チャット・メイドを苦しめた
僕らは東へ走る。
そこは身を隠す植物の陰が燃えてなくなっているから、一刻も早く駆け抜けるべきだ。
今朝、別れるときにラグリィから聞いたが、邪哭龍は縄張りから大きく外れた人間は追わないという。
つまり、そこまで逃げれば助かる。
どうにかなる、という希望が僕の中に湧いてくる。
しかし、チャットも僕も、同時に足を止めた。
急に止めざるを得なかった。
大地が寸断されている。
深さ七十フィート以上の渓谷が刻まれ、両岸の赤褐色の岩盤はほとんど垂直の絶壁。
谷底は土色の濁流。この川が長年にわたって地盤を侵食したらしい。
谷の幅はどこも三十フィート以上。決して古代の橋などはない。
魔獣の声がすぐ背後から聞こえる。
低空でホバリングしており、羽ばたきに合わせて熱風が僕らを襲う。
異常な高温だ。
特に邪哭龍の周囲は炭を自然発火させるほどの温度になっており、一度燃えたはずの黒い樹木が再び猛然と燃え上がる。
前は奈落の谷。
後ろは炎と敵。
「くそっ!!」
振り向きながらピストルを抜く。
すぐに引き金を引く。
放たれた銀弾は――右方向に羽ばたかれ、躱されてしまった。
次弾と火薬を装填する暇はないから、今のがラストチャンスだった。
ついさっきまで、どうにかなると思っていたのに。
悲愴な心地で顔を歪めて俯く。
「………………………………………………チャット。焼かれるよりも溺れるほうが助かると思わないか?」
「む、無茶です! この高さから川に飛び込むだけでも衝撃で危ないです!」
「だが、他にどうするっていうんだ?」
メイドが「ぐっ……!」と息を呑む。
僕は同意と受け取った。
頭部のないグロテスクな首から発射された熱線を至近距離で回避し、少女を腕の中に引き寄せる。
決断。
断崖の端へ走る。
だって……こうするしかない!
――――――――――
誰のせいかと言えば、全部僕なのだ。
王国の地下牢で何に気づいて反省したか思い出すべきである。
世界一優秀な王子であると錯覚し、周囲を見下し、好き放題しているようでは、未来はないのだ。
流刑になり、大地でどれだけ痛い目を見ても、結局はその発見の重要性を理解していなかったのでは?
敵のようだった兄たちや父も、今から思えば、僕を矯正したかったのだと解る。
適当にこちらが思いついた「理想の政治」がどれほど間違っているか、兄たちは論戦の中で丁寧に語ってくれた。
不倫を非難されて逆上したように見えた父も本当は、子が親に意見することの重み、王と王子の序列を教えたかったはずだ。
なのに何も改めなかったから、見放されて流刑にされたのである。
そして馬鹿は、自分が不幸になるだけでなく、人々を不幸にする。
屋敷に勤めていた数十人のメイドや執事は、主人を流刑で失って、おそらく解雇。
僕の幼い頃からの教育に携わった者などは信用を完全に失っただろう。
チャット・メイドの人生が誰よりも狂った。
今の彼女は息をしておらず、水びたしの姿で、ぐにゃりと横向きに倒れている。
弱々しい赤色になった挙身瞭は歯車が割れて全く回転していない。
崖から川に飛び降りて着水したときの衝撃は予想を超えていて、僕は気を失った。
その後、頭に流木が当たった拍子に目覚めたのだが、それは濁流に流されている最中のこと。
より遠くに流されたチャットがうつぶせに浮かんでおり、僕は泳いで追いついて抱き起こした。
目をつぶって口が少し開いており、反応がない。
少女を抱え、二人分の重量が水没してしまわぬよう足掻きながら流され続け、そこで不幸中の幸いというべきか、川岸の断崖に洞窟を見つけた。必死に激流に抵抗し、なんとかそこへ這い上がった。
「チャット! チャット!」
洞窟の内壁にもたれさせ体を揺すったが、目を覚まさない。
少女の口元に耳を近づける――呼吸の音がない。
それから何をすればいいのか、僕には分からない。
川の水が肺を塞いでいるとしたら、どんな方法で吐かせることができる?
胸を押すのか? みぞおちを押すのか?
背中を叩けばいいのか? 口や鼻から吸い出すのか?
王宮では溺れた人の救命術なんて教わらない。
いや、探求心があれば王宮の蔵書で調べられる。兄たちなら子供の頃にそうしただろう。愚かな僕とは違って……。
文字通り頭を抱えた。
目の前が暗くなる。
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