第二話 島国から来た男 其の一 ※挿絵
「きっといつか、そなたを皇后にする」
絹の褥に頬杖をついて横たわり、陛下はそう言って優しく私の髪を撫でる。
燭台の揺れる炎を映す大きな瞳は、まっすぐに私を見つめてる。
その手を両手で包み込み、頬に寄せて私は小さく首を振る。
「私は今のままで十分です。陛下がご無理をおっしゃれば、皇太后様に疎まれ、おそばにさえいられなくなりそうで怖いのです」
それは私の本心だった。
たとえ妻と呼ばれず、身を隠さなければならないような存在であっても、陛下のおそばにいられれば私は幸せだった。
「そなたは欲がないな」
陛下は半分呆れたように優しく笑って、私の肩を抱き寄せた。
天幕に閉ざされたこの空間が、私たちがふたりきりになれる唯一の場所だ。
香しい香のたかれたこの部屋で、厚い胸に抱かれるこの時間、私はひととき至福に包まれる。
このまま時が止まって欲しい。
そう思ってしまうのは、罪なことなのだろうか。
そんな物思いにふける私の顔を、陛下の力を帯びた瞳が凝視した。
「五年前朕は、まだ子どもで力がなかった。だが、もう成人したのだ。母の好きにはさせない。皇后の亡くなった今、今度こそそなたを妃にする」
陛下の言葉は、涙が出るほど嬉しかった。
けれど、その思いが深いほど、私の中の不安は大きく膨らんでいった。
「どうか、ご無理をおっしゃらないで……」
再びそうつぶやく私の口を、陛下の唇が甘く塞いだ。
十二年前、私は陛下と出会った。
その時、陛下は八つ。
私は六つだった。
学者であった父が陛下の家庭教師に選ばれ、子どもの少ない宮中で、共に学び遊ぶ相手として、娘の私が連れて来られたのだ。
陛下はその年、父帝を亡くされ、幼くして魏の皇帝に即位されたばかりだった。
だが、幼い私たちに政治の重要性などわかるはずもなく、ただ毎日を宮廷内で楽しく過ごしていた。
二人で競い合って論語を暗唱し合ったり、下男を馬にして騎馬戦ごっこをしたり、どんなときもふたりでいた。
その頃は、そんな楽しい日々が、ずっと続くものだと信じて疑わなかった。
「朕は花蓮を妃にする」
十二になり、元服された陛下は、少し照れながらそう言って下さった。
髪を結い上げたばかりの首筋が涼し気で、急に大人びた陛下の顔を見上げ、私は大きく頷いた。
多分、この頃にはもう、陛下を愛していたのだと思う。
けれど、それから三年後、十五になった陛下に皇后候補が現れた。
皇太后様が、ご自分の息のかかった家の女性との縁談を、独断ですすめられたのだ。
その時、陛下は、必死に私を妃にしたいと、皇太后様に訴えかけてくださった。
「あなたも父帝に、愛情により選ばれたのではないですか。なぜ、私が父帝と同じことをしてはならぬのです」
地方豪族の娘であった皇太后様は、戦乱時兵に召し上げられ、その美貌をかわれて後宮に上がり、先帝の妾になられた。
そして、先帝の寵愛を一身に受けて、やがて当時の皇后様から、正妻の座を奪い取られたのだ。
しかし、それだけに、成り上がりの強欲さを誰よりも恐れておられる。
だから、身分の卑しい私が妃になることを、決して許してはくださらないのだ。
幼帝であった陛下には、親戚筋である昭伯様(曹爽)と、長年王家に使えてきた仲達様(司馬懿)という二人の後見人がいらした。
けれど、仲達様は早くから名誉職に追いやられ、長い間、昭伯様が政治の実権を握っておられた。
その昭伯様も、数年前、蜀との戦いに失敗したことで、朝廷内での求心力を失い、当時は実質、皇太后様の天下になっていたのだ。
皇帝といえども、まだ成人されていない身では、皇太后様には抗えず、結局、やむなく陛下は、皇太后様が強く推される方を、皇后に迎えられることになったのだった。
皇后様がお輿入れされる前夜、私の寝所に陛下は泣きながらいらっしゃった。
「いつか必ず、大人になれば、そなたを妃にする」
そう言って、陛下は私の胸で声をあげて泣いて下さった。
私もその髪に頬を寄せ、涙をこぼした。
そしてこの夜から、私は陛下の妾になった。
曹家の外戚である名家からいらした甄皇后様は、私と陛下の関係もご存知だった。
けれど、宮中でお顔を合わせれば、穏やかな笑顔をいつも送って下さった。
お体が弱く、よく床に着かれているご様子で、いつも血の気はなかったが、優しさがにじみ出るようなお顔をされた、美しい方だった。
そんな皇后様を、お体に触るからと理由をつけて寝所に残し、その後も陛下は私のもとへよく通っていらした。
今思えば、この時、皇后様はどんなにお寂しい思いをされていただろう。
でも、その頃の私達は、自分たちのことしか、考えられなかった。
「皇后が死んだ……」
御結婚から五年が過ぎた今年のはじめ、陛下が青い顔をして私の部屋にいらっしゃった。
急に持病が悪化し、皇后様は十九の若さでお亡くなりになられたのだ。
「朕がそなたを皇后にしたいと強く望んだから……。だから妃は亡くなったのだろうか……」
罪の意識に苛まれた陛下は、肩を落とされ、両手で顔を覆って涙を流された。
私は、そんな陛下の肩を包み込むように抱きしめた。
「……もしもそうであるならば、私も同罪です……」
私は震える陛下の肩を抱きながら、たとえ天に咎められても、やはりこの方と離れることはできないと思った。
そして、その想いは陛下も同じだった。
「今日、例の男がやってきたよ」
陛下は相変わらず、私の髪を指先に巻き付けるように撫でながら、いつになく楽し気な表情を見せられた。
「例の男?」
「倭国に派遣されていた張政が帰国したんだ。彼が連れてきた倭人の男だよ」
「祖父が……。ああ、呉が治めていた国の王になりたいとか言っている男ですね」
張政とは、朝廷の役人をしている私の祖父の名で、十年前から、東の海に浮かぶ、倭国という島国に派遣されていた。
呉に侵略されていた、倭国の西にある狗奴という国を、倭人自身の手で取り戻させることが、祖父に与えられた使命だった。
それは、魏からの出兵を最小限に抑え、呉の拠点を倭人に壊滅させることを目的としたものだった。
私も、祖父がその使命を果たし、帰国が近いことは噂で聞いていた。
でも、妾となった私は家の恥と思われているので、今後も祖父に会うことはないだろう。
帰国に先立ち、祖父は、呉との戦いに貢献した倭の男を、空席になった狗奴国の王にしたいと、陛下に書状により陳情してきた。
それに対して、陛下は、その者の顔を見てから判断するとお答えになったのだ。
陛下にとって、遠い島国の、しかもその中の一国の王が、誰がなろうとさして関わりないはずだ。
それでもそうお答えになったのは、その者が陛下に年が近い若者で、しかも卑しい身分出身であるということに、少なからず興味を持たれたのだろう。
「その者は、大量の木の札を抱えて来てね。その場でそれに文字を書いて朕によこすんだ。なかなか達筆であったよ」
「なんと書かれていたのです?」
面白いことをする……と、私も興味を持って、陛下に話の続きをねだった。
「私はまだ魏の言葉が話せません。そのため筆談にて失礼いたします。……と書かれていたよ」
「読み書きができるのに、言葉が話せないのですか?」
「ああ。ほぼ独学で文字を学んだらしいが、発音の仕方まではわからなかったらしい」
珍しく声をあげて、陛下は愉快そうに笑われた。
陛下は日頃、他人にあまり興味を持たれないので、このような様子は久しぶりに見た気がした。
「だから朕も、木札をとって、書いて渡してやった。そなたはなぜゆえ王になりたい? とね」
「では、なんと?」
私はいつしか、すっかりその異邦人の話に引き込まれ、思わず陛下に答えを急かした。
「うん……。ある人と同じ位置に立ちたい。そう書かれていたよ。真意はよくはわからんが」
(ある人と同じ位置に立ちたい)
その言葉に、私の心は釘付けになった。
それは、無意識のうちに、私が日頃密かに抱いていた思いと同じだったのだ。
「それからしばらく、その者と文字を書いては、交換し合った。他愛のない話が大半であったが、文字でのやりとりというのが面白く、久々に楽しかった」
陛下は嬉しそうに微笑んで、枕に顔を埋め、目を閉じられた。
じきに寝息をたてはじめられたそのこめかみに触れて、私は小さくつぶやいた。
「いつか私も会ってみたいものです。その方に」
だが、間もなくその異国の男が、誰よりも身近に存在することになろうとは、この時の私は、想像もできなかった。