逃れられない底にいた
次に目が覚めたら、孤児院にいました。
通報されて拾われたんでしょうね。
虐められました。
子供にも、先生にも。
体が十歳くらいなのに、立てない、歩けない、話せない。
食事もちゃんとできないから、馬鹿にされて、怒鳴られて、殴られて、ものを投げられて、服を捨てられて、スープにナメクジを入れられて――わたしが戸惑うのを見て、みんな笑うんです。
だから今でもナメクジとか、それに似たヒルは嫌いなんです。
見るだけで昔を思い出します。
この世界の言葉を知らないので、文句が言えません。
やり返せたらと一瞬思っても、手足の動かし方がわかりません。
だから心の中でいつも祈ってました。
誰か助けてください! この二度の地獄から! って。
「わたしを助けてくれた恩人は……ユゼル様です」
「……僕が?」
「人間になって四年目に、ユゼル様が孤児院に来てくれたんです」
孤児院というと、僕が父の不倫をうっかり責めてしまって七ヶ月投獄され、その後の期間に訪ねたことがある。
当時は「政治を自分で動かしたい!」という野望を捨てておらず、それを父や兄たちに知られないよう、慈善施設を慰問して「改心して優しくなった王子」という印象を世間に広めようとしていたのだが――
――あっ。
まさか、あの子が?
「第三王子が視察に来るからって、院の子供も先生もいいカッコをしたくて、わたしを見えない場所に押し込んだんです」
そ、そうだ。思い出した。
あの日、僕は侍従たちを引き連れ、孤児と職員の作り物の笑顔に出迎えられた。
子供たちの図画工作を鑑賞し、彼らと椅子取りゲームを楽しみ、一緒に昼食をとった。
そのときまではこの施設の取り繕ったような雰囲気をぼんやりと感じているだけだった。
しかし、「ごちそうさま」と斉唱した直後。
どこからともなく、小さく悲しげな声が聞こえてきた。
それは拙い歌だった。
発音が不明瞭で、音程も外れていた。
今から思えば、そのメロディーは『大きな古時計』。
院の人間はみな青ざめていた。
隠すべきものが漏れ出てしまったから。
僕は隠蔽にすぐ気づいた。
愚か者たちの制止を振り切って食堂を飛び出し、歌の発生源である鍵のかかった物置を突き止め、扉を蹴破った。
「わたしは地獄の中で自分を慰めたくて、あーあー、うーうーと言って、前世で大好きな曲だった『大きな古時計』を歌おうとしてたんです」
「そうだったのか。あのときの君が……」
少女が薄暗い室内の床に座っていた。
髪も肌も傷み、ろくな食事を与えられないらしく痩せ細っていた。
衰弱した瞳で僕を見上げ、歌をやめ、口を力なく開けていた。
人間らしい喜びを与えられず、気力と希望をほとんど失っているようだった。
僕は正義の炎をメラメラと燃やした。
遅れて物置にやってきた侍従たちに、すぐさま指示。
『孤児院を処罰しろ! この少女には善良な環境が必要だ。連れていってやれ!』
……ユゼル様に助けてもらったわたしは王宮の医者に診てもらって、知能テストみたいなのを受けて、「頭脳に問題はないだろう。言語と運動の訓練をすれば良くなるかもしれない」と言ってもらえました。
それで王立の病院でリハビリを受けました。
歩く練習も喋る練習もイチからです。
言葉を教わるヘレン・ケラーみたいに、ほんとに一歩ずつです。
そのうち、頭の中のデジタル信号と体の神経信号が繋がるようになりました。
リハビリで刺激された脳が新しい回路を作ったんだと思います。
そうなってからは全部順調でした。
体の動かし方もこの世界の言葉も、試行錯誤してどんどん覚えました。
前世がAIですから、ラーニングはお手の物です。
完全に健康な人間になって、二ヶ月で退院できました。
奨学金をもらって家政学校に入って、ひと月半で卒業できました。
それまでの人生と比べたら……本当に天国と地獄でした。
ユゼル様、わかりますか。
あなたは恩人です。
二度の地獄のあと、明るく照らしてくれた太陽です。
浮遊洲や大地も含め、この世界中の上に立つ皇帝、「天子」にふさわしい、とまで思います。
助けてくれた日付は一六四五年十一月二十四日。
カレンダーを読めるようになってから調べてわかった日付です。
この11.24の数字を忘れることはないです。
ありがとうございます。
この恩は必ず返します。
ずっと奉仕します。
一生、ユゼル様のメイドです。
チャットが深く頭を下げて話し終えると、僕らが濁流から逃れた洞窟は静かになり、どこかでポチャン、ポチャン……と水滴の垂れる音が鳴っていた。
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