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一日だけの楽士

登場人物:土方歳三、高杉晋作

 月明かりを引き込むように、冷たい風をもろともせず、外と中を遮る障子を開け放ち、その元でまるで物語の歌い手のように、静かに爪弾かれる三味線の音。

 秀逸な都々逸を奏でる、透き通るような淀みのない声。

 そして何より、誰かの為になら自分を犠牲にする事も厭わないであろう強く。けれど終わりを悟ってでもいるような、どこか総司に似た瞳。

 彼を初めて目にした時の感想は、簡略に言ってしまえば強く儚く、何となく人を惹き付ける男。というところだろうか。


「あれは、誰だ?」

「長州の高杉さま」


 答えを期待して、投げ掛けた問いではなかった。

 夜の街の女達の口は固い。それは商売上、生き残っていく為に必要不可欠な能力でもある。

 その口を滑らかにする駆け引きも、嫌いではなかったから、余りにも簡単に回答を得られた事に、ただ驚いた。

 しかも攘夷派の大物で間違いないはずなのに、偽名でもなんでもない。

 答えをくれたこの芸妓が、嘘をついているようにも思えないし、自分はそんなオンナを馴染みにしたりはしない。


「高杉……晋作、か」


 本物にしろ偽物にしろ、声をかけるべきではない事は明らかだった。

 それでも立ち上がってしまったのは、窓の外から少し視線を室内に逸らし、コホンと小さく咳を漏らしたこの男の中に、総司と同じ影を見たからかもしれない。

 どこか、自分の命さえ刀と同様の物のように扱っているような……変に最期を悟っている、とでも言えばいいのだろうか。

 心配になってしまう位の危うさを秘めた瞳を、放っておけなかった。


 いつもなら非番の日に、積極的に取り締まることはないにしろ、自分から進んでいつか斬り合う可能性が高い、と言うよりその状況になる事が疑う余地もないような相手に関わろうなどと、一瞬でも考える事すらないはずなのに。

 側に護衛の一人もいないのは、いささか不用心だなどと自分のことを棚に上げて呑気に考えながら、何かに引き寄せられるように、身体は自然とその男へと向かっていた。

 連れ添おうとする芸妓を、片手を上げてそっと断る。

 冷たい風に乗って降りだした雪へ、一瞬よぎった影などなかったかのように視線を戻し、嬉しそうに目を細めながら眺めている男の傍に、一人で近寄って行く。


「聴かせて貰っても、構わないか?」


 酒の入った杯を差し出し、名乗りも上げず。また、相手が誰であるかの確認もせず。すでに答えを得たように胡座をかきながら、軽く三味線に視線を落として、そう尋ねる。

 相手は、ほんの一瞬だけ驚いたように目を見張り、そして無礼千万とも取れる一方的な観客に笑った。

 差し出された杯を、代金を受け取るような仕草で、少し上げてから飲み干す。


「何が聴きたいんだ?」

「雪を祝うものを」

「……承った」


 少しだけ意外そうな表情を作り、その後は観客である自分ではなく、窓の外に降る白に視線を移して、高杉は手の中にある三味線を傾けた。

 ふわふわと落ちる雪と同化するような、緩やかで優美な音が二人の空間を包む。

 場所柄、静かな所だとは言えないはずなのに、そんな事は些細な問題だとでも語りたげで、周りの喧騒など入ってくる余地もない、繊細な演奏だった。

 この男が長州の奇兵隊を率いる長だと、一体誰が思うだろう。

 そう思った直後。

 それだとわかっていて、奏で出す音に耳を傾けているのが、相容れないはずの新撰組副長だというのも、他人から見れば思いもよらないのかもしれないと思い立ち、心の内で苦笑する。


 最後の音が耳に染み渡ってから、交わす会話もなく無言で立ち上がり、拍手一つしないまま無造作に背を向ける。

 賞賛の言葉や行動で、湧きあがった感情を伝える事は。声を掛けてしまった原因である、その影の理由を聞く事は。これ以上、関わり合いを持つ事は。

 お互いの為にならないことを、知っていたから。

 腰の大小は、店に預けるのがしきたりとはいえ、懐に忍ばせた小刀や暗器までは、その範囲ではない。

 背後を襲われても文句は言えない状況であることや、その可能性の高さに気付かないほど、鈍感なつもりはない。

 それでも、何の根拠もなかったけれど。今は背を向けても大丈夫、そんな自信があった。

 ここではただの、見知らぬ楽士と観客。それだけの、関係でいるべきだ。

 暗黙の了解、とばかりに言葉にしなくても伝わり合う心地よさは、まだ多摩にいた頃の試衛館の仲間の感覚に近いような気さえした。

 もし、違う出会い方をしていたら……。


(くだらねぇ)


 もしも、なんて。

 考えている暇はない。考える必要もない事だ。

 気付かれない位に僅かに首を振って、浮かんだ思考を打ち消したのと同時に、殺気にも似た声が背中に突き刺さった。


「……新撰組の、土方歳三」


 問いかける訳じゃない。確認したい訳でもない。

 ただ、呟くように呼ばれた名前は、間違いなく自分のもの。

 殺気を含んでいるのに、どこか面白がってさえいるような雰囲気も感じられたから、相対するつもりはないのだろうと判断する。

 少しだけ冷たい空気を肺に入れて、気持ちを落ち着かせ、ゆっくりと振り返る。

 合わせた視線の先は、予想通りと言っていいかもしれない。

 武器ではなく、美しい音を奏で出す楽器を握りしめた、にこやかな楽士の姿。

 ただ、どこにも隙がない。


「…………」

「って奴を、知ってるかい?」

「いや、知らねぇな。そいつがどうかしたか?」

「なら、いいんだ。呼び止めちまって悪かったな」


 顔色一つ変えず、自分の事を自分で「知らない」と言い切ると、高杉はその答えが気に入ったのか嬉しそうに頷き、ひらっと手を振った。

 そこで、そのまま立ち去るべきだったと思う。

 だけど最後に、自分もこの男に聞いてみたくなった。

 相手と、同じ質問を。


「長州の、高杉晋作に会った事はあるか?」

「……さてね」


 否定もしなければ、肯定もしない。それは、自分が望んだ通りの答えだった。

 だから、ふっと思わず表情が緩んでしまったのは、防ぎようがなかったことなのかもしれない。

 「身体を大事にしろ」と、最近口癖のようになってしまっている台詞が、口をついて出そうになるのを、ぐっと押し留めて。

 まるで旧友と別れる時のように。またどこかで、すぐに会える相手かのように。

 ただ、その答えを噛み締める用に頷いて、踵を返し部屋を後にする。


 もう二度と、振り返る事はない。

 次に顔を合わせる事があるとしたら、その時は他人同士。ただの楽士と観客ではなく、倒すべき敵同士。

 それはきっと、どんなことがあっても変化することはない事実。

 だからこそ、どこか気になる影を持った、その瞳と。心に響く音を紡ぎだす、その指と。もしかしたらの世界の中で、気の合う誰かになれたかもしれない、その男と。

 再び相見える日が、二度と来ないようにと、祈らずにはいられなかった。

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