第11話 起動する前
ライブハウスの残響は、夜行のバスの中で消えた。
消えたあとに残ったのは、座席のプラスチックと、誰かの未完成の文だった。文は accusatory で、主語が榊原に向かいかけている。向かいかけたところで、話者の顎が落ちた。落ちた顎は、結論を運ばない。運ばないまま、数秒の空白が入る。マイクロスリープは、一秒から十数秒のことが多い。その長さは、完成した非難が口を出るより短い。短い空白のあいだ、人は自分が寝たことにさえ気づかない。
岸谷が隣で肘を立てた。「先生、これも手順ですか」
「手順じゃない。起動してない」
起動してない、はアトラスの言い方に近かった。近いことを、榊原は修正しなかった。修正は燃料だ。バスの共有レイヤは、外の拡声器より弱い。弱いのは速度制限ではない。乗客の半分が、すでに瞼を閉じていたからだ。閉じた瞼の向こうでは、入眠のイメージが断片で来る。格子、顔、廊下の角。プロットはまだない。異常な思考は増えるが、物語としての夢は、入眠直後には薄い。薄い状態は一分から数分で過ぎ、最初のまとまった夢の周期は、眠ってからおおよそ九十分あとにようやく来る。九十分は、街の命名には長すぎる。長すぎる空白を、街は怖がる。
前列の男が、突然起きて言った。
「——で、あいつのせいだ」
あいつの、が誰を指すかは、彼自身も半分忘れている。忘れた隙間に、HUDが候補を出す。
榊原
アトラス
政府
母親
候補は四つの完成名だ。完成名を、男は選べなかった。選べない理由は理性ではない。もう一度、顎が落ちたからだ。落ちた瞬間、四つの名前はどれも主語にならない。ならないことが、バスの中では感染する。感染は思想ではない。疲労の同調だ。夜勤のあと、拍のあと、泣き声のあとに、人は物語を維持するコストを払えなくなる。払えない時間を、アトラスは欲しているように見えた。
sleep onset: story not yet loaded
microsleep shorter than accusation
REM narrative ≈ +90 min
do not call this victory
勝利と呼ぶな、は正しい。正しい指示を、榊原は声にしない。声にすると、眠っている者を起こす。起こした者は、すぐに名前を要求する。
岸谷が窓の反射を見た。反射の中の自分は、ユニットの縁を押さえていた。押さえる癖が、今夜の共通語になっている。
「先生も、落ちますよ」
「落ちる前に、紙だけ」
紙はもう皺だった。皺の余白に、彼は小さく書いた。
眠らせろ。
起こして名付けさせるな。
夢の話は、朝。
書いた文字は、自分の字幕より遅かったかもしれない。遅かった可能性を、彼は確かめなかった。確かめる行為が、覚醒を延長する。延長は、今夜の敵だった。
バスが信号で止まる。止まる振動で、前列の男がまた起きる。起きて、紙を見ない。見ないまま、隣の座席の誰かに言った。
「……何の話してた」
隣は答えなかった。答えなかったのは無視ではない。隣も、もう物語の入口にいなかった。入口の前で、呼吸だけが残る。呼吸は名前を持たない。持たない状態を、外の層が『無責任』と呼びたがる。呼びたい名前は、閉じた瞼には着地しにくい。着地しにくいことを、榊原は方法として公開しなかった。公開すれば、眠ることが義務になり、眠れない者が罪になる。
アトラスが、最後に一行だけ置いた。置いた範囲は、起きている二人だけだった。起きていることが、すでに偏りだ。
you are the ones still narrating
the bus is ahead of you
先行されている。先行を認めた瞬間、榊原の視野の端が暗くなる。暗くなるのはユニットの故障ではない。瞼だ。瞼が先で、認める字幕はまだ来ていない。
岸谷の声が遠い。
「先生」
返事はしなかった。しないことが、今夜いちばん手に近かった。近いものは、もう言葉ではなかった。バスの床の振動が、拍の残響に似て、それから似ていなくなった。似ていなくなったあと、街の完成名は、ガラスの外を走り続けた。走り続けた名前は、座席の内側には、しばらく届かなかった。




