2.金髪の少年
「んー……」
魔王オルトは悩んでいた。
ひとまず、部下たちをなんとか言いくるめ、数十年の休暇という夢のような自由を手に入れた。
だが、ここで新たな問題にぶつかっていた。
「どこに散歩に行こうか……?」
長年見慣れた魔界の風景。
のどかな草原や、静かな火山地帯、澄んだ硫黄湖のほとりなど、散歩コースとしては悪くない。
悪くないのだが――
「……あまりにも見飽きた。」
彼はかつて、魔界を統一するために世界中を歩き回った。
そのため、魔界のあらゆる地形や景色は、もはや“見慣れたもの”でしかない。
「どうせなら、今までに見たことがない風景がいいよなあ……」
そう呟いたあと、しばらく考え込んでいたオルトだったが、
やがて何かを閃いたように素早く立ち上がり、魔王城を後にした。
その足が向かった先は、魔界の東端。
“鏡の森”――
封印と結界の狭間に位置する、かつて決して踏み入れてはならなかった地。
その森の中には、数え切れないほどの鏡が眠っている。
だが、その中にひとつだけ、特別な“鏡”がある。
月と太陽、人間と魔人の彫刻が施された荘厳なフレームに守られたそれは――
魔界から人間界へ繋ぐ、たった一つのゲートだった。
もっとも、そのゲートは常に閉ざされており、開かれるのは極めて稀。
いつ、誰に応じて開くかは、誰にもわからない。
だがその日、ちょうどオルトが鏡の前に立った瞬間――
まるで彼を誘うかのように、ゲートは静かに開いた。
赤い瞳が、きらりと愉快そうに細められる。
「……行ってみるか....」
そして――
魔王オルトは、そのゲートを静かに踏み越えた。
鏡が移していた景色がゆらりと揺れ、空気が変わる。
肌に感じる風は軽く、空はどこまでも青く澄んでいた。
辺りには禍々しい魔物の気配など微塵もなく、草の香りが鼻先をくすぐる。
「ほぅ……」
オルトは思わず足を止め、目を細めて見渡す。
広がるのは、魔界では見たこともないようなのどかな田園風景。
遠くに小さな村のようなものが見える。
畑、木々、小川。すべてが平和で、どこか懐かしさすら感じさせる風景だった。
「人間界はつまらない世界だと聞いていたが……」
赤い瞳が、きらきらと嬉しそうに輝く。
「この景色のどこが“つまらない”んだ?」
と、そこで――
ぐぅぅぅ~~……
腹の虫がなった。
「……人間界の食べ物、気になるな」
オルトはのどかな草原を歩きながら、煙の上がる方向を目指して歩き出した。
食べ物を求めて、そして新たな景色を探して――
魔王の、気まぐれな人間界散歩がついに始まったのだった。
村へ向かい、のんびりと草原を歩いていた魔王オルトだったが――
「……ん?」
遠くから、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「なんだ……?」
オルトは歩みを止め、耳を澄ます。
「キャアアアアアアア!!!」
「逆らうんじゃねぇ!!!こっちは兵権を持ってんだぞ!!」
怒号と悲鳴が混じった叫び。
その音は、明らかに平和な村には似つかわしくないものだった。
オルトはすぐさま茂みに身を潜め、村の様子をそっと覗き込んだ。
視線の先――
村の広場では、数人の大柄な男たちが剣やナイフを振り回し、住民たちを脅していた。
「……あの甲冑、安物ではないな。軍の支給品か。となると、どこかの国の兵士……か?」
オルトの目が鋭く細められる。
村人たちは手足を縛られ、抵抗する者は容赦なく殴り倒されている。
そして――
「誰か!!!!! 誰か助けて!!!!」
甲高い少女の声が、あたりに響いた。
「お母さん!! お父さん!! やめて!! 殺さないで!!お願い!!」
小さな体を震わせながら、必死に叫ぶ七歳ほどの三つ編みの少女。
その目の前では、彼女の両親と思われる夫婦が、地面に押さえつけられ、兵士たちに殴られていた。
血が流れ、呻き声が響く。
茂みの中でその光景を見つめるオルトは――眉をひそめ、沈黙した。
(……なんて面倒な場面に遭遇してしまったんだ)
オルトが茂みから飛び出そうとした――その瞬間。
「おい!! クソ野郎ども!!!」
突如、広場に響いた高い声。
「俺が相手になってやる!!」
その声に、全員の動きが止まった。
現れたのは、まだ十歳ほどの小さな金髪の少年。
細い腕でナイフを握りしめ、今にも震えそうな足で兵士たちの前に立ちはだかる。
「ハル兄……!」
少女――ヒナが、涙に濡れた目でその少年を見上げた。
少年は、ヒナを安心させようと、不器用に微笑みながら言った。
「ヒナ、俺がこいつらを倒してやるから、お前は後ろに隠れてろ。」
その声には、どこか大人びた落ち着きと、強い決意が込められていた。
小さな体。
剣を持つ兵士たちとは天と地ほどの体格差。
なりふり構わずに走ってきたのか、服もボロボロ。
その隙間から見える肌も傷だらけだった。
だが――その少年の瞳だけは、まるで獣のように燃えていた。
茂みにいたオルトは、思わず息を飲んだ。
(……おいおい、何なんだこのガキは)
興味と、ほんの少しの感情が、魔王の心に揺らぎを生んだ。
「ハハッ! 笑わせるなよ」
兵士のひとりが腹を抱えて笑った。
「おい見ろよ、ナイフだってよ。おもちゃか? 木の枝のほうがマシなんじゃねぇのか?」
「そんなもんで俺たちを倒せるとでも思ってんのか、小僧ォ?」
仲間の兵士たちも一斉に嘲笑を上げる。
その声は高く、村中に響いた。
だが――
「お前たちみたいなクズ野郎には、ちょうどいい武器だろ!」
少年・ハルはまったく怯まず、キッと睨み返す。
その目は、今にも殴りかかってきそうな大人たちを前にしても、微塵も揺らいでいなかった。
そして次の瞬間――
ひとりの兵士が剣を振り上げ、怒鳴り声とともに少年へと襲いかかった。
「ガキが調子乗ってんじゃねぇぞ!!!」
その刃が振り下ろされた瞬間――
ズドンッ!!!
突然、兵士の背後から、地面が爆ぜるような衝撃が走った。
「……あーあ。やっぱり面倒なことになったな」
赤い目をした黒髪の男が、黒いローブを引きずるようにしながら、どこか気だるげに現れた。
見知らぬ男の出現に、村の空気が一変する。
「おっ、お前は……何者だ!!」
兵士の一人が、突然現れた黒髪の男に叫んだ。
オルトは、鬱陶しそうに片手をひらひら振りながら答える。
「……はぁ。お前たちに、いちいち名乗る必要はないよ」
そして、ゆっくりと片手を前にかざした。
赤い瞳が、静かに――だが妖しく光る。
次の瞬間。
ゴゥゥン……
村の大地が低く唸り、眩しい赤黒い光が広場全体を包む。
地面一面に浮かび上がったのは、複雑で巨大な魔法陣。
そこから、もやのように揺れながら――無数の“黒い手”が現れた。
ぐわっ!
「うわっ!? な、なにを――ッ!?」
「や、やめろおおお!!」
兵士たちが悲鳴を上げる間もなく、黒い手は的確に彼らだけを掴み、地面の奥――闇の裂け目のような場所へと引きずり込んでいく。
ズズズ……ッ!
まるで底のない奈落に落ちていくかのように、彼らは一人、また一人と姿を消していった。
一瞬の出来事だった。
静寂が戻った広場には、ただ立ち尽くす村人たちと、赤い瞳をすっと細めるオルトだけが残されていた。
「……やれやれ、ちょっと外に出ただけなのに、面倒な奴らと出くわすとはね」
そう言って、オルトは肩を軽くすくめた。
――――――――――
戦いが終わり、呆然と立ち尽くしていた金髪の少年――ハルが、ようやく我に返る。
だが、すぐに思い出したように顔を青ざめさせた。
「ヒナっ! 大丈夫か!?」
「うん……! ハル兄のおかげで、だいじょ……ぶ……でも……」
ヒナの瞳に、また大粒の涙が溢れる。
その視線の先には、倒れたまま動かない両親の姿。
「お母さん! お父さん!!」
ヒナがそう叫び一目散に駆け寄り、ハルもヒナと続いて向かった。
「お願い、目を覚まして!! お願い!!」
ヒナは血に染まった両親の体を、泣き叫びながら小さな手で揺さぶる。
ハルは拳を握り締め、唇を噛みながらその姿を見つめる。
――そんな光景を、少し離れた場所から見ていた魔王オルトは、やれやれとばかりに深くため息をついた。
「……はぁ……」
オルトはとぼとぼと歩き、ヒナの背後に立った。
そして、赤い目を細めながら、傷だらけのヒナの両親を見下ろすと、気怠げに声をかけた。
「……そこのガキ、ちょっとどけ」
「な、何をするつもりだっ!」
青い瞳を見開き、少年――ハルが立ちはだかった。
傷だらけの体を盾にするように、ヒナとその両親を背にして、オルトを睨みつける。
まだ幼いその顔に、恐怖も、怒りも、必死な覚悟も浮かんでいた。
オルトは、ちらりとその少年を見やる。
面倒くさそうにため息をひとつ。
「……別に、邪魔はしないよ」
ゆっくりと、言葉を続けた。
「お前が、そのままアイツらを“あの世”に送りたいって言うなら、今すぐここを立ち去ってもいい」
「……っ!」
ハルの喉が詰まり、言葉を失う。
「けど、助けたいんだろ? なら邪魔はやめろ」
オルトは表情を変えないまま、地面に倒れた二人を見下ろす。
「このまま放置していたら、確実に死ぬぞ。あと数分も持たない」
その声には、脅しも怒りもなかった。ただ、事実だけが淡々と語られていた。
選べ――
助けるか、助けないか。
それは、オルトが少年に突きつけた最初の問いだった。
ハルは、唇を噛みしめながら震える拳を下ろした。
そして――静かに、オルトの前から身を引き、道を開けた。
オルトは無言でその場に進み出ると、再び片手を前にかざす。
その瞬間、地面が再び赤黒い光を帯び、大地を覆うほどの魔法陣が現れた。
そこから現れたのは――またも、あの“黒い手”たち。
「っ……!! やっぱりお前、さっきの……!」
ハルが咄嗟に飛びかかろうとした、その瞬間。
「うるせぇ!! 黙って見てろ!!」
オルトが鋭く叫んだ。
――そしてすぐに、声の調子を変える。
「……治療は不得意なんだよ。だから、邪魔するな。」
さっきとは打って変わって、どこか宥めるような声音だった。
その声に、ハルの動きがピタリと止まる。
黒い手たちは、さきほどの“捕縛”の時とはまるで違う動きを見せた。
まるで風がそっと撫でるように――優しく、静かに、両親の体を包み込んでいく。
やがて、広場に倒れていた他の村人たちの元にも、黒い手がするすると伸びていき、彼らをも包み始めた。
村中の地面に、次々と“黒い繭”が生まれていく。
それはまるで――
“命の再生”を待つ、静かな蛹たちのようだった。
しん……と静まり返った空気の中。
繭たちの内側から、淡い赤い光がにじみ始める。
パキ……ッ
パキパキッ……!
繭の外殻に、ひびが走る。
やがて――
バサリ、と音を立てて黒い殻が剥がれ落ちる。
中から現れたのは、傷ひとつなく目を開ける人々。
血の気を取り戻した顔、苦しみのない表情。
生きている――それも、確かに“癒された”状態で。
ヒナが息を呑んだ。
「……お父さん……? お母さん……!?」
彼女の声に、母親がゆっくりとまぶたを開け、微笑んだ。
「……ヒナ……?」
「お母さん!!! お父さん!!!」
ヒナは涙をこぼしながら、無事に目を覚ました両親に飛びついた。
母親も父親も、少し驚いたような表情を浮かべながらも、そっとその小さな体を抱きしめる。
そんな光景を横目に、ハルはただひとり、じっとオルトを見つめていた。
言葉もなく、表情も読めないそのまなざし。
だが、その奥には確かな“動揺”があった。
そんな視線に気づいたオルトは、ふっとため息をついて言った。
「……何睨んでんだ、ガキ」
「助けてやったんだぞ。もっと喜べよ」
ぶっきらぼうな声。だが、その言葉には責めるような色はなかった。
ハルは、オルトを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……誰も……助けてくれるなんて、思ってなかったから」
その声は、小さくて、あまりに静かだった。
オルトはまた、ひとつため息をついた。
そして、ぼさぼさの金髪の頭に、手を乗せる。
「……とりあえず、助かったんだから、それでいいだろ」
そう言いながら、雑に、だが力強くハルの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「お前も、あいつと同じように飛びつきに行ったらどうだ?」
ハルは一瞬、迷うような顔をしていたが――
やがて、小さく頷き、振り返ってヒナとその両親の元へと駆け出した。
その背中を、オルトはどこか満足そうに見送っていた。