II「新天地」-①辺境伯との謁見
時刻は夜。空高く登った月の、澄み切った冷白の月光が世界を青々と照らし出している。
ここは、その月光を唯一の光源として、石材で作った煙突のような細長い円筒から取り込む奇妙な造りの部屋だった。
奇妙なのは採光方式にとどまらない。部屋、と述べたがそれは正確な表現ではないだろう。巨大なドーム構造――中が空洞の半球とでも言えばいいのか、それに細く長い煙突もどきが、外から見れば斜めに棒のように突き刺さっている。『部屋』というには人が住まうのに適していない。石造りの円筒が空に向かって口を開いており、雨が降れば必ず床に水たまりができてしまうからだ。
ドーム状の空間の内部には青白い発光体が靄のように揺らいでいる。その光は広大なドーム内部を照らすには月明かりでは足りない明るさを補い、不十分ながらも空間内部の様子を照らし出していた。
円筒から差し込む月明かりの延長線上に、磨き抜かれた黒曜の石台がある。大きさはちょうど人一人が寝そべることができるほど。
その石台を取り囲む者が十人ほど。全員が同じ格好―全身を覆う黒いローブを被っている。体の大きさに対してローブのほうが必要以上に大きいせいで外気に触れているのは指を一本ずつ交互に組んだ左右の手と顔のみ。その顔もフードが大きいため、中で影になっている。正座で、猫背になって前のめりで、両手を組んで、祈りを捧げるような姿勢だった。
「〜〜〜〜、〜〜〜〜――、〜〜〜〜〜……」
小さな声で、黒ローブの集団はうわ言のようにブツブツと呟く。そのつぶやきの内容はひどく抽象的で、ひどく独善的で、ひどく妄信的で、ひどく情熱的。どのつぶやきも話していることに一切重複がない。それなのになぜかまとまりや指向性を感じさせる。
つぶやきに合わせて、彼らの足元に描かれた文様が発光する。彼らの体から、中心の石台に向けて分岐したり、合流したり、細くなったり、太くなったりして、伸びる光の筋が描いた文様だ。その光は、最初は弱く間隔も長かったが詠唱が進むにつれて次第に強く、そして発光間隔が短くなっていく。ドクン、ドクンと脈動するように。
そして光がドーム全体をまばゆく照らし、それでもなお勢いをまして行き場をなくして逃げ場を求めるように、石円筒から一条の光が月に向けて射出された。
キイイイイイィィィィィィィィィィィィ――――
光が収まり、ドームは一部を除いて元通りとなった。
すくりと一人の黒ローブが立ち上がって、石台に歩み寄るとそこには青年が横たわっていた。意識はなく、黒ローブが近づいても起きる気配がない。
ふと、黒ローブは右手を開いた。
「〜〜…〜!」
何事かをつぶやいた次の瞬間、その手に先が鋭く尖った黒い杭が握られていた。
黒ローブは慣れた手付きで青年の右胸に杭を刺した。青年の胸から血が吹き出すことはなく、黒い杭はすぐに消えた。
青年に杭を刺した黒ローブが他の黒ローブに向けて指示を出すと、彼らは青年を担ぎ上げてドーム状の空間から出ていく。
月は一連の出来事の間にも刻一刻とその位置を変え、もはや石でできた円筒には光が差し込まず、ドーム状の空間は闇に閉ざされた。
***
暖かな白い光が天から燦々と降り注ぐ時間。大きな窓は光を集めて部屋の照度をそっと上げている。
時間の流れを忘れさせるほど穏やかな静寂に満ちる部屋だった。『機能美と造形美を両立した』という表現が似合う。華美にならず、されど粗末にならないように絶妙な感性で家具が配置されていた。窓際に置かれた机、年季を感じさせる分厚い本が並べられた本棚、部屋の一角を陣取るベッド…その全てが、素材である木の選定から仕上げの艶出しまで一流の家具職人によってなされたものだった。
ベッドには使用者がいた。黒く短い髪の青年だ。起きた直後で意識がはっきりしていないのか、先程から首をゆっくり動かして部屋の中を眺めている。
「保健…室……じゃない?」
青年の手が、ベッドの脇に置かれた台の上にある呼び鈴にそろりと伸びる。押すか押すまいかという少しの逡巡の後、えい、と押した――直後にこれまた木製なのにツヤツヤと光る深い茶色の扉が開き、細身の体を仕立ての良い青い装いで包んだ背の高い女性が入ってきた。
「お目覚めになりましたか?おはようございます、お体の調子はいかがですか?」女は柔らかく微笑んだ。
「えーと…体調はいいんですけど、その前にお尋ねしたいことがありまして…」
「どうぞなんでもお聞きください。」
「あ、ありがとうございます…そしたら遠慮なく。ここは、どこですか?変なこと言うかもしれないのですが、私、こんなに高級なベッドで眠った覚えが無くて…」
青年の言葉をしっかりと聞いて、長身の女は「そうですね…」と思案顔になってから、
「私から話すのもやぶさかではありませんが、もし勇者様の体調がよろしければ、先にある御方に会っていただきたいです。きっと貴方様が抱えている疑問も解決するので。」
「え、ユーシャサマ?」
「はい、勇者様」
何かの間違いかと思って確認した青年に、当然の事実であるかのように女はにこりと笑いかけて肯定した。
その後、洗練された手際で用意された着替えや履くものを促されるままに身につけて、青年は女と連れ立って部屋を後にした。
***
赤い絨毯の敷かれた長い廊下をアスカと長身の女は時々会話しながら連れ立って歩く。
「私はフレネットと申します。この城の使用人で、主に来賓の応対を任されており、今回勇者様の身の回りのお世話を仰せつかりました。」
一介の高校生だったのに、急に身辺のお世話をする人が付いてアスカは居心地の悪さを感じていた。
「えっと、『アスカ』と呼んでいただけませんか?急に『勇者』なんて大げさな呼び方されると荷が重いので…。」
「それは失礼しました、アスカ様。でしたら僭越ながら私からもお願いを一つ…私と話すときには肩肘張らずに、それこそ友人に接するつもりで話しかけてもらえないでしょうか?でないと私、明日から解雇されて路頭に迷ってしまいますので」
そう言ってフレネットは流し目を送る。唇は緩く弧を描いていて、冗談で言っているのだとわかった。
先程彼女が自分で言っていたように、使用人として来賓の応対などおもてなしを生業としているだけあって、距離の詰め方や話の主導権の握り方で敵わない。別に競い合う必要はないのだが。
ピンと張った糸のような雰囲気をまとっていて仕草がかっこいい。背が高いので宝塚に入っていそうだ。女子校で女子から「王子さま!」って愛される先輩も似合う。
何度も角を折れ曲がり、時には庭園の脇の廊下で離宮からより大きな区画に移動するうちに、明らかに漂う雰囲気が変わる。人が通るには明らかに幅広く天井が高い回廊やその先にある歴史を感じさせる扉に、アスカが空気が重くなったような息苦しさを感じた。勝手に気後れしているのか、あるいは絵画や壺、絨毯や回廊の両脇に並ぶ金属鎧を着込んだ兵隊、それら全てで意図的に重厚な雰囲気を作っているのかもしれない。
フレネットが扉の前で立ち止まったのでアスカもそれに習う。そしてフレネットはとんでもないことをこともなげに言った。
「今からジフリーユ王国ベルサス領主ヴィロージ伯とお話しいただきますが、どうかご緊張なさらないでください。」
「へ?…伯!?いやいやいや…え、あ、え、貴族ですよね?ちょっとした無礼で首が飛ぶやつですよね!?」
「ふふふ。どうか落ち着いてください。ヴィロージ伯は寛大なお方ですので、些細なことで腹をお立てなさりませんよ。アスカ様のような『渡り人』の方々がこの国の礼儀作法に明るくないことは承知なさっておられますし。」
「そ、そうかも知れませんが…」
『渡り人』ってなんですか、と質問したかったアスカだが、フレネットは更に前に進んで扉をノックしていた。
『些細なことでは腹を立てない』そうだが『首が飛ぶ』ことは否定しなかった。安心できる要素がない。
緊張して襲ってきた腹痛に、アスカはお腹をさすった。
おならしたらどうしよう。死刑にならない…?
アスカの悩みなどお構いなしに、大きな扉がズズズ…と音を立てて迎え入れるように開いた。
「さあ、行きましょうか。」
フレネットの左側一歩遅れてアスカは謁見の間に足を踏み入れた。
***
「よくぞ来てくれた、異界の勇者よ。貴殿とこうして話ができることを大変嬉しく思う…」
「はっ!ありがたき幸せ…」
フレネットに倣ってひざまずいたアスカの視線は地面を向いていてヴィロージ伯のご尊顔は拝めていない。しかし玉座の間に入る瞬間に少しだけ見えた姿と語りかける声には常人には真似できない力が宿っていた。
「そう固くなるな、異界の勇者アスカよ…余はそなたに数年来の友人として接するつもりである…どうか、そなたも同じようにしてくれると嬉しい…そうだな、まずは顔を上げてほしいのだが…」
相手の希望であれば仕方ない。顔を上げ、初めてまざまざとヴィロージ伯の顔を見た。その顔に刻まれた皺やたくわえた白ひげが威厳を添えている。
同じ皺やひげなのに、パチンコに並ぶ老人との違いは何なのだろうか…と思案するアスカに、ヴィロージ伯は気遣うような声音で話しかける。
「さて、おそらくそなたは、目を覚ましたら突然見ず知らずの土地にいて、何が何だか分からない、そういった心境なのではないだろうか…」
「は、はい。おっしゃるとおりでございます。」
ヴィロージ伯は「うむ…」と、アスカの言葉を噛みしめるように頷いてから、
「これから、そなたが今、置かれている状況の説明を学者のレギーナに、そして今後の予定をこのベネロに、それぞれ説明させる…その中にはきっと、にわかには信じがたいことや受け入れがたいことも含まれているはずだ…」
ヴィロージ伯の言葉にアスカは身構えた。
「ただでさえ不安であろうに、さらに底が見えないような絶望に襲われるかもしれぬ…そこでだ、何をおいても、まずそなたに伝えたいことがある…」
ヴィロージ伯は一拍おき、再びアスカと視線を合わせた。その両目に、決して逃すまいという力強い意思を込めて。
「我らはそなたの味方である…そなたの望みは最大限叶えるよう努める…このことをどうか、忘れないでほしい…」
アスカの両肩から強張りが取れて普段の高さに戻った。
「勿体なきお言葉…ありがとうございます。」
アスカの返答に対して、ヴィロージ伯は満足げに相好を崩し…なんと玉座から立ち上がり、アスカの方へと歩を進めた。
周囲の兵士たちが困惑でざわつくが、ヴィロージ伯は一切気に留めずにアスカの前に立つと、さらにアスカに向けて開いた右手を差し出した。
「この国に伝わる伝承では、三代前の国王の治世においてこの国は未曾有の危機に襲われた…その危機を救ったのがそなたのような『渡り人』であった。なんと礼を言ったらいいのか、そう困惑する当時の国王に向けて、かの英雄は『友だちは助け合ってなんぼだろう!」と言ったそうだ…」
跪いたままのアスカにヴィロージ伯は言った。
「立ち上がってくれ、アスカよ。そして我と『握手』を交わそうではないか…友の間の友好の証として…」
こうして国王とアスカは握手した。二人の手ががっちりと組み合った瞬間、玉座の間が歓声に満ち、楽団が祝いの演奏を奏でる。
「良い文化であるな。剣の間合で剣を握る利き手を握り合う…よほどの信頼がなければ無理なことだ…信頼を保証するにはこれほど『対等』という言葉に適った挨拶はきっとあるまい…我が国の文化として取り入れてしまった…」そう言ってヴィロージ伯は笑った。