悲惨な末路 見えていた
断崖になっている空の島の端で、菱形の凧を渡された。
幅が約三フィートあり、緑青色に染められたシルクの布が張られ、両手でぶら下がれるように持ち手が二つ付いている。
「この凧は丈夫なのか?」
近衛兵に聞く。
刑の執行を任された彼らが僕を囲んでいる。国王や兄たちは来ていない。
「長年、大地への流刑がなされるたびに、同じ設計のものが用意されています。地上へ降りていく途中で壊れたという記録は今までありません。また、浮遊晶を削って溶かした染料で布を染めておりますので、その浮力によって緩やかに降り立つことができる――と考えられます」
「『考えられます』?」
「実のところ、安全な着陸を確かめた例はありません。大地は浮遊洲から離れすぎていて、望遠鏡を使ってもよく見えませんし、あいだに雲が湧いて隠されることもしばしばです。なので、この刑が本当に流刑となっているのか、それとも重力を使った遠回しの極刑なのか、これは神にしか判らないのです」
「そうか。親切に教えてくれてありがとう」
「恐縮です」
「……では、さらばだ」
凧を頭上に構え、故郷の島から飛んだ。
全ては僕の軽挙妄動のせいだ。朝議で変な考えを起こさず、大人しく黙っていれば、兄たちに断罪されるきっかけは生じなかった。去年に国王の逆鱗に触れて自分は馬鹿だと反省したのに、その反省を忘れたのがいけなかった……。
雲や霞の下に、果てしない原野が広がっている。
濃い色の樹海と、くすんだ色の平原と、蛇行した群青色の河川が、四方に延々と続いている。
北の地平線では冠雪した山脈が連なり、それ以外の方角は濃淡のある緑色の地平線になっている。
塩水に満たされた「海」という場所もどこかにあるはずだが、見えないくらい遠くにあるらしい。
とにかく無人の大地だけが眼下を占めている。そこへ降りていく。
凧がちゃんと機能して降下スピードを緩めてくれる。
ひらけた場所へ行きたかったが、風に流された。
樹海の真ん中に着陸。
見渡す限り、木の葉と苔と羊歯が茂って鬱蒼とした、暗い緑色ばかりの世界だ。
空気は湿っぽく、少し涼しい。
数々の見上げるような大木の樹冠が空を塞いでいる。
凧は枝が刺さってビリビリと裂けてしまった。
「……なんだこれ?」
そこで気づいたのは、凧の木製の骨組みに字が書かれていることだ。
能書家が走り書きしたような細く流麗な筆致で、
「光に光を返してください。そこへ向かいます」
と記されている。しばらく考えたが意味が解らない。
(凧を作った人が、上手く飛ぶことを祈って呪文か何かを書いたんだろうか? ……まあ、そうかもしれないし、違うかもしれない。とにかく僕には関係なさそうだ)
これ以上の詮索はしなかった。
ところが実はこの文字は僕へのメッセージであり、理由は後述するが、メッセージの意味に気づいていれば、僕は孤立無援でないことを知り、いくらか安心してその後の十一日間を過ごせただろう。もっと根気強く考察すれば良かったのに……と悔やまれる出来事だった。
地上での生活はサバイバルだ。
森の中で木の実を食べ、朝露を吸う。
川や湧き水があれば良かったが、降下地点の近くでは見つからなかった。
そして四日目あたりから、朝露だけでは渇きに耐えられなくなった。
植物の茎を切って汁を吸ったけれど、その場凌ぎにすぎなかった。
曇りの天気が多いのに雨が全く降らない。
いや、降ったとしても、僕は水筒やバケツなどを持っておらず、雨水を貯える方法を知らない。
(早く水源を見つけないと……!)
その一心で歩き回る毎日。
十一日目に渓流の水音が聞こえたときは本当に嬉しかった。神が第三王子を見捨てず、最高の恵みを与えてくれたのだと思った。
鬱蒼とした樹海の中に現れた、小さな白い河原。
ザバザバと流れる川の幅は三十フィートほどだ。
――で、手ですくって飲んだときは変な味も異臭もなかったのに、それからすぐに全身がふらふらして、胃に激痛が来て、吐瀉物を河原に撒き散らした。
土壌から毒が染み出たのか動物の死骸が上流にあったのか知らないが、とにかく川の水が汚染されていたらしい。
朦朧として仰向けに倒れた。
両目が霞んだ。空を見上げても、視界は白い靄に包まれ、その先に真昼の太陽がうっすらと映るだけ。視力が駄目になっていた。
樹海を彷徨い、朝露を飲み、木の実を食べてサバイバルを続けてきたが、そろそろ助からない気がする。
腰にサーベルとピストルがある。
ピストルは、マスケットの前後を半分以下に切り詰めたような形をした、単発の先込め式で、黒色火薬と丸い弾丸の装填は済んでいる。これらの武装は大地での護身具として流刑の際に所持を許されていた。
僕はもっと症状が酷くなる前に、サーベルで喉を裂くかピストルで側頭をブチ抜くかして、楽になるべきかもしれない。
一万七千フィートの上空に浮かぶフィスモル島が、白い靄の中のぼやけた茶色い物体として視認できる。
あそこへ帰りたい……だが、遠すぎる……。
「……………………………………………………………………………………………………………………んんっ?」
そのとき、フィスモル島の端がキラッと光った。
小さな光だ。その光は白く、僕の弱まった視力でも分かるほど明るい。
そして規則的に点滅を始めた。
あれは……何かの信号?
天空の文明では離れた浮遊洲のあいだで光の信号がよく使われる。
相当な距離があっても光は届くし、伝書鳩より速い。
鏡で太陽光を反射し、鏡をくるくる回したり前を塞いだりして点滅を作り出す。点滅の数と長さで単語や文を表現する。
(大地からでも信号は見えるのか……誰が誰に送っているんだろう……)
勉強をサボってきたので信号の意味は解読できない。
そして、なんとなく、あの光に向けて光を送ってみようと考えた。
救難信号を出したかったのではないし、助けを求めたとして救援が来るとも思わない。
生きることを諦めた中で、絶命まで少し暇を潰すため、幼児が積み木を見て遊ぼうと思うくらいの単純な動機でそうしたのだ。
腰に付けたサーベルを抜く。
力が入らずふらふらと揺れる右腕で、それを頭上に掲げる。
鋼の刀身が真昼の日差しを反射する。手首を回してサーベルをネジのように回転させれば、キラキラと点滅を作ることができる。
(地上で何か光ってるのを見て、天空の人はどう思うだろう? 出鱈目の信号に驚くだろうか? 偶然川や池が光っただけと思うだろうか? 光っていると気づかないかもしれないな。まあ、どんな反応をしてくれてもいいし、僕はその反応を知るすべもない。死にかけの僕は、ただ剣がキラキラしてるだけで、今は楽しいんだ……)
そう思って、ずっとサーベルで遊んでいた。
まさかこのおふざけで自分の命が救われるとは到底想像できなかった。
「光に光を返してください。そこへ向かいます」
凧の骨組みに書かれていたメッセージ通りのことを、たまたま僕はしていた。
実に幸運な偶然だ。僕が光を送って居場所を知らせなければ、天空にいる「彼女」はどこへ救助に行けばいいのか判らなかったはずだ。
(……あれっ?)
朦朧としていたら、いつのまにか天空からの信号は消えている。
直後、光っていたフィスモル島の端っこから、胡麻粒みたいな極小の何かが落下を始める。
形は分からない。
色も分からないが、黒っぽいかもしれない。
(……???)
霞んだ両目を凝らして観察する。
サーベルを回していた右手は無意識のうちにピタリと止まっている。
胡麻粒がゆっくり大きくなってくる。
僕に近づいている。
衰弱していた僕の視力は最後の力を振り絞るみたいにピントを合わせようとしている。
ぼんやりとそれが何なのか見え始める。
その正体は――凧にぶら下がった人間だ。
凧は流刑に使われたものと同型の菱形で、幅が三フィートほどあり、シルクの布地は浮遊晶を溶かした染料で緑青色に染められている。ゆえに、その落下スピードは重力に従うよりもずっと緩やかだ。
人間のほうはメイドの服を着ている。
シックな紺色に染められたワンピースの上に、純白のエプロンを巻いている。白いフリルのカチューシャを頭に付け、服の肩口、エプロンの端、スカートの中も、同様のフリルで飾られている。
両脚には茶色い革のローファーと、わずかに肌の色が透けた黒のパンティストッキングを履いている。
その人物が大地まであと少しという高さにふわりと降りてくる。
顔つきが分かる。
若く、もちっとした頬。
血色のよい肌。
やや低くて愛らしさのある鼻。
小さいながらもぷっくりとした唇。
少女だ。
素直な感じのする真ん丸で亜麻色の目をしている。
同じ亜麻色の髪はふわっとしたボブカット。
背丈は四フィート十インチほどだろうか。十六歳の僕よりいくらか年下の成長途上と思われる。
彼女は――僕の顔を見てにっこりと笑った。
その名はチャット・メイド。
やがて河原に着陸し、ケエコーホセェ液とかいう美味な飲料で僕を回復させ、
「さあ、ユゼル様。『大きな古時計』みたいにわたしを相棒にして、一緒に大地をサバイバルしましょう!」
続けてこのように語った。
「こっちの世界は、振り子時計とかピストルとか火薬とか望遠鏡を作るくらい、科学が進んでますよね? でも、それよりすごい世界が、別の場所にあるんです。わたしはそこから来ました!」
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