71話 「私の願い」
ルッツの目は本気だった。
だから私は、彼が復讐という意味でエリアスを傷つけようとしているのだと、すぐに分かった。
でも私一人ではどうしようもない。エリアスを連れてここから逃げることも一瞬考えたが諦める。私には無理。
本当に情けなくて、泣きたいぐらいだけど。
そんな時だった。
「隊長ー! 王女様ー!」
闇の中、ノアの声が聞こえてきた。私はそれにすぐに気づき辺りを見回す。
道のずっと向こうから走ってくるノアの姿が見えた。
救世主! 今はそう思える。
「ノアさんっ!」
苦痛に顔を歪めるエリアスの背をさすりながら、姿が見えてきたノアの名前を叫ぶ。私一人ではどうしようもなかったので彼が来てくれて良かった。
彼は私たちのおかれた状況に気づいたらしく、足を速める。
「ノアさん! 助けて!」
私は彼に助けを求める。とにかくエリアスをこの苦痛から救わなくては。
「追い詰められたからといって仲間を呼ぶとは、エリアスは相変わらずさすがだな!」
そんな風に皮肉るルッツに対し、ノアがいつもより低い声で言う。
まったく、信じられない。「どうしてそんなことを言うの」と言ってやりたい気分になる。だがそこまでの勇気はなく、喉まで出てきた言葉を飲み込む。
「もしかして今、隊長をバカにしたのかなー」
ノアはエリアスに失礼な発言をしたルッツに対して、密かに怒っているようだった。彼の表情の変化は掴みづらいが、しばらく近くにいた私には分かる。
だがルッツは微小な変化に気がついていないらしく、そのままぬっと片手を伸ばす。
「すべて奪って、死よりもずっと辛い思いをさせてやる!」
憎しみに満ちたような表情で言い放つ。
彼を見ながら私は思った。何が彼をここまで歪めてしまったのだろう、と。同じ血を分けた兄弟なのに、どうしてここまで憎しみの感情を抱けるのだろう。
私は一人っ子だから兄を持つ者の気持ちが分からないのかもしれない。でも、普通そんなに憎むものだろうか。
「……ぐぁ!」
エリアスは急に叫び、地面に倒れ込む。左肩から出ている白い霧のようなものの量が増えていた。
「エリアス! もしかして聖気を吸われているの?」
私が尋ねても、彼は苦痛のあまり呻き声しか出せない。余程の激痛なのだろう。
「隊長、しっかりしてー」
ノアの声も聞こえていないようだ。反応がない。
そこへゆっくりとルッツが歩み寄ってくる。ノアは立ち上がり、ルッツの前に立ち塞がる。
「邪魔するつもりか」
問いに対しノアは怯まず答える。
「隊長には触れさせないよー」
ノア、貴方がかっこよく見えるなんて、私はどうかしているのかな。
「お前の相方の女、この前ヴィッタに遊ばれたらしいな」
ノアは眉を寄せ、不愉快そうな表情になる。
「そんなことどうして知ってるのかなー」
「ヴィッタから聞いた。もう戦えないくらいやったと。相方の女もエリアスなんかに関わったから不幸になった……」
「何てこと言うの!!」
その時、私は無意識に叫んでいた。ルッツの発言にもう耐えられなくなって。
「ジェシカさんが捕まったのは私のせいだわ。エリアスは助けに来てくれた! 彼は何も悪くないでしょ!」
ありもしない罪を勝手に押し付けるなんて許せない。そんなのおかしいわ。
「いやいやー、王女様のせいでもな……うっ」
突如ノアは言葉を詰まらせた。顔面から血の気が引く。目を見開き、彼自身も何が起こったか理解できていないようだ。
視線を下ろすと、彼の腹部に黒いものが突き刺さっていた。よく見るとそれはルッツの剣だった。
「……え?」
ノアはまだ何が起こっているか把握できていないようだ。しかし、足だけ震えている。
ルッツは一切の躊躇なく、刺した黒い剣を抜いた。
「な……何てこと……!」
恐怖のあまり全身がガタガタ震える。
どうしてこんな残酷なことができるの。おかしいわ。ルッツはどう考えても普通じゃない。
「これは……痛いよー……」
ノアはしゃがみこんで、歯を食い縛り片手で頭を押さえる。
「ノアさん! 大丈夫!?」
「う、うんー。平気……ではないかもー……」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。頭が真っ白になる。
「しっかりして! お願い!」
「王女様……頑張るよー……。痛くない、痛くないー……」
ノアはおまじないのように「痛くない」と繰り返す。それでも痛みを和らげることはできず、顔をしかめている。
「お嬢さんは別れを告げといていいよ。さて、エリアスはそろそろか……」
「う、く……だ、ダメー! 隊長に触らないでよー!」
エリアスの方へ歩み出すルッツに向けてノアが叫んだ。傷からはポタポタと血が滴っている。こんな大きな声を出すのは、体にかなり負担をかけていると思われる。
呼び止められたルッツは、気分を害したのかこちらへ戻ってくる。そして、ノアの髪を片手で乱暴に掴み、持ち上げる。
「うるさい!」
「隊長は僕たちの恩人だよー! いじめさせないよー!」
ノアはかなりのダメージを受けているにも関わらず怯まなかった。最早無謀の域に達しているが、ここまで強い心はなかなか持てるものではない。
「恩人? ふざけるな!」
次の瞬間。ルッツの手がノアの腹部の傷に刺さっていた。
「……あ」
ノアの表情が怯えたものに変わる。
「魔気を入れてやる!」
少しするとノアの体がビクンと動く。そして、さらに数秒経つと、一気に弛緩した。
その時、私の脳裏にある記憶が蘇る。
ジェシカを助けに魔界へ行った時のことだ。彼は常に多少の魔気を浴びるのを辛そうにしていた。私は何も感じなかったにも関わらず、だ。
『……あ! もしかして、ノアは気に敏感だからじゃない?』
『あ。そうかもだねー』
確かあの時、こんなやり取りをした。
「ルッツ! 止めて!」
止めなくてはいけない。本能的にそう感じた。
「ノアは気に敏感なの。魔気の影響も普通より受ける。だからお願い! 魔気を入れるのは止めて!」
もしかしたら言葉で止めるのは無理なのかもしれない。最悪力ずくで……いいえ、きっと分かってくれる。
——そう思った私が甘かったの。
「お願い、止めて! それ以上入れたらノアが死んじゃう!」
ルッツはすっかり動かなくなったノアを、ごみを捨てるように乱暴に投げた。
すぐに手首に指を当ててみる。かろうじて脈はあったが、かなり微弱だ。
「さて、一人片付いた。次はエリアス。エリアスを消す」
私のせいだ。
私が自分勝手に遊びに行ったりしなければこんなことにはならなかったのに。すべての元凶は私。
どうすればいいの。……今更後悔したってもう遅い。すべて奪われてしまった後だもの。
その時、私の中の何かが崩れ落ちる音がした。細胞がすべて変わっていくような、そんな感覚。
「そうだ……私はエンジェリカの秘宝……」
エンジェリカの秘宝——それはどんな願いも叶える。
「ならきっと……私の願いも叶うじゃない」
エリアスやヴァネッサ、ジェシカとノアも。みんな揃って、また幸せに暮らす。
「それが私の願い」




