12話 「謎の黒い女」
その日の夕方。
建国記念祭で述べる挨拶の確認、つまり人前での公開練習のようなものが行われた。十分な練習もせず挑んだため不安もあった。しかしいざとなると案外まともに読めたので安心した。 王は自身の職務で来れなかったが、その家臣たちは例年数名来るので、恥ずかしい姿をさらさずに済んで何よりだ。読み終わると拍手が起こり、遠くから様子を見守るヴァネッサは安堵の溜め息をついていた。
こうして嫌だった挨拶の出来を確認される会は終わり、お待ちかねの晩餐会の準備をするべく一旦自室へ戻った。
「お疲れ様でした。挨拶、なんとかごまかせていました」
部屋に帰るなりヴァネッサはそんなことを言う。満足してもらえてはいないらしい。いや、当然か。彼女だけは私がまともに練習していなかったことを知っているのだから。
「そうね。じゃあ早速、晩餐会の準備をしましょ」
挨拶について色々注意されるのは面倒臭いので話題を変えることにした。
「はい。お召し物はどれにいたしましょうか」
ヴァネッサは部屋のクローゼットを開け、中からドレスを数着出してくる。ミントグリーンにサーモンピンク、それからオレンジ。
「今日はどれがいいと思う?」
どのドレスも綺麗で選べないので、いつもヴァネッサに決めてもらっている。……と言っても、私が考えることをさぼっているだけなのだが。
「そうですね……これなんていかがでしょう?」
彼女が提案したのはサーモンピンクのドレスだった。
ふんわり膨らんだ膝下丈のドレスで、施されている細やかな花の刺繍がとても綺麗。袖が風船のように丸くなっているところも可愛らしい。
「前回は寒色でしたので今回は暖色系がよろしいかと思い選ばせていただきましたが」
「いいわね! それにする」
可愛いドレスを身にまとい、華やかな装飾品で綺麗に飾る。髪型もいつもとは違うアップヘアでひたすら華やかに。
身支度を終えて鏡を見る時、いつものことながら不思議な感覚に陥る。でも今日は特別、鏡に映る自分の姿が自分ではない誰かのように感じているのだ。
「ねぇ、ヴァネッサ。私……変じゃない?」
高級なアクセサリーがついた首もとも、艶のある淡いピンク色に染まった唇も、どうも私らしくないような気がしてならない。
「変? 何がです?」
ヴァネッサは首を傾げる。
「うぅん……何がって言われたらよく分からないけど……何かおかしな感じがするの。違和感っていうか……」
「気のせいではないですか?」
「そっか、それもそうね。きっと気のせ……え?」
その刹那、得体の知れない悪寒に襲われた。ひやりとしたものが背中を駆け抜け、考えるより先に鏡の方を見る。
「……ひっ!」
そこに映ったものを目にした私は青ざめた。
漆黒の長髪、大人っぽく整った顔に、真紅の唇。いくら化粧をしているといっても明らかに私の顔ではない。それに、その女の顔には見覚えがあった。夢に出てきた見知らぬ黒い女だ。
鏡に映る謎の女性は片側の口角をゆっくり上げる。私は笑ってなどいないのに。やはり別人か。そう思った瞬間、恐怖で体が動かなくなる。
「…………」
黙り込む私に疑問を抱いたらしい。ヴァネッサが不思議なものを見るような目つきをして、私の方に視線を向けてきているのを感じる。だがそちらを向けない。
黒い女は私を見つめたまま微かに口を動かす。何かを言っているようだ。不気味で怖くて、今すぐ逃げたいくらいなのに、なぜか目を逸らせない。炭のような黒い瞳に吸い込まれそう。
「……王女、アンナ王女!」
ヴァネッサの呼びかけで私はふっと現実に戻った。彼女の方に顔を向ける。
「あっ、ヴァネッサ……」
「どうかしたのですか? アンナ王女。ぼんやりなさっていましたけれど、何か問題でも?」
「い、今、顔が……」
恐る恐るもう一度鏡を見る。そこには綺麗に化粧された私の顔が映っているだけだった。金髪のアップヘア、首もとには輝く宝石のアクセサリー。黒い女の姿はほんの少しも残っていない。完全に消えている。
「顔?」
ヴァネッサは鏡に視線を向けて、理解できない、というように呟く。
「き、消えてる……」
唖然として鏡に映る自分の顔を眺めながら首を捻る。私にはそれ以上のことはできなかった。一体何だったのだろう。
「お疲れなのでは? 今晩は早めに就寝なさることを勧めます」
ヴァネッサはまったく相手にしてくれていないようだ。
「そうね……。そうするわ。きっと疲れていたんだわ」
私は自分を納得させるように言う。
そうよ。私は疲れていた。だからありもしない幻が見えた。きっとそう。現実的に考えて鏡にあんなものが映るはずない。
「それよりアンナ王女、そろそろお時間です。会場までご案内します」
「う、うん……」
なんだかすっきりしないが、このままもたもたしていては晩餐会が始まってしまう。とにかく今は全部忘れて晩餐会を楽しもうと心に決める。
「行こっか、ヴァネッサ」
わざといつもより大袈裟な笑顔を作る。
「はい。晩餐会、ゆっくりとお楽しみ下さい」
明るいところへ行って大人数で食事をすれば、きっと胸の奥に微かに残る不安も消える。そう信じて晩餐会の会場を目指すのだった。




