30話 「かつて憧れたもの」
あの後少し話してからエリアスは帰ったのだが、結構あまりしっかりとは眠れなかった。おかげで物凄い眠気であくびが止まらない。折角の誕生日なのに見事な寝不足である。
目を覚ますべくベッドのすぐ横にある白いカーテンを開け放つ。よく晴れている。太陽の光が肌を刺すように降り注ぎ、その眩しさに寝起きの目を思わず細めた。次に窓を開けると、心地よい風が吹き込んできた。爽やかな自然の香りを含んだ風が髪を激しく揺らす。今からセットするとはいえあまり髪が乱れるのは嫌なので、一回深呼吸をして空気を吸ってから窓は閉めた。カーテンを開けるだけで十分だ。
こんな心地よい日は誕生日にぴったり。少し日差しが強すぎる気もするが、曇り空や大雨よりはずっといい。
「起きられましたか。おはようございます、アンナ王女」
鏡台を布拭きしていたヴァネッサが手を止めて言った。鏡は曇り一つないくらい綺麗に磨かれている。
「誕生日パーティーの支度を致しましょう。お召し物はいかがされますか?」
「今日はミントグリーンのドレスがいいかな……」
私はまだ眠くてあくびが連発する。
そんなことをしている間に、ヴァネッサはクローゼットからミントグリーンのドレスを取り出した。
「こちらですね」
胸元は比較的大きく開いているが、そのくらいの方が目も覚めるだろう。
「それでは着替えられるようになれば仰って下さい」
私は大きく天に向かって両腕を伸ばす。つまり、背伸び。起床直後の背伸びはなかなか気持ちのよいものだ。
「もう今から着替えるわ」
「やけに早いですね。いつもならベッドへ潜ってもう少しもう少しと仰いますのに」
「止めて。言わないでよ」
眠くても準備できる理由なんて一つしかない。誕生日パーティーが特別楽しみだから。ただそれだけのこと。
私は早速ドレスへの着替えを開始する。
ミントグリーンのドレスは私のものにしては大人っぽい。袖は肘まで、丈は長めだが直線的なラインなのでそれほど派手な感じには見えないだろう。このドレス、地味なようだが実は生地が凝っている。ミントグリーンの薄い生地をよく凝視すると分かるが、生地と同色でうっすらと蔓が刺繍されている。
「……昨夜、エリアスと何かありました?」
背中の長いチャックを上げ終わりリボンを結んでいたヴァネッサが唐突に尋ねてきた。
「えっ?」
多分動揺した顔をしていたと思う。ヴァネッサにいきなりそのようなことを聞かれるとは予想していなかった、というのもあるし、昨夜エリアスにキスされたなんて彼女に言えるわけないという焦りもある。手の甲でもキスはキス、ヴァネッサが知れば怒りの雷が落ちるだろう。
「何をしていたのです?」
ヴァネッサの顔が怪しむ表情に染まっていく。
とにかく、とにかく何か答えないと……! 時間が立てば立つほど怪しく思われる。
「き、昨日ね……そう! 話していたの。星空について!」
無意識に口から滑り出た。いや、完全な嘘ではないので良しとしよう。
「星空について、ですか?」
ヴァネッサはますます怪訝な顔つきになる。
怪しまれているようだ。
「……それだけですか?」
リボンを結び終えた彼女は、最後に胸元に赤い宝石のブローチをつけ、私を鏡台の前の椅子へ移動させる。
「え、えぇ。そうよ。昨日はよく星が見えたでしょ。だから一緒に星空を眺めたの」
恐らく彼女には私が隠し事をしているとバレているだろう。完璧に隠せるはずがない。だが問いただされるまでは取り敢えず黙っておくことにしよう。
ヴァネッサはもっと執拗に探ってくるかと思ったが「そうですか」と言ったきり特に何も言わなかった。
しばらくすると綺麗なアップヘアが出来上がった。長い髪でまとめにくいだろうに、ヴァネッサはいつも本当に上手にまとめてくれる。
「いかがです?」
文句のつけようがない完璧なヘアセットだ。
「ありがとう、ヴァネッサ。今日も素敵だわ」
私は自然に笑顔になれた。
「ではパーティーの準備をして参ります。しばらくこのままでお待ち下さい」
彼女は淡白な声で言ってお辞儀すると足音も立てず速やかに退室した。
一人になると自室が妙に広く感じた。ここしばらく大勢でいることが多かったからか、忘れていた静けさだ。
「なんだか懐かしいな……」
私は誰に対してでもなく呟く。
幼い頃からついこの前まで、いつも私は窓から外を眺めては「王宮の外へ自由に行ってみたい」と、「外の世界はどんなに素晴らしいだろう」と思っていた。でもいざ外に出てみると、楽しいこともあるけれど物騒なこともあって、今までいかに護られていたのかを知った。
白い鳥の群れが青く澄んだ空を飛んでいくのが目に入る。私はずっと彼らに憧れていたが、今は少し心境が変わった。
「貴方たちもきっと、良いことばかりではないのでしょうね」
大空に羽ばたく小さな鳥に語りかけるように囁く。もちろん私の声が鳥たちに届いているはずはないが。
「私、ずっと憧れていたわ。外の世界に。いつかこんな王宮から出て、自由に羽ばたいて、好きなところへ行きたいって願っていたの」
だけど、初めて王宮の外を歩いたあの日から、私の平和な暮らしが少しずつ壊れていっているような気がしてならない。今までずっと考えないようにしてきたが、あんな生々しい未来の姿を見せられては、考えないようにするのはもう無理だ。
一人でいると段々弱気になってくる。まもなく楽しい誕生日パーティーが始まるというのにこんな湿っぽい気持ちじゃダメだ。そう思って自分を励ます。
ちょうどその時、ドアをノックする軽い音が耳に入った。
「準備が完了しました。もう入って構いませんか」
ヴァネッサの声だった。
……迷うな。今は誕生日パーティーを全力で楽しめばそれでいい。もしかしたら訪れるかもしれない未来なんて関係ない。
私は再確認するように強く頷き、意識的に口角を引き上げた。そして明るく大きな声で答える。
「えぇ! どうぞ!」
 




