夢
登場人物:沖田総司、斎藤一
望むのは。
旗本や大名になりたいとか、天下に名を知らしめたいとか、ましてや歴史に名を残したいとか、そんな大それたことではなく、理由もわからず泣いている幼子を、ただ抱きしめてくれた、大きな暖かくて優しい手を、護りたい。
たったそれだけだったのに。
自分にはそれすらも、過ぎた夢だったのだろうか。
「珍しいな」
「……っ! 斎藤さん、どうしたんですか?」
「それはこちらの台詞だ」
手狭になった八木さんのお家から、突然広くなった新しい屯所に染み付いた、白檀の香りにも慣れ、秋の深まった高く青い空を見上げながら、幾度目かのため息が自然と漏れたその瞬間、いつの間にか現れて隣に腰掛けたその人物に驚く。
すぐに、いつも通りの笑顔を取り繕って問いかけはしたけれど、確実に思わずびくっと跳ねてしまった身体に、気付かれたと思う。
気配を感じさせないのはいつものことで、剣士として生きているからにはそれはお互い様だったけれど。
『屯所の中でまで、仲間の傍でまで、そんなに気配を隠さないで下さい』
そう何度お願いしても、それが改善されることはなかった。
それでもきっと、わかりにくい位ほんの少し、自分にだけは気を抜いていてくれることを知っていたし、いつもはこんなにすぐ近くに来るまで気配に気付かないことなんて、滅多になかった。
だからこそ、この状況に驚いて、隣に座る動作を見つめたまま、暫く動けなくなる。
けれど、ただそこ座ったまま、特に何も用がない様子で、今まで自分がぼんやり見つめていた空をじっと眺めるその姿に、ふっと力が抜けた。
もしかしたら、心配してくれたのかもしれない。
心配されるような表情を見せていたつもりも、ましてや落ち込んでいたなどというつもりもなかったけれど、敏感な彼には、何かが伝わってしまったのだろうか。
「いやだな、私が刀の手入れをしていては、おかしいですか?」
「それ自体は、別におかしくはないが」
刀剣好きで目利きの彼とは違って、斬れれば良いという位の興味しかなく、いつもは必要最小限の手入れしかしない自分が、こんな昼間から刀を磨いていることに、きっと疑問を感じているのだろうと、冗談交じりで問いかけた言葉に返ってきたのは。
彼らしい、真面目な答えと呆れたような視線。
「……何でしょう」
「いくらなんでも、それはやりすぎだろう」
「え? ……っあ……、あはははははー」
返されたその視線と同じ場所を見ると、いつの間にか刀は真っ白な粉まみれになっていた。
どうやら空を眺めながら、無意識の内にずっと粉を叩き続けていたらしい。気が付けば、刀を持っている左手さえも、粉まみれになりかけていた。
確かに、これではどうしたのかと問いかけられれても、仕方がない。
どれだけ意識を飛ばしてしまっていたのかと反省するも、これといった言い訳も思いつかず、ただ乾いた笑いを返すしか、成す術が残されていなかった。
「どうかしたか?」
「何でもありませんよ」
「そうか」
「はい。ご心配をおかけして、すみません」
「別に俺は、心配などしていない」
「ですよね」
ふっと息を吹きかけて、適度に粉を吹き飛ばし、刀を鞘に納める。
そのまま、かしゃんと脇に置いて視線を高い空へと移し、流れる雲を二人して、ただ追いかける。
ここだけ時間の流れる速さが違うように感じるのは、何も聞かないで何も言わないで、ただそこにいてくれる存在が、心地良いからだ。
もし、ここにいるのが近藤さんや土方さんだったら、嘘でも何かなんでもないことの納得いく理由を、探さなくてはいけなかった。
永倉さんや原田さん、平助だったりしたら、もっと大騒ぎになってしまっていたかもしれない。
ふふっと漏れた笑い声に、訝しげな表情がこちらを向く。
「……何だ」
「ここにいるのが、斎藤さんでよかったなーって」
「あまり期待をされても、悪いが俺はそっちの気はない」
「それは、残念ですね」
つい珍しく漏らしてしまった本音に、それ以上に珍しい冗談で返されて、驚くより前に、口が緩む。
それは相手もそうだったらしく、お互い視線を合わせて、二人して笑い合う。
それは、暗黙の了解。
勘のいい彼が、同室の自分の変化に気付かないはずはなくて。
もしかしたら土方さん辺りから、調べろとか探りを入れろとか、言われているかもしれない。
それでも、黙っていてくれる。報告は、まだしない。
めったに見ることのできない、彼の穏やかな微笑みは、そう告げてくれていると思った。
日に日に短くなっていく、深く咳き込む間隔と、人を斬っていない日にも、零れ出る血の匂い。
軽い風邪だと、染み込んだ匂いだと、言い張れるのは一体いつまでだろう。
この混乱の時間も、そう長くは続かないだろうから、そんなに長い間じゃなくてもいい。
剣で誰かを護れる時は、きっともう終わりに向かっていると思う。
剣士としては残念なことだけれど。
人を斬り、斬られる日常が普通になる。そんな殺伐とした世界が、このままずっと続いていいわけがない。そんなこと、望まない。
だから、後数年で構わない。
季節がいくつか通り過ぎるまで、大好きな人を護る時間を。もう少しだけ、夢見る時間を。
そう願いを込めて、祈るようにそっと瞳を閉じた。