6.ぐうの音も出ねぇ
「……魔界から魔人が人間界に来てるってのか?」
オルトの声が低く響いた。
『その可能性が極めて高いかと』
魔法石越しに、ハンスが静かに応じる。
『それを裏付けるように、最近、魔人や魔物の不審な失踪が相次いでいるとの通報が頻繁にあり、その上最悪なことに“魔力飴”らしき物が魔界と人間界で密かに取引されているとの報告を受けました』
「魔力飴、ね……」
オルトの目が細くなる。
「ちっ……一掃したはずだったのに、また湧いてやがるか」
世界には、はっきりとした“境界線”が存在している。
――魔界と人間界。
それぞれの世界に住む者たちは、この“境界”を越えることで、異なる世界へと足を踏み入れることができる。
しかしその代償として、魔界の住人が人間界に入れば、魔力は著しく減少し、まともに魔法を使うことはできなくなる。
同様に、人間界の魔力も、魔界においては力を封じられてしまう。
魔界一の魔力を持っている、魔王オルトも例外ではなく、人間界に来てからは魔力が半分以下にまで落ち込んでいた。
――だが。
「魔力飴さえ使えば、どっちの世界でも魔力が自由自在……ってわけだ」
『はい。境界の制約を完全に無視して、魔力の行使が可能になります。危険な代物です』
「危険ってレベルじゃねぇな…下手したら魔界も人間界もめちゃくちゃになるぞ....」
魔力飴。
人工的に作られた“境界干渉緩和剤”。
世界のルールをねじ曲げ、魔力の壁を越える禁忌の飴。
そう――オルトが魔界を統一し魔王になる前までは、
魔界と人間界をつなぐゲートは複数存在していた。
しかし、代償が大きかったため、ゲートをくぐって往来する者は、ごくわずかだった。
だが、「魔力飴」の出現で、世界の均衡は崩れ始めた。
その飴を利用し、力を得た魔人や魔物たちは人間界で魔力のない人間を襲い、暴れ回った。
一方で、人間界の狡猾な魔法使いたちは、魔界で珍しい姿を持つ魔人や魔物たちを捕らえ、奴隷やペットとして扱うようになった。
こうして、人間と魔人は深く憎み合い――
人間界も魔界も、やがて戦火の海と化した。
そんな混沌のただなかで、
オルトは魔界で暴れる人間や魔人、魔物たちを、圧倒的な力でねじ伏せていった。
そして、魔界に存在する六つの国をまとめあげ、その頂点に立った。
彼は魔界に存在していたすべてのゲートをひとつに統一し、
魔力飴の流通源をすべて破壊・壊滅させた。
人間界でもまた、王の命により同様の技術が封印されたと伝えられている。
その後、魔王となったオルトは人間界の王達と直接交渉を行い、
互いの世界に干渉しないことを条件に――
ついに、両界のあいだに正式な平和条約が結ばれたのだった。
それが今、密かに流通し始めている――
誰の手に渡り、何を生もうとしているのか、分からないまま。
「……はぁ。とりあえず、魔界が関わってるってんなら、放っとくわけにもいかねぇな……」
オルトは眉間を押さえながら、低く呟いた。
『それにしても、魔王様――お変わりになりましたね。』
ハンスが言った。
「あっ?」
『五年前、ハルという少年を預かって以来、急に話し方や人間の作法について私に聞いてくるようになって……』
ハンスは、くくっと笑いを堪えながら続けた。
「そっ、それはっ……あいつが俺の話し方とか真似するようになっちまったからっ....」
オルトはため息混じりに言い訳する。
『さて――それでは、お休み中の魔王様には申し訳ありませんが。
散歩のついでに、今回の件も解決してきてください。』
「……ああ!? おい、ハンス!!」
オルトは思わず机を叩き、怒鳴り声を上げる。
「お前なぁ! もうちょっと主を丁重に扱えって、いつも言ってんだろ!? 何が“ついで”だ、“ついで”って!!」
ハンスは気にする様子もなく、
『それと、くれぐれも“あなたが魔界の魔王であること”は知られぬよう、お気をつけくださいね。』
と最後に釘を刺すように言った。
「あぁ...分かってるよ!」
ぷつっ。
通信が――切れた。
「はぁ~~~……」
肩を落とし、魂が抜けたような声が漏れる。
「……ほんっとに、あのメガネ……」
しばらく文句をぶつぶつ言いながら、椅子に沈み込んでいたが――
やがて、ふっと小さく笑った。
「……毎日ハルの修行見て、たまに散歩して、昼寝して。そういう生活も悪くなかったけど――」
オルトはゆっくりと立ち上がり、軽く背伸びをした。
「……そろそろ、体を動かすのも悪くねぇか」
そう言いながら、ハルとの共同クローゼットの奥から魔界から人間界に来た時に着ていた黒いローブを取り出した。
「よし――久しぶりに“真面目に散歩”してくるか」
そう呟いた魔王は、ハンストの連絡用ブレスレットを腕にはめ、のそのそと旅支度を始めた。
ガチャッ。
旅支度をしていたオルトのもとに、扉が開く音が響いた。
「……師匠、何やってるんですか?」
少し眉をひそめたハルが、部屋の中へと入ってきた。
「ん? ちょっとな。最近ここら辺の景色に飽きてきたから、近くの国まで“散歩”に行こうかと思ってな」
オルトは振り向きもせず、背中越しに答えた。
「……ひとりでですか?」
振り返ったオルトは、背後に立つハルの顔を見つめ、首を傾げた。
「おう、なんか問題でもあるか?」
ハルは無言でオルトを数秒見つめ――
「はぁ~~~……」
と、盛大なため息をついた。
「……あなたが“ひとりで”散歩に行って、道に迷わず帰ってこれたこと、ありましたっけ?」
「……」
オルトは言葉に詰まり、ローブの裾を整えながら目をそらす。
「だってよぉ、ほら、魔法使えば何とかなっ……」
「それは、転移魔法が勝手に連れてってくれてるだけで、あなた自身が道を覚えてるわけじゃないですよね?それに、転移魔法は魔力の消費が激しいからって――迎えに来いって、俺に連絡してくるくせに。」
「……っ」
そう、魔王オルト・マフィネス――
かつて魔界を統一した伝説の男にして、“地図が読めない方向音痴”。
魔力による転移魔法なら迷いようがないが、いざ“自分の足”で歩くとなると、驚くほど迷子になる。
それはもう、村に来てからの5年間、何度も何度も実証されていた。
「……それで、迎えに行く俺の身にもなってくださいよ。毎回、森の中とか崖の下とか、意味わかんないとこで寝てるし」
「お前、細かいな」
「細かいっていうか、師匠の散歩のあとには必ず、“これも修行だ”とか言って捜索させるし...」
オルトは、ハルが自分を見つけるまで待つのにも飽きたのか、
ハルの十四歳の誕生日に、自分との通信用の赤い魔法石をはめた――お揃いの指輪をプレゼントしたのだった。
(あの時のハルは、なんだか少し妙だったんだよな。
顔を赤くして、“師匠、これって……どういう意味ですか?”なんて聞いてきて……)
オルトは、相変わらず鈍感だった。
「それに、ヒナにオススメされた“マルア山の湖”、師匠……まだ一度もたどり着けてませんよね?」
「ちっ、あそこなぁ。いつの間にか反対側の山に登ってたんだよな……」
「そういうのを“方向音痴”って言うんですよ」
「うっ」
「近くの国に行くって……師匠、絶対たどり着けませんからね?」
ハルがバッサリと釘を刺す。
「いやだから、魔法を使えば……」
「“魔法を使えば”って、簡単に言わないでくださいよ」
ハルは軽く肩をすくめ、真顔で続けた。
「国によっては、魔法を使ってるところを“見られた”だけで捕まる可能性だってあるんですから」
「……っ」
オルトが言葉に詰まり、視線を逸らす。
――そう。
人間界に来てから、オルトが学んだことのひとつ。
魔界のように、誰もが魔力を宿して生まれてきて、当たり前に魔法や異能を使えるわけではない。
この世界では、“魔法”は信仰する神や精霊に選ばれしものだけが使える特別な力だった。
ハルも無意識下のうちに選ばれていたのだろう。
(人間界は大変だな...)
中には「奇跡の救世主」として称えられ、貴族のような扱いを受ける国もあれば――
「魔人」「異端」として恐れ、厳しく弾圧される国もある。
サント村は、比較的平和な“アルファ王国”の支配下にある。
この国は魔法に対して寛容的であった。
しかも、サント村は“辺境中の辺境”。
王都の影響はほとんど及ばず、外部の目も届きにくい。
そのため、たとえオルトが多少の騒ぎを起こしたとしても、国に知られることはなかった。
だがその代償として、獣や盗賊が現れて村を襲ったとしても――
国に助けを求めたところで、兵士たちがやって来ることは、一度としてなかった。
しかし――今から向かう国では、そうはいかないかもしれない。
「ちっ、メンドくせぇな」
オルトは口を尖らせてボヤいた。
「つまり……魔法も使えず、道も覚えられず、方向音痴であるあなたが、たったひとりで旅に出ようとしていたってことですね?」
「そこまで言わなくていいだろ....って...うぉっ」
ガシッ
ハルは、オルトの両肩を強くつかみ、その澄んだ青い瞳で真っ直ぐに見つめた。
「ということで、師匠。俺も行きます」
「いや、お前は――」
オルトが言いかけた瞬間、ハルは肩にかけた手にさらに力を込めた。
「もう、決めました。
俺がいなかったら……絶対に帰ってこれないでしょ」
「……ぐっ……!」
オルトは歯を食いしばり、悔しそうに顔をしかめたが――
ぐうの音も出なかった。