の部屋」と言った。
「えっ……いいんですか?」アスカの顔が熱くなる。
「んー?ふふ、どうぞ?」少女は振り返り、首をこてんと傾けニコリと笑む。
アスカはハートを撃ち抜れた。
配膳ワゴンは部屋の外、入り口付近に置いた。女の子の部屋に入るという、滅多にない経験。様々な感慨や感情とともにアスカは歴史的な一歩を刻んだ。入室するや気づかれないように息を目一杯吸い込んだ。俗に言う女の子の部屋の甘い匂いを期待して。しかし期待とは裏腹に少しの埃っぽさを感じた程度だ。
「あれ?」
「どうかした?」
「いやー……何も?」
「そ。適当に座っていいよ……て言っても椅子は一つだけか。」
「俺床でいいですよ」
「いやいや。それは悪いよ。私はベッドに座るから、遠慮しないで」
少女がベッドの端に畳んで寄せられていた布団を敷くのを、アスカは恐る恐る椅子に座って眺めていた。
「どれくらいこの部屋に住んでるんですか?」
「今日からだよ?さっき城に来たばかりだから。」
先程解放した気になっていた女の子の部屋に入るという称号に、アスカは再び鍵をかけた。その間も少女はテキパキと作業を進める。
「よし、準備完了!やっと座れたー!」
「お疲れさま?」
「ありがと?」
なんて声をかけるかわからずにアスカは疑問形で労い、それに合わせて少女は疑問形で返答する。
「……」
「……」
開けた窓から流れ込む涼しい風がカーテンを揺らす。穏やかな雰囲気だ。
少女がクスッと笑う。
「あー、お疲れさまだよほんと。」
「何してたんですか、って聞いても?」
「いいよー。2週間くらい森に篭っててね。」
「へー。キャンプですか?」
「キャンプ……まあそんな感じか。」
「何のために、って聞いても?」
「いいよー。まあパシリかな。ちょっと薬草とか取ってきてーって。」
「何の職業なのか、って聞いても?」
「いいよー……いい加減堅苦しいよ。タメで行こ?年もそんなに違わないだろうし。」
「いいんですか?あっ……いいのか?」
「あはは、余計ぎこちなくなってない?」
アスカは頭をかく。
「じゃあ遠慮なく。」
「うん。ちなみに職業は開拓者だよ。」
この瞬間、アスカは開拓者になることに決めた。
「へぇー……そういえば俺も開拓者になるんですよねー、べネロさんに勧められて、これから。」
「そうなんだ。ふーん……」
「なんかやばい?」
「うん?……ううん。いいと思うよ。ていうか、まだ名前言ってなかったじゃん。」
「あ、そういえば。」
「私はラズ。よろしくね。」
「俺はキリュウアスカ。よろしく、ラズさん」
「ラズでいーよ。よろしく、アスカ」
女の子の笑顔は魅力的だ。美少女なら尚更。自分は今どんな顔しているかとか、相手が自分のことをどう思っているかとか、気になってどぎまぎしてしまう。
「さっ。食べよ。」
ラズは配膳ワゴンから好きに料理をとっていく。アスカもラズに習った。
配膳ワゴンがあるなら、と料理の載っていない皿も持ってきたので、プチバイキングのようだ。
「いただきまーす。うーん!おいし〜。やっぱ肉はこうでないと!干し肉とか論外!」
ラズが舌鼓を打つ。アスカは手に持った皿に視線を落とし、少女とは別の料理だが黄緑色のソースが掛かった皮付きの白身にかぶりつく。
「!」
旨味の暴力、香りの癒し。空腹と相まって料理を口に運ぶ手が止まらない。
「すげぇ!これすごい美味いよ!」
「おー、めっちゃいい食べっぷり。私もマネしよ!」
アスカはラズと競うように腹一杯に料理を掻き込んだ。
一息ついてお腹が落ち着いてきた頃、ラズが「お茶いれよ」とヒョイと立ち上がる。
「手伝うよ」とアスカも立ち上がる。
ラズは「お言葉に甘えちゃお」と言ってアスカに任せたが、すぐそばに立って丁寧に指導してくれた。ときどきラズが手元を覗き込んできた拍子にラズの肩あたりが肘に触れ、その度にアスカは知られない程度に身体をピクリとこわばらせた。
「上手上手」
「先生の指導の賜物です。」
「どうもどうも」
アスカは2つのグラスに褐色の液体を同じくらい注いだ。ラズは鼻に近づける一嗅ぎし「んぅ〜」と顔を綻ばせた。
アスカは紅茶に口をつける。温かくて香り高い。麦茶と比べると香りが強く刺激的なはずだが、素朴で、どこか落ち着く不思議な味。「ほぅ……」と思わず吐息が漏れる。
「美味しい?」
「とっても……」
「うんうん」
アスカは目を閉じていた。流し込んだ液体が体の内側をじんわりと温める感覚に感じ入っていたのは間違いなく理由の一つだ。しかしそれ以上に、きっとラズはアスカがお茶を愉しんでいることに喜んでくれてそうで、白い歯がチラッと見えて笑窪がポコッとできたすてきな笑顔を向けてくれていそうで、それを直視することが気恥ずかしかったから--というのは建前だった。
「……」
何話せばいいのか分からなくなっていた。滅多なことを言ったら自分の底の浅さが露呈してしまう。ラズの笑顔に応えられるほどのことが思いつかない。自ら上げすぎたハードルの前で進むことも退くこともできなくなっていた。
「ラズといるとなんか落ち着くなぁ……なんて」
アスカは混乱した。
「おっと。えー?もしかして告白?」
「いや!そんなんじゃなくて--……」
「くす。だから慌てすぎだってば。全然落ち着いてないじゃん。」
全くだ。
「まぁ、なんとなく分かるかも。顔のつくりが似ているから、とかかな。」
「そういえば。……もしかして、ラズって渡り人?」
「私?私は違うよ。そういえばいつかべネロが、遠くに私やアスカみたいな顔つきの人たちがいる国があるって言ってた。」
突然ラズの口からべネロの名前が出てきて、アスカは縄張りが荒らされたような気がした。
「……べネロさんって身分高そうだけど、呼び捨てしていいの?」
「だいじょーぶ。親みたいなもんだし。」
予想外の返答にアスカは固まる。ラズはそれを続きを促す沈黙と捉えた。
「小さい頃のこと、全然覚えてないんだよね。けど、さっき話した国––––私たちみたいな顔つきの人が多い国で、私を拾ったんだって。それで育てられた。」
ラズが歩んできた壮絶な過去は想像を絶するものだ。先ほどまでラズと自分は地続きだと感じていたのに、今は椅子とベッドの手を伸ばせば届く距離ですらアクリル板に隔てられている気がしてくる。
「あの、なんていうか……ごめん」
「いーよいーよ、気にしないで。私が気にしてないんだもん。よくあることだし。」
親がいないことがよくあるって?何の冗談だ。日本と勝手が違いすぎる。
この世界でアスカは異物だ。ラズと話していても全く孤独感が拭えない。
アスカは黙りこくった。
「ねぇ、だいじょうぶ?」「ん……」「ほらおかわり」「……」
グラスが渡された。アスカは注がれたお茶を飲んだ。
「んぐぶッ!?」
むせた。
「あははは!」
「ンッツァアアア!!!」
舌、喉、食道を灼いて胃に流れ込むこの液体は、まさか酒か!?
ラズを睨む。何をするのかと。
「おいし?」「……強烈。」
よかったとラズはケタケタ笑う。
「ほら!もっと飲も飲も!」
「おれみせいね――――」
「そらー!」
アスカの意識は漂白されていった。
「ヒック……グビグビグビ……」
「おぉ~いい飲みっぷり!」
パチパチと手を叩く音が聞こえる。
「見てるだけはずるいだろ。ラズも飲めよ。」
「はいはい。もう、無理やりだなぁー」
「……ンガ!」
「ちょっと寝ないでよ〜ほら飲んで起きてぇ」
「ぐびぐび」
あぁきもちぃな。きもちぃなぁ。
「あ、ちょっと!」
世界が反転した。椅子から転げ落ちたようだ。
「うぷ」
「ちょっと待ったちょっと待った!」
胃からせり上がるものをそのまま吐き出す。
「オゲェぇエェぇえ!」
耳元で「セーフ……」と声が聞こえるが構っていられない。
口から何かを喉に向かって突っ込まれる。異物が口の奥を這い回ったと思ったら今度は鳩尾あたりを突き上げるように圧迫された。もちろん吐いた。
何かを飲まされて、圧迫され、吐かされ。また飲まされて、圧迫され、吐かされ。
何度か繰り返してぐったりとしていると、今度はフワッと体が地面から離れた。少しして背面全体に弾力を感じた。
ぐわんぐわんと歪む視界に、覆いかぶさるように映る誰か。離れていく腕を掴んで引き寄せる。たくさん吐かされた仕返しだ。
「うわっ、ちょっ!」
ちょうどいい重さの布団だ。柔らかくて温かい。
「酒癖悪すぎ……」