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第十七話 囚われ人

 その夜、私の部屋へいらした陛下は、目を腫らした私と紅玉こうぎょくを見て大きくため息をつかれると、奥のしとねに近付き、布団の上にゆっくりと腰を降ろされた。


「陛下……申し訳ありませぬ。私、陛下のお立場を何も……」


 陛下の隣に腰を降ろし、私はうつむいて膝の上で握りしめたこぶしに視線を落とした。

 朝廷内で陛下が孤立されていることに気付くことなく、悲しませるようなことばかりしてきた自分が情けなくて、私はそのお顔をまともに見ることができなかった。

 そんな私を見下ろし、陛下は再度深いため息をつかれた。


張政ちょうせいに聞いたか。あのおしゃべりじじいめ」


 頬杖をついて苦笑しながら、陛下は少し遠くに視線を向けてそうおっしゃった。

 そして、私の肩に腕を回して引き寄せると、耳元に唇を寄せて優しくささやかれた。


「大丈夫だ。司馬師しばしも流石にこの戦に敗れれば、責任から免れられぬと感じている。何としてでも、勝利しようとするだろう」


「でも……」


 思わず顔をあげた私の唇を、陛下のそれが優しく塞いだ。


「そなたは、何も心配しなくともよい」


 そう言って陛下は、瞳を潤ませる私の顔をじっと見つめられた。

 だが、次の瞬間、その吸い込まれそうな大きな瞳にかげりが見えた。


男鹿あのもの新城しんじょうに向かうことになったそうだな」


 私から視線を外し、陛下は布団の上で握られたご自分のこぶしを見つめられた。


「奇特な奴だ。何を好き好んでよその国の戦に……」


「今からでも彼を王として認めていただくことはできないでしょうか……」


 壹与いよ様との未来のために、戦地に向かおうとしている男鹿おがを止める手段は、もはやそれしかないと思った。

 王になることを認められ、倭国くにに帰れるようにさえなれば、彼も他国の戦に身を投じるなどという危険を犯すこともないだろう。

 とはいえ、理由はともかく、陛下のお立場を守ろうとしている彼を留まらせることは、この方にとって不利益となることもわかっていた。

 それでもそう言わずにはいられない。

 そんな自分自身がつくづく嫌になった私は、再び目をきつく閉じて肩をおとした。

 それからしばらく、黙って何かを考えておられる様子であった陛下は、私の肩から離した両腕を頭の後ろで組み、そのまま仰向けに布団に身を沈められた。


「仮に王として認めてやるから倭国くにに帰れと言っても、おそらく奴は新城しんじょうに向かうぞ」


 その言葉に私は驚き、天井を見つめられる陛下のお顔に目を向けた。


「あんな男を愛した女は苦労するな」





 それから日を置かず、男鹿おが新城しんじょうに向けて旅立った。

 彼を護衛するため用意された兵は約三千。

 ことは一刻を争う事態のため、すべての兵が早馬に股がった騎馬隊だった。

 武将でもない、無名の若者を護衛するためにしては、異例の大軍だった。

 それは、窮地に立たされた新城しんじょうの地に、何としても彼を送り届ける必要があることは言うまでもなかったが、私には、他国のために命懸けで戦地に向かう彼へ対する、陛下の敬意の表れのように感じられた。


 私と紅玉こうぎょくは、少し離れた木の陰から、そっと彼らの様子を伺っていた。

 宮廷内の広場で等間隔に並べられた馬の傍らには、それぞれ鎧兜を身につけ、手綱を握りしめた兵たちがまっすぐ前方を見つめて立っていた。

 しばらくすると、彼らと同じく鎧に身を包んだ男鹿おがが栗色の馬に乗って隊の正面に現れた。

 彼が馬上から飛び降りると、高貴な衣装を身に着けた男たちが数人、ゆっくりと近付いて行くのが見えた。

 それは子元しげん様をはじめとする、大臣や役人らで、その中には祖父の姿もあった。


 子元しげん様に何か声を掛けられた男鹿おがは、何度か頷き、最後に大きく一礼すると、再び馬上の人となった。

 それを合図に、他の兵らも一斉に馬に股がった。

 兵らを見渡し、準備が整ったことを確認すると、男鹿は大きく右手を挙げ、馬の横腹を思い切り蹴った。

 全速力で駆出した彼の馬のあとを、三千の騎馬隊が追い、大きく開けられた宮廷の門を濁流のようにくぐり抜け始めた。

 直後、砂埃が辺りに立ちこめ、私たちは思わず袖で顔を覆い、強く目を閉じた。

 しばらくして視界が開け始め、私たちが薄目を開けると、すでに彼らの姿はなく、地響きだけが遠退いていった。

 

 


 順調に旅がすすめば、男鹿おがたちの一行が戦地に到着したであろうと思われる頃、新城しんじょうから良くない知らせがまた飛び込んできた。

 病に倒れる者があとを絶たず、手薄となった砦の城壁の一部が、呉によって破壊されたというのだ。

 今は疫病の感染から免れた兵らが、交代もままならない状態で昼夜崩壊現場を守り、なんとか呉の侵入を食い止めている状況だという。

 城内では疫病が蔓延し、外からは呉軍がいつ雪崩れ込んできてもおかしくない事態に、ちらほらと諦めの声が聞かれ始め、朝廷内には不穏な空気が漂っていた。


 だがそんな中、ただお一人、この苦境に笑みを浮かべておられる方がいた。

 皇后様のお父上、敬仲けいちゅう様だ。

 東興とうこうの戦いで状況をひっくり返され、権力を独占し損ねた彼は、今回の戦いに敗れることで子元しげん様が失脚されることを望んでおられたのだ。

 そして当然、そうなったあかつきには陛下の敗戦責任を追求し、ご自分が実質朝廷を牛耳ることを目論んでおられるのだろう。

 陛下は相変わらず何も語られないけれど、最近ため息をつかれることが多くなったように私は感じていた。


 状勢が悪化するに従って、皇太后様は少しずつ子元しげん様から敬仲けいちゅう様の方へ、身の置き場所を移されているご様子で、朝廷内の勢力図は徐々に塗り替えられつつあった。

 やがて、敬仲けいちゅう様の娘であることで、皇太后様を味方につけられた皇后様は、陛下が私のもとへ通われることを控えるよう皇太后様に口添えを頼まれたようだ。

 そのため、陛下が私の部屋にいらっしゃることも少なくなっていった。





 戦場に身を置く男鹿おがと、朝廷でのお立場が増々危うくなりつつある陛下。

 どれほど案じても、彼らに何もできない自分が腹立たしく、悶々と過ごす私のもとに祖父がやってきた。


「呉の兵が撤退したそうじゃ」


「本当ですか?」


 今回の戦を絶望視していた私は、にわかには信じられず、祖父に疑いの眼差しを向けた。


男鹿おがが機転を利かせ、勝機を導いたらしい」


男鹿おがが? 彼も無事なんですね?」


 ここにきてようやく魏の勝利を確信した私は、背後に控える紅玉こうぎょくの方を振り返って笑みを浮かべた。

 私の顔を見た紅玉こうぎょくも、頬を一層赤く染めて、涙ぐんだ瞳で微笑んで見せた。


「う……うむ……」


 歯切れの悪い祖父の返事に、私の中で一気に不安が広がった。


「まさか……彼の身に何か?」


 青ざめる私から、祖父は目を逸らして黙り込んだ。

 戦の中で傷を負ったか、兵らを看病するうちに自身も疫病に感染したか。

 良くない予感が胸の中に広がり、私は手のひらで両頬を押さえ、遠退きそうな意識をなんとか留めた。


「いや、体は大丈夫だ。大した怪我もしておらぬし、病にも感染していないようじゃ」


 祖父の言葉に、私と紅玉こうぎょくは同時に安堵のため息をついた。

 そんな私たちの顔を順に見た祖父は、静かに目を伏せて唇を噛み締めた。


「奴は捕えられた。新城しんじょう守将しゅしょう張特ちょうとくによって」


「え?」


 私は事態が理解できず、その場に凍り付いた。

 子産しさん張特ちょうとく)様と言えば、新城を守る立場にあられる武将だ。

 つまり、味方である彼が、奇跡的とも思える今回の勝利を導いたとされる男鹿おがを捕えたと聞いて、私は理由わけがわからなかった。

 戸惑い、何度も顔を見合わせる私と紅玉こうぎょくに、祖父は怒りに満ち、赤く染まった瞳を向けて、絞り出すように言った。


張特ちょうとくの計画を阻止しようとしたらしいんじゃ」


「どうして!?」


 今回の戦に勝つために、新城しんじょうに赴いたはずの男鹿おがが、子産しさん様の邪魔をするなんて、私には考えられなかった。

 増々混乱する私たちを前にして、祖父は大きく頭をもたげ、床に置いた拳を震わせていた。





 それから季節は変わり、秋が深まり始めた頃、ようやく新城しんじょうに赴いていた兵らが、少しずつ帰還してきた。

 一部の兵は、呉の攻撃によって傷んだ城の修復や護衛のために残っているが、自力で動ける者の多くは早い時期にみやこに戻されたのだ。

 今回の戦では睨み合いの期間が長く、直接戦闘を交えることは殆ど無かったため、犠牲者の多くは疫病によるものだった。

 病や怪我をした者は、治療が済み、体力が回復した者から帰されているらしく、兵たちの帰還は、何度かに分けて冬が近付く頃まで続いた。

 

 一旦、子産しさん様に捕えられた男鹿おがは、兵らの治療を願い出てそれを認められ、監視が付けられた状態でまだ現地にいるらしい。

 結局、祖父は詳しくは何も語らず、なぜ彼がそのような事態に陥ったのか、私にはわからずじまいだった。






「奥様、男鹿おが様が間もなく帰っていらっしゃるそうです」


 ある日、吐く息を白くしながら、紅玉こうぎょくが部屋に飛び込んできた。


男鹿おがが?」


 私は思わず立ち上がり、膝に置いて読んでいた書物を落とした。


 私はいても立ってもいられず、紅玉こうぎょくと共に、宮廷の門が見える場所へと急いだ。

 出発前、彼に拒絶された私は、声を掛けるつもりはなかったが、せめて無事な姿を一目見たいと思ったのだ。


 彼らが出発した日と同じ木の陰に身を隠し、私と紅玉こうぎょくは、門に人影が現れるのを待った。

 やがて、大きく開いた門の向こうに、三十人程度の人影が固まりとなって近付いてくるのが見えた。


「え……」


 人影が近付いてくるにつれて、その真ん中あたりに、武装した兵らに囲まれて、異質な様相の人物がひとりいるのが目に入った。


「……男鹿おが様……?」


 紅玉が目を丸くして、呆けたような表情でそうつぶやいた。

 たぶん、この時、私も彼女と同じような表情をしていたはずだ。


 まだ真冬ではないとはいえ、既に朝晩の冷え込みが厳しいこの時期に、その人物は裸足で、麻でできた粗末な一重ひとえの上下に分かれた着物だけを身につけていた。

 髪は無造作に首の後ろでひとつに束ねられ、着物も、そこからのぞく手足や顔も、血か泥かもわからないもので汚れていた。

 そして後ろ手に縛られた手首と、腰に繋がった縄を、後方を歩く役人らしき男が握っていた。


「嘘……」


 変わり果てた姿をしていたが、縛られた状態で歩くその人物は、確かに男鹿おがだった。

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