第三話 島国から来た男 其の二
それから数日後、陛下は皇后様のお墓参りに出掛けられた。
しばらく陛下が留守にされるということで、時間を持て余し、部屋で書を読んでいた私のもとに、皇太后様の使いの方がいらっしゃった。
使いの方は、皇太后様からじきじきにお話があると早口に告げ、すぐに身支度するようにおっしゃった。
私はなるべく控えめな印象に映るよう、意識して淡い藤色の衣装を選び、身につける装飾品も極力省いた。
使いの方は、詳しくは口にされなかったが、皇后様がお亡くなりになられてから、陛下が私を妻にしたいとおっしゃっていることでお叱りを受けるに違いない。
そう思い、私は重い心と足を引きずって皇太后様のお部屋へと向かった。
初めて訪れた皇太后様のお部屋は、まさに豪華絢爛という言葉がふさわしいものだった。
天井からは、ひだがたっぷりととられた紅色の天幕が幾重にも降ろされ、四方の壁には四季の花々が鮮やかに描かれていた。
家具はすべて赤と金で彩られ、鉄製の燭台にまで、金箔模様が施されていた。
そんな輝きに満ちたお部屋を目にして息を呑む私を、皇太后様は意外に上機嫌な様子でお迎えになられた。
先帝の養子である陛下は、この方と血のつながりは無い。
年も陛下と十あまりしか離れておられないはずだ。
先帝が前の皇后に死を賜られたほど、心を惑わされたというその美貌は今もお変わりなく、周りの者を圧倒するほどだった。
惜しみなく金糸の刺繍が施された深紅の着物はまばゆいばかりで、耳元では黄金の耳飾りがしゃらしゃらと軽やかな音を立てていた。
そんなお姿を前に、控えめというよりみすぼらしい自分の姿に気付き、私は居場所の無い、情けない気持ちになった。
「今日は、そなたによい知らせがある」
真っ赤な紅をひいた口元を、羽根で縁取られた扇子で仰ぎ、皇太后様は華やかな笑顔を見せられた。
そして、肘掛けに身を委ね、横たわった姿勢で扇子を閉じられると、それを振って下女に何か指図された。
しばらくすると、緊張して座る私の前に、ひとりの男が現れた。
上下に分かれた、役夫(労働者)のような質素な白い衣を纏い、髪を耳もとで輪のように結ったその男は、涼し気な瞳を私に向けながら、静かに腰を降ろした。
「倭人だが、なかなか美しい男であろう?」
ああ、彼が陛下のおっしゃっていた男ね……と、私はすぐに思った。
卑しい身分でありながら、ある人と同じ位置に立ちたいと、はるばるこんな異国の地までやってきた男だ。
思っていたより若い。
陛下よりまだ少し若そうだ。
「今日からこの者がそなたの主人になる」
「……え……」
私は思わず目を見開き、皇太后様のお顔を見つめた。
皇太后様は、急に眉間に皺を寄せられると、扇子で顔を覆われた。
「おお、鈍い娘よのう。そなたの身の上はわらわが買い上げた。そして、この異国からの客人に進呈したのじゃ」
「そんな……、陛下はご存知で……?」
突然、皇太后様の手から、扇子が投げ放たれ、私の額に当たった。
「思い上がるのもたいがいにおし!妾の分際で皇后になりたいなどもってのほか。次の皇后になるお方なら、もう用意しておるわ」
しびれる額に触れると、うっすらと血が滲んでいた。
(ああ、まさかこのような手段を選ばれるとは……)
皇太后様は、成人された陛下の妃を独断で決めるのは、さすがに対外的に支障があるとお考えになり、私を別の男のものにすることで先手を打たれたのだ。
妾など、しょせん立場は奴婢(奴隷)と同じ。
上の方の都合で、簡単に売買されるのだ。
おそらく皇太后様の使者が私の実家に赴き、陛下が私を買い上げた金額以上の条件を指し示されたのだろう。
皇太后様からのお申し出となれば、家の者も嫌と言えるはずもない。
(恐れていたことが現実になった……)
だから、これまでのままで良かったのだ。
そうすれば、妾としてでも、陛下のおそばにいることができたのに。
陛下が私を皇后にしたいと、強く主張されるほど、皇太后様は遠ざけようとされるに違いないと、わかっていたのに……。
うつむいて涙をこぼしはじめた私に、皇太后様は勝ち誇ったような表情を浮かべ、唇の端を引き上げられた。
「そなた、実家で使っていた倭人の奴婢から習い、倭言葉を使えるのであろう? 代々学問に長けた家系の出身で、女だてらに教養も深いそうではないか。この者は、この国の学問を少しでも多く学びたいと考えているようじゃ。そなたほどの適任はいまい?」
とめどなく涙を流す私に、皇太后様は少し面倒そうに顔をしかめ、邪魔者を払うように掌を振られた。
「話は終わりじゃ。すぐに荷物をまとめて、今の部屋から出てお行き!」
その夜、私は追われるように、数人の下女と荷物を抱え、新しい主人のもとへ生活の場を移した。
倭人の男に与えられた屋敷は、宮廷の北の端に位置し、客人をもてなすには古く、粗末な造りのものだった。
それは、彼が小さな島国の、しかもその中の一国の王候補に過ぎず、その上卑しい身分であるがための扱いかと思われた。
その屋敷内に与えられた私の部屋に荷物を降ろした下女達は、明らかに落胆の表情を浮かべた。
宮殿内にあったこれまでの部屋も、皇太后様のお部屋に比べれば質素であったが、それでも、壁に野の草花が描かれ、淡い藤色の天幕が室内を優雅に彩っていた。
しかし、今日から過ごすこの部屋は、白木の壁が年数を経て黒ずみ、天幕のかわりに古びた麻の簾が窓際に下げられているだけで、がらんとして味気なく、暗い印象のものだったのだ。
皇太后様とお会いしたあと、この部屋へ場所を移すまで、私は半日泣き続けたが、もう覚悟を決めることにした。
こうなった以上、運命に身を委ねるしか、ここで生きていく術はないのだから。
顔を洗い、寝衣に着替えた私は、月明かりの降る回廊を歩いて、中庭を挟んだ向こうにある男の寝所へと向かった。
覚悟を決めていたはずなのに、男の部屋の灯りが近付くたびに、涙が溢れ出し、再び頬を濡らした。
「失礼します」
涙を拭い、私は恐る恐る、開け放たれた寝所の戸口から、倭言葉で男に声を掛けた。
男の部屋のつくりも、私の部屋と同じく、質素極まりないものだった。
戸口側に背を向けて地べたに座り、机の上の巻物を熱心に読んでいた男は、私の声に驚いて振り返った。
「倭の言葉が話せるのですか?」
「あまりうまくは話せませんが……」
「まさかここで、言葉の通じる人に会えるとは思いませんでした」
男は、体ごと私の方へ向き直り、ほっとしたような笑顔を見せた。
涼し気な印象だった瞳が、一気に和らぎ、人懐っこそうな表情になった。
その顔に少しほっとした私は、男に向かい合うように静かに腰を降ろした。
「私の名は男鹿といいます」
そう言って、男鹿はそばにあった木の札に、自分の名を書いて私に手渡した。
変わった名だなと思いながら、私はその札を裏向けて、彼から筆を受け取ると、自分の名を書いて返した。
陛下から聞いた、筆談のやり取りの話を思い出し、私は確かに少し楽しいかもしれないと思った。
「私は花蓮です」
聞き取るのが難しかったのか、男鹿は私に、再度名を口にするよう求めた。
「花蓮。美しい名前ですね。あなたにぴったりだ」
嫌みのない口ぶりでそう言われ、私の頬は思わず熱くなった。
「……今日、皇太后様は、あなたに何を言われていたのですか?」
急に真剣な表情になって、彼は私に尋ねてきた。
「……その……怪我は大丈夫ですか?」
押黙った私の額に視線を移し、男鹿は質問を替えてきた。
「ありがとう。たいしたことはありません」
そう言って、私はそれ以上説明しようとはしなかった。
彼にとっても、他の男の妾であった女を与えられたなど、知れば面白くないだろう。
説明するかわりに、私は自分の腰紐に手をかけた。
陛下以外の男の前で、腰紐を解くのは初めてだった。
「……なにを?」
男鹿は、驚いた表情をしてそう言うと、はだけた私の着物から視線を外した。
「私はあなたのことを、身の回りの世話をしてくれる方だと伺っています」
「……? つまりそれは、こういうことではありませぬか」
妙なことを言う……と私は首を傾げた。
普通の男なら、そう言われて言葉通り受け取ることなどありえない。
男鹿は、顔を真っ赤にして、きつく目を閉じ、私に背を向けた。
「着物をなおして下さい。私は、あなたには興味が無い」
そう言われると、私は急に恥ずかしくなって、慌てて着物の襟を合わせ、腰紐をきつく結び直した。
「あなたもそうでしょう。好きでもない男になど、触れられたくはないでしょう」
襟元を握るようにして座り込んだ私に、男鹿は振り返り、優しく笑ってそう言った。
もしかして、この人は、私に想い人がいることに気付いているのだろうか。
そんなことを思いながら、私はふと、あることを思い出した。
「ある人と同じ位置に立ちたいって……。ある人とは愛している人のことですか?」
私の問いかけに、男鹿の表情が一瞬固まった。
その顔を見て、私の疑問は確信に変わった。
「王になって、初めて同じ位置に立てる人って……。あなたの愛する人は……」
私が推測するよりも早く、男鹿ははっきりとした口調で答えた。
「邪馬台国の女王です」
「……親魏倭王……?」
あまりのことに、私は言葉を失った。
邪馬台国の女王と言えば、三十あまりの連合国の頂点に立つ、事実上の倭国の王だ。
魏の皇帝もそれを認め、その証として、歴代の女王に親魏倭王の称号と、金印を与えてきたのだ。
そんな人物が、なんの身分も持たないこの男の想い人だとは、想像もしなかった。
「今はもう、朝廷が開かれ、帝にその称号は移りましたがね。今でも、あの方が邪馬台国の女王であることは変わりませぬ。私はあの方と同じ未来を歩みたくて、ここまで来たのです」
男鹿は決意を感じさせる目をしていた。
その目を見て私は、きっと彼も、女王に愛されているのだろうと思った。
その自信が、こんな異国の地に身を置いてまでも、彼を強く支えているに違いないのだ。
「私も同じ。遠すぎる方を愛してしまった……」
思わず私は、そうつぶやき、無意識に頬を滑り落ちた自分の涙に驚いた。
そんな私の顔を、男鹿はじっと見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。
「では、私たちは同じ未来を追う同士ですね」
その言葉に弾かれたように、私は彼の顔を見上げた。
燭台の炎が照らし出す彼の瞳は、蜜色に輝き美しかった。
こんな澄んだまっすぐな瞳を目にしたのは、生まれて初めてだった。
「あなたを王にして、愛する人のもとへお返ししたい」
思わず私は、自分の発した言葉に驚いた。
でも、この時、本当に心からそう思ったのだ。
「ありがとう。私もあなたの想いを遂げさせて差し上げたい」
そう言って男鹿は、屈託の無い笑みを浮かべた。
こうして、この日から、私とこの島国から来た男の運命は絡み始めたのだった。