狂犬
登場人物:沖田総司、岡田以蔵
「初めまして」
「…………」
にこやかに挨拶をして、そしてそのまま刀を抜いた。
相手も腰を低くして、獣の様な鋭い視線を外すことなく、ゆっくりと刀の柄に手を掛ける。
どこか、自分に似ていると思った。
容姿だとか動作だとか、そういう事ではなく、全体的ににじみ出る雰囲気というものかもしれない。
だからと言って、仲間意識が芽生えたとか、手加減しようとか、そういった感情が生まれたかと言えば、そうではなかったけれど。
それでも何か、心の隅っこがざわめいた気がした。
手のつけられない、狂犬の様だ。
感情を持たない、怪物の様だ。
斬り殺す感覚や人の血を好む、化け物の様だ。
血も涙もない、人斬り。
彼の事について、巷では非情な人間に対する、典型的な根も葉もない噂が蔓延していた。
人々の噂ほど当てにならない事は、自分が一番よく知っていたのだけれど。
それでも、まさかこんなにも悲しくて純粋な瞳をした人物だとは、思っていなかった。
そして何より、こんなにも自分と相手の心が重なるとは。
自分にとって近藤さんという、唯一絶対の存在がいる様に、きっと彼にも決して逆らえない、いや逆らおうとも思わない、そんな人がいるんだろう。
尊敬と畏怖は背中合わせ。
自分にとって近藤さんは、尊敬出来る大きくて大好きな人だけれど。もしかしたら彼にとってのその人は、畏怖の念を抱かせる人なのかもしれない。
それでも、付いて行こうと思わせるほどの人物である事に変わりはなくて。離れる事はきっと出来なくて。
それはとても幸せで、とても不幸な事かもしれなかった。
彼の行動は、すべてその人の為だけのものであって、自分のために何かをする事は、ほとんどない。
それを少しもおかしい事だとは思わない。大好きな人の役に立てる、それだけで十分で、それ以外に望む事なんて何もない。
それは、わかる。
ずっとそうありたいと願うのは、自分も一緒だから。
でも、そうありたいと思っているのなら、どうしてこんなに悲しそうな瞳をするんだろう。
もしかしたら彼にとっての唯一の人は、彼に微笑んではくれないのかもしれない。
優しくしてもらいたいわけじゃない。何かを返してもらいたいわけじゃない。
ただ傍にいる事を許してくれる。必要だと言ってくれる。
その場所が欲しいだけなのに。
(もし、その場所を与えられなかったら?)
そうしたら自分も、彼の様な瞳で誰かを斬るのかもしれない。
だって、それでも離れられない。離れたくない。
例えお前は不要だと告げられても、もう今更、他の誰かのためになんて生きられない。自分のために生きる術なんて、知らない。
それならば、しがみつくしかない。
どんなに悲しくても。どんなに心が違うと叫んでも。血の涙を流してでも。
道具の様に扱われたとしても、その人が道具を必要としている間は、自分を見てくれるかもしれないから。
いつか「お前が」必要だと言ってくれる日が、来るかもしれないから。
「やはり噂など、当てにはなりませんね」
「……それはこっちの台詞じゃき」
真剣を向けられて尚、にやりと笑みを返してきた彼に、自らの噂話を相手も吟味していたのだと気付く。
もしかしたら彼も、この対面の最中、自分と同じ様な感想を抱いていたのかもしれない。
このまま剣を交えてみたい気持ちが大きくなってきた頃、背後に一番隊の皆が駆けて来る気配が感じられた。
(このまま一対一の勝負は望めない、か……)
少し残念な気持ちを混じらせた溜息と共に、抜いていた刀を鞘に戻す。
彼を複数人で相手にするつもりは、さらさらなかった。
土方さんに逃がした事がばれたりしたら、こっぴどく叱られるだろうけれど。幸いにも、ここにはまだ誰もいない。
一番隊の皆が彼の姿を見る前に別れてしまえば、何もなかった事になる。
こちらの真意を得たのだろう。彼もそのまま刀を抜くことなく手を柄から外し、姿勢を元に戻した。
「勝負は、また今度にしましょう」
「出来ればおまんとは、戦いとうないもんじゃ」
「そうですか? 私は貴方と、戦いたいですよ」
「光栄じゃが、ばったり会わんよう気を付けるきに」
もう会う事もないだろう、そういうように彼は何の警戒もせず背を向けた。後ろから斬られる事など、考えもしない様に。
そんな背中に、今更ながら名乗る事も相手を確認する事もなく対峙していた事に気付く。
必要ない事かもしれなかったが、何となく名乗っておきたい気分になる。
そう、きっとこれが最後だから。
自分も彼も。大切な人に「相手を殺せ」と命じられない限り、もう二度と対峙する事はない。
そしてもしも、自分がそう命じられたら、きっと確実に彼を殺す為の手段として、一人で会おうとはしないだろう。
だからきっと、これが人と人として向かい合える最後。
「私は新撰組一番隊組長、沖田総司です。忘れてもらって構いませんが」
「……土佐勤王党、岡田以蔵」
一歩踏み出そうとした背中に名乗りを上げると、彼はその歩みを止め、振り返らないままではあったが、ぼそりとその名を口にした。
そしてそのまま、再び歩き出す。
名乗り合ってしまった後に、向き合えば敵同士になる。けれど顔を合わせないままならば、それはただのすれ違っただけの他人。そう言い聞かせる様だった。
だから自分も、それに習う。
くるりと去りゆく後姿に背中をむけて、駆け寄ってくる隊士達に、いつもの笑顔を作った。
近藤さんが自分を必要だと言ってくれる、その場所を確かめるように。