雪
登場人物:土方歳三、市村鉄之助
「見てください。一面銀色ですよ」
見渡す限りの雪景色の中へ飛び出していく後ろ姿が、重なる。
振り返ればきっと子供みたいに、嬉しそうな笑顔を向けてくるだろう。
この灰色の空を照らす、太陽のように。このぽっかりと空いてしまった心を埋める、光のように。
けれど、それが叶わない望みであることはとっくに気付いていた。
重なる後ろ姿が、本当は似ても似つかないものだということも。
いっそ本物の鬼となって狂えてしまえれば、どんなに楽だっただろう。
「……副長? どうかされましたか、土方副長?」
まるで自嘲するように洩らしてしまった、溜め息とも笑みともわからない吐息に気付いたらしい後ろ姿が、いつの間にか目前に迫り、心配そうな瞳を揺らめかせていた。
その顔は、やはり自分の望むものではない。
わかっていた結果だというのに、ほんの少しがっかりしている自分に気付く。
生意気に背ばかり伸びて、いつの頃からだっただろう、見下ろしていたはずの自分が、目線を合わせるのに上を向かなくてはいけなくなった。
『土方さんの考えてる事なら、何でもわかりますよ』
そう言い出しそうな無邪気な笑顔で、いつも誰もが恐れる自分の横に、自然と並んでいた男は、もういない。
目の前で、真剣に心配してくれている年若いこの隊士は、自分より頭ひとつ分も小さい。
見た目だって、似ても似つかない……と、思う。
それでも事あるごとに、重なる。
「……いや、何でもない」
「そう、ですか?」
「雪など、京でも江戸でも見ただろうに。あまりに嬉しそうに駆けていくから、驚いただけだ」
「すっ、すみません……あのでも、こんなに一面銀色の景色なんて見たことなかったので」
からかう様に自分の思考を誤魔化しただけの言葉に、慌てたように赤くなり、もごもごと謝罪するその頭に、ぽんっと手を乗せる。
「そうだな。野も山もあらゆるものが真っ白に染まる景色ってのは、俺も初めて見た」
「は、はいっ」
肯定の言葉にほっとしたのか、頭に乗せられた手に安心したのか、嬉しそうな笑顔が、自分を見上げる。
(あぁ、そうか)
重なるのはきっと、この瞳だ。
どんなに人を斬っても、汚れた仕事をさせても、濁る事のない、純真な瞳。
「鬼」であろうとし、誰も寄せ付けずにいた自分にも、恐れることなく真っ直ぐ向けられる、信頼の輝き。
あいつがいたから、自分はきっと、今も「人」でいられる。
その瞳を輝きを、こいつも持っているのだと思う。
「歳が、市村君を合格させた理由がわかった。総司に似てるな、彼は」
「は?」
「若すぎるとも思ったが、そういう事なら仕方がない。俺も彼を歓迎するとしよう」
「ちょ……、待ってくれ近藤さん。何を言ってるんだ」
「土方さん、そういう隊士の選び方はどうかと思いますよ」
「総司、お前起きてきて……」
「近藤さん、その彼はそんなに私に似ているんですか?」
「だから……」
「あぁ、見た目は全く違うが……なんというか、雰囲気とでも言うかな」
「へぇ、ちょっと会いに行ってみようかな」
「おぉ、そうするといい。今、新入隊士達は広間にいると思うぞ」
「じゃあ、行ってきます」
「市村鉄之助君という。若いからすぐにわかるだろう」
「はい。あ、そうだ土方さん」
「何だ」
「私に似てるから合格させるなんて……そんなに私が傍にいないのが寂しかったなら、早く言って下さればよかったのに。今度からはもう少し顔を出しますから、拗ねないでくださいね」
「……っ! 頼むから、俺の話を聞け」
「あはは、それじゃ近藤さん。失礼しまーす」
「待て待て、俺も行こう」
「そうですね、土方さんに怒られる前に退散しましょう」
「近藤さんっ、総司っ!!」
退散とばかりに走り去っていく二人の姿が、昨日の事のように思い出される。
「あの時は、何を言っているんだと思ったが……」
今思えば、近藤さんの言った事は、あながち間違ってはいなかったのだろう。
未来ある若者に、血にまみれた道を歩かせたくなくて、小姓などという自分には似合わない役職につけたのも、もしかしたらそこに幼い頃の総司の姿を見たからなのだろうか。
多摩の道場で、優しく穏やかに生きていけるはずの未来を奪い、過酷な修羅の道へ落としてしまった事を、心のどこかで後悔していたとでも言うのだろうか。
「……副長?」
「すまない。何だ」
「いえ、ただ……この景色を、近藤局長や沖田先生と一緒に見たかったですね、と」
「っ!」
「あ、あの……」
まるで頭の中を読まれていたかのように、突然告げられた二人の名前に、思わず目を見開く。
戸惑ったように、おずおずと問いかけてくる様子から、それはただの偶然だということはすぐにわかったが、なんとなく偶然と片付けてしまうには、僅かな抵抗を感じた。
頷いて同意を示し、そのまま二人を懐かしむように言葉を重ねる。
「あぁ、近藤さんや総司にも見せてやりたかった」
「沖田先生と、約束した時の事を思い出します」
「総司との?」
「はい、あの日も真っ白な雪が降っていて。こんな風に頭を撫ぜてくれました」
頭に乗せていたままだった手をそっと取って、ぎゅっと握ってくる。
いつの間にか男らしくなった手に、驚きと同時に、まるで子供の成長を喜ぶような嬉しさの感情が湧き上がる。
けれどそれは、自分の手を両手で握り締めるその真剣すぎる表情に、掻き消された。
「どうした」
「頼まれたからとか、約束だからとか。そういうことじゃなくて」
「……鉄?」
「ずっと、お傍に。居させて下さい」
祈るように呟いた願いは、すとんとこの胸に落ちた。
そしてその一言で、心が決まった。
自分にとって何としてでも叶えたい願いで、間違いなくこの両手の温もりを、否定する願い。
「鉄……明日の朝、俺の部屋に来い」
「あの、御用でしたら今からでも承れますけど」
「いや、明日でいい」
「……畏まりました。冷えてきましたね、副長の手すごく冷たいです。お部屋でお茶でも召し上がられますか?」
「そうだな、頼む」
「はい」
ぱたぱたと、用意のために走り去っていく後姿を見届けて、雪の降り続く灰色の空を見上げる。
「……そっちに鉄は、連れて行かねぇ。俺の傍には、お前が居てくれるんだろ」
声になるかならないか、そもそも言葉に乗せたかもわからない程の呟きは、銀色の世界にゆっくりと溶けていった。