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血の鎖

作者: 眞基子

「血の鎖」


      (一)

 

藤石愛果は都内の墓苑にある父と母の墓前に座り、暫く墓碑を見つめていた。五月の抜けるような青空が、消し去りたいあの日の事を穏やかに包み込んでいる。悪夢のような事実を知らされたのは去年の四月。父の孝三は末期の膵臓癌を患っている。母の芙実子は付ききりで父の看病をしていたが、日に日に体調の悪化が進んでいた。

 その日、愛果は大学を抜け出し、父の入院している大学病院に駆け付けた。今は小康状態を保っているが、いつ何時急変するか分からないと主治医に言われていたからだ。個室の中から愛果の耳に、父のとぎれとぎれに囁くような声が聞こえた。一瞬、母への愛を囁いているのかと思い、ドアを少し開けて手が止まった。カーテンが半分ほど引かれた中から聞こえたのは父の告白だった。

 「ごめんな、結婚する前に言うべきだった。でも、愛する芙実子を失うのが怖くて言い出せなかった。俺は無精子症だったんだ。子供がいなくても絶対に芙実子を幸せにすると誓った。だから妊娠したと聞かされた時、一瞬奇跡が起きたと思った。いや、思いたかった。愛果の産声を聞き、顔を見た時、神様が授けてくれたと。あの日から俺は幸せだった。そして、このことは墓場まで持っていくと誓った。でも、この先愛果の身に何か起きたとき、遺伝について知っておくべきだと思った。心は愛果の父親だが血は抗えない。芙実子を傷つけた事だけが心残りだ。愛してる、ずっと愛してた」

 とぎれとぎれの声が急に聞こえなくなった。愛果は慌てて病室に入り、ナースコールを押した。それから慌ただしく医師や看護師達が出入りし、狭い個室に医師が父の死亡を告げる声が静かに響いた。一瞬、愛果は先程受けたショックより、父の死顔が重荷を下ろし安堵したように見えた事にホッとしていた。傍らで芙実子は震えながら嗚咽を漏らしていた。以前、医師から病状を告げられ夫の死を覚悟していた芙実子だが、死よりも恐ろしい現実を受け入れられないようだった。

 あの日から寝付いてしまった芙実子の胸中を慮り、愛果は気丈に親戚の人達の助けを借りながら、孝三の葬儀を執り行った。私達の心中に関係なく時間は進んでいく。周りは芙実子の憔悴しきった様子は、亡くなった孝三への思いだと考えていた。

 阿佐ヶ谷にある戸建ての家は、愛果が産まれた時、孝三が設計して建てたと聞いている。孝三は大手ゼネコンで設計士として働いていた。愛果の為に自分で設計した家を誇りに思っていたに違いない。そして、この家から愛果を嫁に出す夢もあっただろう。四十九日の納骨が終わった時、その家のリビングで愛果はアルバムを開いた。愛果の誕生から三人の幸せな時が写り出されている。この幸せが最後の最後に傷ついた。あれから芙実子は体調を崩し、入院している。入院に際し、芙実子は愛果に事実を告げた。

 「私の油断が悪かったのよ。当時、付き合っていた別の会社に勤めていた田多快二から社長の娘と結婚すると言われたの。結婚するものと思い込んでいた私はショックだった。当時、同じゼネコンで事務員をしていた私が落ち込んでいるのを見ていたお父さんが、私を救ってくれたのよ。暫くしてお父さんから結婚を申し込まれたの。多分、お父さんは私が振られたことにも気付いていたと思うわ。それでも何も言わず優しく私に寄り添ってくれた。お父さんの優しさは愛果も良く知ってるよね。結婚式の三日前、田多から私の物が部屋にあるから結婚前に返すと言われたの。お互いきれいさっぱりして次の生活を始めようと。私は、それが何であるかも確認せず部屋に行った。そこで最後だからと私は乱暴された。でも、訴えることは出来なかった。迂闊に田多の部屋へ行ったのは私のせいだったから。お父さんに何も言えなかった、三日後結婚式を控えている前に。結婚式を終え、私は一生黙っている事にしたのよ。お父さんを裏切った自分への罰として一生抱えていこうと。妊娠してお父さんの子だと思った時、どこかこれで少しだけ罪が軽くなった気がしていたのよね。でも、その罪がずっとずっと、お父さんを苦しめていた。そして、最後に愛果にも罪を負わせてしまったわ」

 母の体調が急変して、心臓麻痺で亡くなったのは、それから間もなくだった。父の葬儀では親戚も手伝ってくれたが、あの話を聞いていた愛果は誰にも母の事を聞かれたくなかった。親戚の人達も続いた葬儀に愛果の気持ちを思んばかり、母の葬儀は愛果に任せ、直送にして愛果一人で見送った。

 その時、愛果は誓った。私の両親は父、孝三と母、芙実子だけだと。

 手伝うと言ってくれた恋人の互井亜樹雄にも、あの事は話せない。互井亜樹雄は背が高く、スッキリした体形で東大の医学生。実家は北海道札幌市で病院を経営している。七歳上の兄は医師で結婚後、実家の病院で働いてる。愛果の両親は静岡県で父親は掛川市出身で母親は沼津市。同じ静岡県民でも、会社に入ってから同じ県民だと知って驚いたという。今も父親の実家は掛川で、父の兄は高校教師だったが定年後、塾の講師をしている。次兄は実家の水産会社を引継ぎ経営している。母の両親は母が大学生の時、交通事故で両親共他界した。母は一人っ子だったので、母の実家は無い。それゆえ母は父と結婚し、家族つまり家が出来たことを大切にしていた。父方には四人の従兄弟がいるが、全員男なので父方の方から愛果をたいそう可愛がってくれた。 

 愛果は栄華大文学部英米文学部に在籍している。


     (二)


 あれから一年、夏が近づいてきても愛果は就職を探す気がせず、いや何がしたいのかさえも浮かばない。大学四年の最終学年を迎え、夏前に友人達は内定で就職先を決めている。栄華大理工学部でIT技術分野に進んだ中学からの親友の日比野杏は、IT企業コノエに就職が内定している。最初、杏は愛果を気遣って就職の話をしなかった。愛果は、そうやって周りとの距離を遠ざけている自分に気付いた。そんな中、亜樹雄は忙しい授業の合間を縫っては、愛果を食事に誘ってくれる。今日は夕食にハンバーグが評判の洋食屋に来た。

 「どう、気分が落ち着いた?」

 「ええ、両親の一周忌も無事終わったし、あの時は来てくれてありがとう。叔父さん達は葬儀の時もそうだったけど、亜樹雄に感謝しているわ。愛果を宜しくってプレッシャーを掛けてたみたいだけどね。友達が次々就職先が決まっていくのを見てると焦っちゃうけど、この頃は何とかなるって開き直ってるわ」

 「それがいいよ。大丈夫、イケメンの俺が付いてるって」 

 亜樹雄は、笑いながらハンバーグを食べている。

 「イケメンって、それ本人が言う?」

 愛果は笑いながら亜樹雄に救われているのを実感している。

 「今、悩んでいるんだけど、家を売ろうかなって。父が私の産まれた時に父が設計して建ててくれたのよ。ただ、一人で住むには広いし、防犯的にも心配だから。この前、誰かに付けられたような気がしてね」

 亜樹雄は愛果を見て、ハンバーグの皿にフォークを置いた。

 「それは怖いな。俺の可愛い愛果に何かあったら心配だよ。俺の所に来る?」

 「オオカミの館に?」

 愛果は笑いながら食後のコーヒーに手を伸ばした。あの家には、家族三人の思い出が詰まっている。でも、その中には父の苦しみも混じっていた。亜樹雄は愛果を見ると少し考えるように言った。

 「売るのは急がなくてもいいんじゃないか?オオカミの館は兎も角、俺のマンションに越してこないか。俺のマンションはセキュリティ対策がしっかりしているからね」

 愛果は、父の苦しみも母の後悔もひっくるめて家族の家だ。

 「そうね、暫く売るのは止めてマンションを探すわ。オオカミが住んでいないマンションを」

 愛果は冗談ぽく言いながら、まずは一歩前に進もうと思った。亜樹雄と食事をした三日後、愛果は阿佐ヶ谷にある不動産屋へマンションを探しに行き帰ってきた昼前、家に泥棒が侵入していたのを見た。大した物も置いてないのに家の中はごちゃごちゃで、何がどうしたか足の踏み場もない。一瞬パニックになった愛果は、取り敢えず警察に連絡した。そして亜樹雄にも電話を入れた。亜樹雄は、すぐ愛果の家に飛んできてくれた。

 「愛果、大丈夫か?この前、付けられた気がするって言ってただろう。ひょっとすると、本当に愛果を付けて来たんじゃないかな」

 地元警察の阿佐ヶ谷署から生活安全課の警察官や鑑識が来ていた。

 生安課の後藤刑事に色々聞かれていた愛果は、亜樹雄を友達として紹介した。四十過ぎの巡査部長は亜樹雄をじろっと見た後、愛果に聞いた。

 「この男性が言った付けられたというのは、いつの事ですか?」

 「一週間位前なんですけど、ただそう感じただけで誰かを見た訳じゃないんです」

 「もし、そいつが本当に付けていたなら、あなたの家が分かったという事です。でも、あなたが居ない留守を狙ったとなると、奴の目的はあなた自身ではなく、何かの物、現金か書類か、犯人にとって都合の悪い物かな?」

 愛果は必死に考え込んだが、これと言って浮かばない。

 「現金は殆ど置いていませんし、今はスマホで決済しますから。犯人にとって都合の悪い物と言われても、これと言って金目の物も無いし。物が具体的に何だと分ればいいんだけど」

 後藤刑事は苦笑し、我々もそれが分れば探しようがあるんですけどねと言って首を竦めた。鑑識は、指紋、足跡など

あるとあらえる所を隈なく調べていく。指紋、足跡は取っていくが、今は対象にするべき人がいない。一応、他との識別として、愛果も亜樹雄も指紋の提出をした。警察が引き上げてから、亜樹雄は心配そうに言った。

 「まずは、ざっと片づけてから暫くホテルに泊まったほうがいいな。それにやっぱり俺のマンションがいいよ。何かあったら、すぐに愛果の所に行けるからね。不動産屋に空き部屋があるか、明日早速聞いてみよう。いいだろう?」

 愛果は怖くなって頷いた。それから愛果は、亜樹雄に手伝ってもらい、一応ざっと片づけた。かなり遅くなり、雨戸など戸締りをしっかりしてから、当座の荷物をスーツケースに収め、新宿のホテルに入った。

 亜樹雄は愛果を見ながら言った。

 「まずは食事をしよう。お互い昼飯を食べていないだろう?」

 「でも、食欲が湧かないわ」

 「分かるけど、これからが戦いだぞ。体力維持も戦いには欠かせないからな」

 「戦い?」

 「そうさ。このままじゃ気分悪いだろう。何か見えないものに脅かされるなんて。勿論、警察も調べてくれるだろうけど、愛果を狙ったというか愛果の家が狙われたんだ。犯人は、単にコソ泥じゃないって気がしないか?」

 愛果もそう言われると、確かに我が家が狙われたんだと思った。ただ、理由というか何をというか、そこが分からない。今は考えても埒があかないなら、亜樹雄の言う通り体力だ。愛果は猛然に食欲が湧いてきた。

 次の日、亜樹雄のマンションが三日後に一部屋空くらしいと連絡してきた。すぐ契約しておいたから、三日間はホテルにいた方がいいと。でも、愛果はやはり犯人が何を探していたのか調べたいし、マンションに移るにしても片づけなくてはいけない。愛果は亜樹雄にラインで今日家に戻るからと連絡を入れた。亜樹雄が電話をしてきた。

 「今日は、これから抜けられない授業があるから行くなら夜になる。明日は一日中空いているから、明日二人で行こう。今日は家に近づかない方がいいよ。犯人が目的の物を探せなかったら、又、来るかも知れないからな。いいか、一人では行くなよ」

 「そんなこと言われたら怖くなるじゃない。分かったわ、今日は杏とランチしながら、ぶらつくことにするわ。杏には家へ泥棒が入った事言ってもいいよね」

 「そうだな、警察も動いているんだから隠す事は無いと思うよ。ただ、これと言って大した物は取られなかったみたいだと言った方がいいよ。実際、分からないんだし。変に勘ぐられるのは嫌だからな」

 「分かったわ」

 「夜、電話するから夕食は一緒にしよう」


     (三)


 愛果は親友の日比野杏に、これからランチできないかラインしてみた。すぐにオッケーの返信があり、新宿駅の西口改札前で十一時に会うことにした。愛果は新宿のホテルにいるので十分前に着くと、杏はもう待っていた。杏は吉祥寺のマンションに住んでいる。

 「何か久し振りだね。ご両親のこと大変だったけど落ち着いた?」

 杏は愛果に会ってから、すぐに聞いてきた。この一年、杏には何度か会っていたけど、どこか落ち着かない気分だったし、杏の方も遠慮がちに話しているのが分かった。

 「うん、大丈夫よ、ありがとう。杏には心配かけちゃったね。亜樹雄にも色々心配かけたし」

 「でも、互井君が傍にいるから愛果は幸せだよ」

 「うん、亜樹雄にはいつも助けてもらっているわ。ねえ、ランチは何にする?食べ終わったら、たまには渋谷か原宿に行かない?洋服も見たいし」

 愛果は、思うとこの一年、新しい服を買っていなかった。何となく気分が乗らなかったのだ。でも、今は前に進まなければいけない、戦うためにも。

 「そうね、確か原宿に美味しいイタリアンレストランが出来たはずだから行ってみようか。イタメシでいい?」

 「いいよ」

 愛果は杏と原宿に出来た新しいイタリアンレストランに行った。新しいだけあって、お洒落な店だった。ランチタイムには、少し早かったせいかゆったりとしたテーブルに付くことが出来た。各々、ピザやスパゲッティ、サラダと飲み物のランチセットを頼んだ。

 「杏、就職内定おめでとう。確かIT企業コノエだったよね、一流企業じゃない。後は卒業までのんびり出来るね。いいなぁ、でも私はゆっくり探すことにしたわ、焦ってもしょうがないしね」

 「愛果は語学堪能だから、その気になったら選び放題じゃない」

 「以前は留学も考えていたけど、今はそれどころじゃないのよ」

 「どうかしたの?」

 愛果は、声を落して囁いた。

 「実はこの前、家に泥棒が入ったのよ」

 「ええっ?」

 杏は驚いて声を出し、慌てて声を落した。

 「一人で大丈夫だったの?」

 「うん、私が出掛けていた時だったから。鉢合わせてたらと思うと怖かったわ。ただ、家中がめちゃくちゃで大変。だから今は新宿のホテルに泊まっているの、亜樹雄がそうしろって言うし」

 「そりゃ、互井君の言う通りよ。それで、何取られたの」

 「それが荒らされていたから、何を取られたのか分からないのよ。警察は戸建てだから金品を狙ったんじゃないかって言ってたけど、私はお金も置いて無いし、これと言って価値ある物なんて無いわ」

 愛果は当たり障りのないように話した。

 「確かに警察が言うように一軒家だと、金目があるように思うのかもね。愛果も一人暮らしだから心配だよね」

 「ああ、それでね、亜樹雄がマンションを探してくれて近じか越すつもり。だから、暫くはバタバタだわ」

 「それがいいわ。やっぱり彼氏がいると心強いよね」

 「杏だって紀野君がいるじゃない」

 「どうかな、この頃何となくね。私の就職が内定してからかな。最初は自分の就職が内定していないから焦っているのかなぁって思っていたけど、そうじゃ無い感じだし。ほら、以前は内定の時期は秋位だったんじゃない。今は企業も早く決めたいと思っているみたいね。少子化の影響だから、早目に決めておきたいし、学生の方もその方が安心だからね。光輝は就職よりも何か起業したいみたい。ただ、それが何なのか言わないし、言いたくないみたい。互井君は医者になるんだから愛果も安心だよね」

 「そんなことないよ、人生どうなるか分からないでしょう。私は落ち着いたら仕事というかこの先の事を考えようと思ってるわ」

 実際、愛果自身も先の人生をどうしたいかまだ考えていない。

 「それはそうね。今まで光輝とはずっと付き合っていくって漠然と思っていたけど、お互い別々に恋人が出来るかも分からないし。そもそも結婚なんて考えないかもしれないわ」

 久し振りに会った二人は、将来を考えるにしては、早すぎる歳だ。

 二人はランチの後、愛果の洋服を見つけがてら、久し振りに渋谷に行った。渋谷駅周辺は大規模な開拓が行われ、二人は地下街でウロウロし、目立たなくなったハチ公を見て、お互い笑ってしまった。それから、何軒かの店を見ながら愛果は夏用のワンピースとそれに合わせた薄手のカーディガンを買い、杏はタンクトップとブラウスを買った。人の多さと歩きなれない疲れで新宿に戻り、昔ながらの落ち着いた喫茶店でコーヒーを頼んだ。女二人の会話は尽きない。中学の頃の話、特に噂話に花が咲いた。

 「ねぇ、覚えている。中三の時のクラスメイト、何て名前だったかな。ほら、ちょっと暗くて目立たなかった人」

 杏は思い出そうと視線を上に向けた。

 「ねぇ、ひょっとすると甚恵さんの事?」

 「そうそう、甚さん。高校はどこに行ったか知らないけど、この前甚さんがホステスしているって聞いたわ、確証はないけど。お父さんって酷い人で多額の借金をして、どこかにトンズラしたみたい。お母さんも病気がちで、その借金に追われているって噂を聞いたわ。私の両親は群馬の田舎で細々だけど酒屋を商っているだけで幸せだわ。あっ、ごめん、親の話なんかして」

 「やめてよ、変に気を使われる方が疲れるよ。両親が病気で続けて亡くなった時は辛かったけどね。それより、両親が生きていても甚さんも大変なんだね」

 それから二人の噂話は尽きず、もう結婚した友人の話に驚き、でもご主人が優しい人で幸せらしい話にほっこりとした。

 杏と別れると愛果は疲れが出てホテルに戻ると、すぐにベッドヘ横になるといつしか眠ったようで、亜樹雄からの電話で起こされた。時計を見ると六時を過ぎている。

 「ラインしたけど既読が付かなくて、何かあったのかと思って心配したよ」

 「ああ、ごめん。杏と久し振りに原宿や渋谷を歩き回って疲れたみたいで、ベッドへ横になったら寝ちゃったみたい」

 「疲れているなら出掛けるのもなんだから、弁当買って部屋で食べよう。何でもいいか?」

 「そうね、杏とはイタメシ食べたから、たまには握り寿司がいいかな。宜しく」

 暫くして折寿司を持って亜樹雄がホテルの部屋に来た。丸いテーブルに折寿司を置くと、愛果が用意していたお茶を添えた。食べ終わって一息付くと亜樹雄が聞いてきた。

 「杏とは楽しかったか?」

 「ここ一年に三回会ったんだけど、杏は私を気遣かってくれてたし、私も何となく前みたいになれなかったの。でも、前に進もうと思ってから以前みたいに話せたし、杏と中学時代の友達の噂話なんかで楽しかったわ。むしろ今は泥棒の事が気になるわ。それから、杏に我が家へ泥棒が入った事と、今度マンションに住むことにしたって言ったけど、亜樹雄のマンションだって言ってないわ」

 「言ってもいいんじゃないか、杏が愛果の所に来ることだってあるだろう。同棲するわけじゃないんだから。それとも俺と一緒に住む?」

 愛果は、亜樹雄を軽く睨んだ。

 「やっぱりオオカミの館かしら」

 「俺は明日一日空いてるから愛果の家に行こう。どっちみちマンションに越すから、荷物の整理もしなくっちゃ駄目だろう。でも売るわけじゃないから不要なものは家に置いといてもいいんじゃないか。明日、ここに来るよ」

 明日の時間を決めてから亜樹雄が帰って行った。亜樹雄とは、東大の学祭に杏と二人で行って初めて会った、二年の時だ。その後、二人で会うようになり、恋人として初めてキスもした。その頃、父の膵臓癌が発覚し、愛果の気持ちは恋より父の事が心配だったし、亜樹雄もそっと寄り添うようにしていた。愛果は亜樹雄を愛してる。しかし、キスすることに躊躇いがあるのは、母の告白を聞いたから。ただ、何時までもそのことに縛られていては前に進まない。

 次の日、朝早くホテルへ来た亜樹雄と一緒にホテルでモーニングを食べてから、家へ向った。一日中閉め切っていた部屋は、何となくムッとした空気が籠っていた。雨戸を開け放した部屋は、あの時隅に片づけたままだった。まずは車で持ってきたダンボールをリビングに置き、マンションへ持っていく荷物を詰め始めた。授業に必要な本や思い出のアルバムなどの他、当座の夏秋用着替え、割れ物の食器類。両親のベッドや布団、二人の洋服などは葬儀が終わって暫くしてから、叔父さん達が処分してくれた。愛果は両親の荷物がトラックに載せられた時、少し悲しかったが一人では処分出来ないので助かった。今ある大物の家具は愛果の大事な勉強机と椅子それに座卓くらいだった。途中、昼食用にコンビニで買ってきたおにぎりやお茶などで一息ついた。

 「不動産屋から連絡があって部屋が早く空いたので、今日クリーニングするので、明日から入居出来ると言ってた。引っ越し業者を頼む程でもないから浩司に頼んでおいたよ。車は軽でいいだろう」

 白川浩司は亜樹雄の高校からの親友で、愛果は何度も会っているし、三人でランチにもよく行った。浩司は亜樹雄より少し小柄だががっしりした体躯で、子供の頃から柔道をしている有段者。東大の法学部に所属している。

 「ええ、でも白川さんにも迷惑掛けるわね」

 「愛果が付けられたみたいだし、泥棒に入られた事も話しているよ。そしたら、俺がガードマンとして守ろうかって言ったから、それだけは止めろって言ったよ。笑いながら俺をからかったんだな」

 それから、まずは明日運ぶ物だけは片づけた。

 「結局、泥棒が何を狙ったのか分からないな。もう一度見直してもこれといった物は無かったしな」

 「そうなのよね。警察の言うように目的が何か分からないし、普通の泥棒だったのかもしれないわ」

 「どっちにしろ、明日からはセキュリティ対策がしっかりしているマンションに住むわけだし、俺も傍にいるからね」

 愛果は両親の事を話そうかと思ったこともあったが、泥棒とは関係ないだろう。

 次の日は、朝からバタバタと引っ越しを始めた。家具は食事も出来るくらいの座卓と勉強机と椅子で、洗濯機や冷蔵庫は小型の物を、ベッドやソファも買った。大物と言えるのは、寝なれている寝具などや座布団で後から又買い足してもいいし、当座の生活に必要な物は運び込んだ。

 「白川さん、今日はありがとうございました。また、改めて食事にお招きしますわ」

 愛果は、荷物を運び込むと白川に礼を言った。

 「いや、大した事はないよ。このマンションの中はオオカミがいるから安全だけど、夜は早目に戻るほうがいいよ」

 愛果は、一応引っ越ししたことを阿佐ヶ谷署生安課の後藤刑事の携帯に電話した。初めて会ったとき後藤刑事から名刺を貰い、裏に携帯番号を書いて何かあったら電話して下さいと言われていた。

 「セキュリティ対策がなされているマンションなら戸建てより安心ですね。彼氏も同じ所なら尚更だ。申し訳ないが犯人の目星が付いてないんです。必ず犯人を逮捕しますから、暫くは気を付けて下さい」

 後藤刑事は、必ずの語尾を強く言った。

 「はい、気を付けます。捜査の方、宜しくお願いします」

 二週間後、愛果はマンション生活に慣れ、亜樹雄も何かと気遣ってくれた。愛果は料理を作り亜樹雄を部屋に呼んで食べることが日常になり、キスすることも自然な感じだった。それ以上の関係は、お互いに距離を置くことにしている。亜樹雄は結婚までのことを口にし、愛果は笑ってしまった。そのうち泥棒に入られたことも話題にしなくなっていた。 


     (四)


 夏に入り、ゆったりとした生活に激震が走った。後藤刑事から二人で阿佐ヶ谷署に来て欲しいと連絡が入り、愛果は亜樹雄と二人で警察署に赴いた。後藤刑事は二人を会議室に招き入れた。

 「驚かないで聞いて下さいね。あの時、愛果さんの家で採取した指紋が一致した男が、昨日殺害されているのが発見されました。まだ、詳細は不明ですし、泥棒の一件の関連は分かりませんが、より一層気を付けて下さい。あの後、家から何か不審な物が見つかりましたか?」

 「引っ越しの時に一応再点検してみたのですが、これといったものは発見されませんでした。」

 愛果は、この頃泥棒の事は忘れかけていたので殺害の言葉にショックを受けた。亜樹雄は落ち着いて後藤刑事に尋ねた。

 「殺害された男の身元は分かったのですか?それによって愛果の家から狙っていた物が少しでも判明するかと思いますが」

 「指紋から男の前科はありませんでした。これは絶対とは言えませんが、男は単に窃盗犯では無いかもしれません。窃盗犯は何度も繰り返す可能性があり、逮捕されている場合も多々あるのです。ひょっとすると、愛果さんの家にあった物を狙って侵入したことも考えられます。それが何なのか、あの時点でも分らなかったんです。この事件は窃盗ではなく殺人事件となり、刑事課の担当となりますし、警視庁との特捜になることがあるかもしれません。この先、色々な刑事の尋問があるかも知れません。大変だとは思いますが、ご協力をお願いします。私の方は窃盗事件として関わっていくと思いますので、何かあったら迷わず私の携帯に連絡して下さい」

 阿佐ヶ谷警察署からの帰り、愛果はショックが尾を引き、ずっと亜樹雄の手を握りしめていた。泥棒も怖かったけど、殺人事件となると恐怖が一段と上がった。

 「まずは部屋に戻ってゆっくり話そう。この事件が必ず泥棒と関係していると決まった訳じゃないからね」

 亜樹雄は、ゆったりとした口調で話しかけた。マンションに戻ると二人で愛果の部屋に入った。もう夕食の時間だが愛果は食欲もない。でも、亜樹雄に何か作ろうと冷蔵庫を覗き込んだ。

 「よし、今日は俺が食事を作ろう、任せろ。愛果はソファに横になってればいい」

 「えっ亜樹雄が?」

 「大丈夫だ、一応食べられる物は作れるよ」

 亜樹雄は冷蔵庫や戸棚を調べて、ありったけの食材を鍋に放り込み、更に冷凍うどんを入れて、それなりの煮込みうどんを作った。

 「ほら見ろ、お腹に入れば同じだ。さあ、食べるぞ。前にも言っただろ。腹が減っては戦も出来ずだ」 

 愛果もソファから降り、そろそろとテーブルの上に乗ってる煮込みうどんを眺めた。

 「そうね、お腹に入れば見た目は関係ないわね」

 愛果は、腹が減っては戦が出来ずだの言葉に勇気づけられた。

 「負けられないわ。私、頑張る」

 「いや、そこまで覚悟されてもな。何しろ後藤刑事が言ってたように、泥棒と関係があると決まった訳じゃない。俺が愛果を守るからな」

それから愛果も覚悟を決めて大学に通い、卒業に必要な単位を取得した。亜樹雄も医師の国家試験に向けて勉学に励んだ。愛果には時々後藤刑事から連絡が入り、殺人事件の捜査は進んでいないと聞かされていた。あれから刑事課の刑事から聴取を受けたが、刑事課の方も窃盗との関連が掴めないようだ。もっとも何が取られたのかハッキリしていない時点で、殺人事件との接点を見つけるのは難しいみたいだった。殺人事件の後、愛果も亜樹雄と家に行ってみたが、これといった物は無かった。夏の季節は八月のお盆を迎え、愛果も亜樹雄と一緒に両親の墓参りに行った。手を合わせて前に向っているよ、安心して見守ってねと心の中で言った。愛果は単位を取得した後、暇になったので昼間だけ週三回近所の喫茶店でアルバイトを始めた。亜樹雄から、まだ事件が解決したわ訳じゃないからな昼間だけだぞと釘をさされた。これって束縛じゃないのって文句を言いたいが、実際事件が解決した訳じゃないので、そう言われると反論できないし、私の事を心配してくれている人がいるのは嬉しい。それにコーヒーの入れ方を教わり、密かに店を出すのもいいかなって思った。


     (五)


 連日酷暑の日が続いていたある日、愛果に忘れたい過去を引き戻すかのような記事が新聞に掲載された。ある大会社の社長がこの秋の国政選挙に打って出ると書いてあった。IT企業コノエの社長、此乃江快二。以前、杏がIT企業コノエに内定した時、どんな企業なのか何となく会社のホームぺージを見て知った。此乃江快二、旧姓は田多だ。母から聞かされていた名前。それでも、その名前を聞くことは二度とないだろうと思っていた。杏がその会社に入社しても、社長の事を聞くことはないだろうと。しかし、暫くは選挙の報道で新聞やテレビで、その名前を目にすることになるだろう。今日は店が休みで良かった。愛果はソファに身体を投げ出し、ゆっくりと目を閉じた。ホームぺージを見た時はショックだったが、あれから時間が過ぎ、自分の中で消し去った名前だった。その名前が表立って出てくる。急に携帯が鳴りだし、一瞬びくりとした。

 「ああ、亜樹雄。携帯が急に鳴ったから驚いたわ」

 「何言ってるんだ。携帯が掛かってきたら急に鳴るだろう。何か声が変だけど何かあったのか?」

 愛果は深呼吸して自分を落ち着かせた。

 「何でもないわ。ソファでぼうっとしてたからドキッとしたのよ」

 「今日、夕飯を食いに行かないか?夕方には手が空くから」

 「そうね、でも今晩は一人でのんびりしたいから。ごめんね」

 愛果はそう言うとそそくさと電話を切った。今晩は亜樹雄と食事をする気がしなかった。亜樹雄に隠し事をしていることが後ろめたい気もする。でも、あの事を亜樹雄に話す気にならない。両親と私だけしか知らない秘密だから。暫く考えてから、そうだわ、あの事を知っているのは私だけ。あの男だって知らない。知りたくはないが、あの男に子供はいるのだろうか。もし、子供がいれば兄妹になる。これから、あの男が世間に出てくると家族の事も当然知れるだろう。でも、その前に知っておいたほうが少しは覚悟が出来るかも知れない。愛果はパソコンの前に座り、息を吐いた。此乃江快二を検索すると、すぐに出てきた。家族は妻と二人と書いてあった。愛果は、それ以上見る気にならず、すぐにパソコンを消去した。子供がいないことに、どこかでホッとした自分がいた。

 九月に入っても猛暑は収まらなかった。後藤刑事から連絡が入ったのは九月の最初の週。

 「やっと殺害された男の身元が分かりました。こちらから行ってもいいのですが、出来れば彼氏と二人で来ていただけますか?」

 「分かりました。すぐ彼に連絡します。もし、彼の都合が悪ければ一人で伺います」

 愛果は、すぐに亜樹雄へ電話して二人で阿佐ヶ谷警察署に行き、前の会議室に通された。部屋には後藤刑事と刑事課の吉川刑事と武田刑事がいました。まずは、後藤刑事が話し始めた。

 「ご足労かけました。犯人の氏名は甚勇と言います」

 「えっ、甚」

 愛果は思わず声を上げた。愛果の反応に、亜樹雄もそこにいた刑事達も反応した。吉川刑事は驚いたような声を出した。

 「甚勇をご存じなんですか?」 

 「よく分からないんですが、私の中学三年の時のクラスに甚恵という人がいたんです。名字が変わっているので思わず驚いてしまったんです」

 「その甚恵さんとは、友達なんですか?」

 吉川刑事は書類を見ながら聞いた。

 「いえ、中学卒業以来、会ったことはありません。この前、親友と会ったとき噂で甚さんのお父さんが多額の借金をして行方不明になって、お母さんが身体が弱く、恵さんがホステスになっているらしいって聞いたんです」

 「そうですか。この甚勇の娘は恵です。甚は借金に追われて逃げ回っていたらしいとの情報があります。藤石さんの家へ泥棒に入ったのも金目の物があると思ったんですかね。犯人の捜査はこれからですが名前が割れたので、借金先を調べることになります。多分、ヤクザ関係から借りて殺されたとの見方もあります。ただ、犯人を逮捕するまで気を付けて下さいね。そして、互井さん、藤石さんの事を守って下さい」

 後藤刑事は愛果に言った。

 「これからも、何か気付いた事や心配な事があったら、何時でも電話して下さいね。お二人とも、今日は有難うございました」

 真夏の太陽が容赦なく降り注ぐ中、阿佐ヶ谷警察署を出た。亜樹雄は愛果を気遣いながら言った。

 「暑いな。阿佐ヶ谷駅に出て、昼飯でも食べるか?」

 「そうね、でも部屋でゆっくりしたいわ。ソーメンがあるから天麩羅でも買って行こうよ。亜樹雄は他に何か食べたい物がある?」

 「いや何でもいいよ。こう暑いと歩き回るのも疲れるかもな」

 「じゃあ、ついでに四谷駅のスーパーで買い物をしようかな。荷物を持ってくれる人がいるからね」

 愛果と亜樹雄は、四谷駅のスーパーで飲み物や食材をまとめて買った。マンションは四ツ谷駅から歩いて五分位の便利な場所にあった。部屋に戻ると疲れてたので買ってきたサンドウィッチとコーヒーで昼食にした。天婦羅は夕食に回してソファで寛いだ。

 「今日は驚いたわ。まさか犯人が甚さんのお父さんなんて」

 「俺も驚いたよ、愛果が声を上げた時。でも、本当にたまたま愛果の家に入ったのかな。それとも何か他に目的があって入ったのかな」

 「他の目的って?」

 「俺にも分からないけど、前にも言ったように愛果の家を狙ったような気がしているんだ。そういえば、この前電話した時、何か様子が変だったよね。何かあった?」

 愛果は一瞬、声を詰まらせた。出来れば、一生私の胸に仕舞っておこうと思っていた。

 「愛果、言いたくないことは言わなくてもいいよ。誰でも秘密にしておきたい事はあるからね」

 「亜樹雄にもあるの?」

 「ああ、実は俺には隠し子がいる」

 亜樹雄は笑いながら言ったが、愛果は笑えなかった。ただ、抑えていた気持ちが溢れ、涙が流れ続けた。

 「愛果、冗談だよ。ごめん」

 亜樹雄は愛果を抱きしめた。愛果は暫く亜樹雄の腕の中で泣いていた。私は、この秘密を一生抱えて生きていく覚悟があるのだろうか。

 「もう、大丈夫よ」

 愛果は亜樹雄から離れてティシュで涙を拭いた。

 「これから先、黙っていてくれる?」

 「大変な事なんだな。その前に、一つ約束したらな」

 「何を」

 「この先、俺とずっと一緒にいると約束したら」

 「それは約束出来ないでしょう、私だけの問題じゃないし。亜樹雄が他に好きな人が出来るかも知れないでしょう」

 「それは大丈夫だ。少なくとも俺は愛果以外の女を好きになることはないし、愛果を他の男に目を向けさせない」

 愛果は嬉しいことだけど将来は誰にも分からないと思った。でも、今この瞬間は絶対に消えない。愛果はソファに並んで座り、愛果が抱えていた秘密を話した。

 「そうか。愛果のお父さんは、ずっと抱えていたんだな。そして、お母さんも苦しんだ。でも、愛果の中に流れているのは両親の心、血じゃない。この先、愛果の辛い事は俺が半分背負ってやる」

 「半分だけ」

 愛果は、吐き出したことで少し心が軽くなった。

 「勿論、俺に辛いことが起きたら愛果に頼む。お互い半分づつで合わさって一つになる」

 その日、愛果と亜樹雄は初めて身体を合わせた。


     (六)


 それから、秋の国政選挙に向けて新聞やテレビの放映が増えて行った。亜樹雄は気にするなと言ったが嫌でも目に入るし、外に出れば拡声器から名前が連呼される。短期決戦とばかり、各陣営は必死になっている。愛果は大学の勉強を理由に喫茶店のアルバイトを辞めた。店主の与党を応援する話題というか此乃江の名前を聞きたくなかったからだ。そんな中、後藤刑事から新たな情報がもたらされた。甚勇の過去の行動を調べていたが、借金といわれる大金の三千万円の出所がはっきりしないと言うのだ。

 「警察内部の情報を出すのはご法度ですが、いつもご協力頂いている藤石さんですので。実は行方を晦ましてから殺されるまでの四年間、全く雲を掴むように存在が分からないんです。唯一、足跡が証明されているのが、藤石さん宅に残されていた指紋なんです。何度も電話してご迷惑だと思いますが、刑事部の方でも、これといった情報が得られていないんです」

 「四年前には、あの家で家族三人で暮らしていましたし、泥棒が入った時は鑑識初め警察の方々が念入りに調べて頂いたんですよね。あれから彼と一緒に何度も家を調べましたが、これと言って何もありませんでした」

 「あっ、すみません。藤石さんの事を疑うようなことを言いました。我々の焦りが、ついつい言葉が出てしまいました」

 後藤刑事は、電話の向こうで頭を下げているような声を出した。

 「ふっと気にかかったんですが、甚さんは殺されていた所がどこだったんでしょうか?本当に我が家に入った泥棒が甚さんだったんでしょうか?決め手は指紋だけですよね。勿論、指紋は決め手になると思いますが、その指紋の採取場所、例えば家具など固定されている所からだったら間違いないけど、紙やコップなど動かせる物からだったら、それらに甚さんの指紋を付けて家に持ち込めば、他人でも甚さんに成れるような気がしますけど。すみません、刑事さんに生意気なことを言って」

 愛果は、ついつい気心知れた後藤刑事に言った。後藤刑事は暫く黙っていた。

 「いえ、藤石さんのおっしゃる通りです。泥棒が入った後、指紋が中々検出されず、手袋をしていたんだろうと考えていました。そんな中、指紋を検出して、これで犯人は決まりだと思っていたふしがあります。改めて調べます。ありがとうございました」

 亜樹雄は、この頃勉強に忙しく、夕食は愛果が作って愛果の部屋で食べる事が多くなった。愛果がこれじゃ新婚生活みたいで、本当に結婚したら新鮮な気持ちが薄れるかもって言ったら、大丈夫だよ、医師になったら忙しくて今みたいに、ゆっくり食べられないからね、と笑った。

 後藤刑事から電話が掛かった事を話した、そして、内容も。

 「そうだな、愛果の言うように今のところ泥棒が甚かどうか分からないな」

 「ちょっと後藤刑事に生意気な事言っちゃった。でも、後藤刑事は、もう一度指紋について調べ直すって言ってたわ」

 「そうだよな。俺も甚の指紋が出たと聞いて泥棒は甚だと思ったからな。でも、愛果のような見方もある」

 「どっちみち、後藤刑事の結果次第だけど。刑事課の方も分からないで大変みたい。四年間隠れて生活するの大変よね」

 「そうでもないかもね。三千万円が借金じゃなく強請って得た金なら、都内で隠れて生きていくのはどうにでもなるよ。指名手配されていたわけじゃないんだから」

 「それはそうね。借金でも訴えられた訳じゃないし、行方不明の届も出てなかったみたいだし。でも、我が家に泥棒が入った事だけは本当だわ。そこがハッキリしないと怖いというか気持ち悪いわ」

 「そりゃそうだな。いっそ家を売った方が安心かな」

 「私も考えていたけど、売るならスッキリして売りたいわ、両親の思い出も込めて」

 次の日、後藤刑事から電話があった。

 「藤石さんの言ったことで、判明したことがあります。再度、お手数ですが署の方にいらしていただけますか?電話で簡単に話せることじゃないかもしれないので」

 「分かりました。彼もいるので、これから二人で伺います」

 亜樹雄の授業は休みだったので家にいた。

 二人で阿佐ヶ谷警察署に行くと、いつもの会議室に通された。後藤刑事の他、刑事課の吉川刑事と武田刑事も揃っていた。いつものように後藤刑事が話し出した。

 「この間、藤石さんがおっしゃっていた事を再度調べた結果、指紋を採取した場所は散乱していたメモ書きのような物と二階の藤石さんの部屋にあった大学の封筒からでした。我々は手袋をしていて、たまたま手袋を外した際に、それらに触ったと考えていましたが、藤石さんが指摘されたように甚以外の者が侵入した際に、それらをわざと置いたことも否定出来ないと思い至りました」

 後藤刑事は、そういうと頭を下げた。

 亜樹雄は愛果に言っていた事を聞いた。

 「私達は甚が三千万円を借金したのではなく、誰かを強請って得たお金じゃないかと考えたんです。追われていたのは借金取りじゃなく、強請っていた相手から逃げていたんじゃないかと。すみません、素人考えです」

 黙って聞いていた吉川刑事が頷いた。

 「流石な推理力です。我々も借金先が見つからず、色々考えていたんです。誰にしろ、甚のような男に三千万を貸すとは思えません。おっしゃる通り誰かを強請っていたとなると、四年前に遡って強請る相手と強請る原因を探すということになります。ただ、藤石さんの家に泥棒に入ったのは甚じゃなくても何故藤石さんの家だったのか、どの家でも良かったのかという疑問が湧きます。その点は、どう思いますか?」

 亜樹雄は頷いた。

 「そこは、警察の捜査に期待したいです、四年前の事は我々の想像では分かりません。そもそも、私達も出会う前の事ですから」 

 「そうですね。我々は、甚の四年前の生活状況や人間関係を調べていきます。いつもご足労頂いてすみません。生安の後藤刑事はこれからも色々関わるかも知れませんが宜しくお願いします。又、我々が調べた事で話せる事がありましたら、話せる範囲で後藤を通じてお知らせ致します。また、何か分かったことがありましたら、お知らせ下さい」

 二人は阿佐ヶ谷警察署に行くことに慣れ、警察署に行くことに緊張することも無くなった。

 「折角、ここまで来たから家に寄ってみるか?」

 「そうね、暫く行ってないしね。まあ、新しい事が分かると思えないけど」

 愛果は暫く来ていなかったが、中に入ってむっとする空気に晒された。慌てて雨戸など窓を全開にした。すぐに愛果は気が付いた。

 「ねぇ、引っ越しの時、片付けた時と微妙にずれていない。下の和室の角に置いていた父が設計した書類なんか減ったような」

 「ああ、確かに少し減っているな。でも、一枚づつ丁寧に見ていたわけじゃないから、何が持っていかれたのか分からないな。鍵は掛かっていたよな」

 「一応、後藤刑事に言っておくわ」

 愛果が後藤刑事に電話すると、すぐに飛んできた。

 「何の書類が無くなっているか分かりますか?」

 「いえ、すみません。金目の物じゃなかったので、書類何か纏めてダンボールに入れて、この角に置いていたんです。マンションに越してから殆ど来てなかったです」

 「そうですか。それで鍵が掛かっていたと言いましたよね。と、いうことは侵入した者は合鍵を持っているということですね。住宅街なのであまりないと思いますが、監視カメラを探してみます。これで先程吉川刑事が言っていたように、泥棒はどの家でもなく、藤石さんの家を狙っていたということですね」

 「すいません、そのうちに処分しようかと思っていたので、気にしていませんでした。だから、何の書類だったのか分からないんです」

 亜樹雄は考えるように言った。

 「甚が誰かを強請って三千万円を手を入れたのは四年前ですよね。その頃この家で三人で住んでいたんです。お母さんは、ずっと専業主婦だし、お父さんはゼネコンの設計士。三千万円の価値があるものって何でしょうね。俺も書類はパラパラと見たぐらいですが、重要な事が書いてあるようには見えませんでしたけど」  

 「それこそ愛果さんが捨てようと思っていたような紙切れでも、犯人に取っては命取りになるようなものでしょうね。以前入った時は探し出せなくて、再度侵入して見つけたのかもしれません。書類が減っているということは、見つけ出したのかもしれません。そうなれば、この先侵入されることはないと思いますよ」

 後藤刑事は、そう言って帰った。家の中は引っ越した後、殆ど処分したのでガランとしており、和室の角にダンボール一個分が置いてあっただけだった。

「確か、ここに来る前に鍵屋の看板があったよな」

 亜樹雄は、そう言うと携帯で番号を検索し、電話していた。

 「すぐ来てくれるらしい。まずは鍵を付け変えてから帰ろう。今更、これといった物はなさそうだけど、勝手に入られるのは嫌だからな」

 愛果は、さっさと行動を起こす亜樹雄を今更ながら頼もしく思った。鍵屋は言ってた通り、早く来てくれた。鍵は、愛果と亜樹雄用に二つ作った。来た時のように新しい鍵をかけた。


     (七)


 「じぁ、阿佐ヶ谷駅前でパスタでも食べて帰ろうか。それから部屋に戻って色々検証しよう。犯人が合鍵を持っていた事は確かだし、狙いは愛果の家だった事は確かだよな」

 「そうね。気持ち悪いけどハッキリさせたいわ」

 二人は愛果の部屋に戻るとコーヒーを入れ、ソファに座ってから考え始めた。まずは、亜樹雄が話し始めた。

 「まず、四年前の事から考えよう。甚が三千万を強請るネタは何だろう。金額からして、相手は金持ちだろう。しかも、三千万を払っても隠したいネタ。そして、それと愛果の家との関係」

 「ええ。甚と我が家の接点は、私と甚恵さんが中学三年の時のクラスメートだけど、私は殆ど話したこともないし、高校以後会ったこともないわ。両親がどこかで甚との接点があったかどうかは分からないけど。そういえば、甚って事件を起こす四年前の仕事は何だったのかしら。例えば、建設会社で大工をしていたとか。もっとも、父はゼネコンで働いていたけど、設計士だったから会社で図面を書くのが仕事でしょう。絶対じゃないけど、建築現場に出ることは滅多にないと思うけど」

 「そうだな。肝心なことを聞き忘れていたよな」

 亜樹雄の携帯にも後藤刑事の携帯番号は登録されていた。亜樹雄は、すぐに後藤刑事に電話し、甚の以前の仕事を聞きだした。礼を言ってから電話を切った。

 「甚の仕事は池袋のビルの清掃会社で働いていたんだ。つまり、バーや飲み屋など夜の店が終わった後の清掃だから、時間は夜中ということになる。これは俺の考えなんだけど、例えば店の掃除の時、落とし物の中や噂話の中に強請るネタを見つけたんじゃないかな。例えば愛果の父親は仕事柄、接待でそういう店に行くこともあるんじゃないか。客の中にカモがいたかもしれない。勿論、父親が強請られていたとは思わないよ。例のことは、父親が亡くなった時まで母親も愛果も知らなかったことだから、強請るネタになったとは思えない。ただ、ゼネコンは仕事柄大金が動くことがあるかもしれない。もし、甚が客が酔って忘れた書類を拾って客を強請ったとする。その客Aとする。Aは大金が絡む書類だったら三千万を払ったかも知れない。しかし、それは甚のハッタリで三千万だけを取られた。当然、Aは甚を必死に探す。そして四年後、甚を見つけたAは、スナイパーに殺しを頼んだ。でも、甚はもともと書類など拾っていなかった。ただ、書類はない。それで一緒に飲んでいたゼネコンの何人かに疑いをもった。Aは、その時いたゼネコンの人間の家に盗みに入ったが、甚に犯行をなすりつけた」

 黙って聞いていた愛果は考え込んだ。

 「確かにゼネコンが客を接待することはあると思うわ。父だってたまに飲んで帰ってくることもあったし。ただ、亜樹雄の推理だったとすると、泥棒に入られたのは我が家だけとは言えないでしょう。その時いた人達全員の家に泥棒に入ったってこと。もし、Aという人が重要な書類を失くしたら、その書類はゼネコンにとっても大変な事になるんじゃない」

 そこで、亜樹雄は黙ってしまった。確かに愛果の家以外にも同じように泥棒に入られた家があったら警察はすぐに探し出す。

 「でも、亜樹雄の視点は重要だと思うわ。甚が仕事を通じて強請るネタを掴んだ。しかも、相手が三千万を払うだけの価値があるネタ。そして、それと我が家との関係、しかも四年前」

 「四年前、お父さんはどんな仕事をしてたのだろう?例えば、池袋の新しいビルの設計をしていたとか」

 「父が池袋のビルを設計していたとしても、それが甚と接点があるとも思えないけど。建築課とか土木課なら兎も角」

 「でも、一応お父さんの友達からそれとなく四年前の仕事について聞いてみたら」

 「そうね、たまに家に来たこともある父の後輩の柿沢さんに聞いてみるわ。いや待って聞くのはいいけど、父は自分の設計した写真なんかの書類あったと思うわ。ちょっと待って、確か思い出にって引っ越しの時、持って来たわ。重いからちょっと手伝って」

 亜樹雄は愛果が言ったようにクロークでアルバムなんかと一緒に入れてある箱を持ってきた。設計した書類は丁寧に日付や場所、受注先や地鎮祭の写真など一件づつ分類してあった。

 「あったぞ、四年前に池袋の東口で歩いて五分位の所に幸ビルを建設した時の設計している。まだ、分からないが池袋という場所で四年前に甚と接触した可能性がある」

 亜樹雄は、すぐにパソコンで幸ビルを探し出した。七階建てで結構大きなビルだ。現在そこに入っている会社を見て、一瞬、亜樹雄は愛果を見た。

 「どうしたの?」

 亜樹雄は、急に愛果の傍に来て抱いた。

 「愛果、いいか、聞いて驚くなよ。幸ビルにIT企業コノエが入っている」

 愛果は黙ったまま、亜樹雄の前のパソコンを覗き込んだ。

 「うん、お父さんはこのビルに入っている会社の事、知っていたのかな?」

 「いや、分からないよ。それに甚が誰を何のネタで強請ったのか分からないんだから。あくまで四年前に池袋で会う機会があったかも知れないというだけだ。ただ、この件はその内、警察が甚の四年前の仕事を調べ始める事は確かだろう。これだけは、絶対大丈夫だ。愛果の事は俺と愛果だけの秘密だ」

 その夜、愛果は亜樹雄の腕で眠った。


     (八)


 IT企業コノエの事を話した次の日、杏から会いたいとラインが入った。愛果も一時事件から距離を置きたくて、以前入った新宿の喫茶店で十一時に待ち合わせた。杏は先に来ていた。

 「早かったのね」

 愛果は杏に声を掛けたが、何となく沈んだ表情をしていた。

 「ちょっと前に着いただけ。今日は愛果に聞いて貰いたい事があるの、光輝の事で」

 「どうかしたの?」

 「ねぇ、新聞に甚恵さんのお父さんが殺害されたって記事出てたでしょう?あの記事を見た途端、光輝が怯えたような顔をしたのよ。一瞬、光輝が甚勇を殺したのかと思って聞いたけど、何も言わずに出て行ったの。それからマンションに戻っていないの。私、不安だけど警察に行く勇気もないし、実際何が何だか全然分からないわ」

 愛果は、時々後藤刑事と連絡を取り、事件の事も聞いているけど話せないし、話す事もない。

 「考え過ぎじゃないの。勿論、紀野君に電話したんでしょう?大体、紀野君と甚との接点も分からないんでしょう?甚恵さんのことは紀野君知るはずないよね。私達が中三の時のクラスメートだっただけなんだから。ところで、以前紀野君が杏の就職が内定してから元気がないみたいだし、何か起業したいって言ってたって。その起業って具体的に言ってた訳じゃないんだよね。ねぇ、紀野君の実家って何してるの?ひょっとすると、家業を継ぐつもりだとか」

 「電話もラインも何度したけど返事はないの。それにあまりハッキリ言わなかったけど、光輝の実家って青森の方で飲食店をやってたみたいだけど、四年前に倒産したらしいわ。だから、私の就職の内定を喜ぶ雰囲気じゃなかったみたい。どうしたらいいと思う?」

 四年前、愛果は一瞬言葉に詰まった。

 「まだ、あの記事のせいだと分かった訳じゃないし、自分の実家の事を思い出して、嫌や気分になったかもしれないわ。まだ何日かだし、行方不明というわけじゃないでしょう。私は今度の件で警察官に知り合いが出来て、何かと相談に乗ってくれる人がいるの。でも、変に騒ぎ立てて本人が戻ってきたら余計な事をって気分になるかもしれないわ。もう少し待ってみたら。どうしても困ったことになったら、私が警察の人を紹介するから」

 それから、二人でいつ何かに巻き込まれることがあるから今の世の中怖いよねっていう話に始終し、何となく暗い話題で終わった。愛果は久し振りに事件以外の話題で杏とおしゃべりしたかったのに、事件がより一層重く圧し掛かってきたようだった。

 夜、愛果が作った夕食を食べながら、亜樹雄に杏との話を聞かせた。

 「またしても四年前か」

 亜樹雄も愛果と同じようなところで引っ掛かっていた。

 「私も四年前って聞いた時、ドキッとしたけど場所は青森だし。むしろ、紀野君が甚の殺害事件に異常な反応したことが疑問だったわ」

 「例えばだよ、甚の強請りに紀野君も関わっていたとしたらどうだろう。紀野君の実家が倒産し、お金が必要。そんな時、甚と紀野君が何かの関りを持ち共犯になった。そして、甚の殺害事件を知って、自分も狙われると恐れた」

 「そんな、紀野君には何度も会ったけど優しいし、杏を愛してるって分かったわ」

 「俺は紀野君を疑っている訳じゃないよ。ただ、愛果も気になっただろう四年前」

 亜樹雄に指摘され、確かに引っ掛かっている。

 「ええ、もう一つ気になっている事があるの。四年前、父の会社が幸ビルを建てたでしょう。そのビルに何時からIT企業コノエが入ったのか分からないけど。以前、紀野君が杏の就職先がIT企業コノエに内定してから、元気がないみたいだと言った事があったの」

 「想像ばかりで言うのも何だけど、もし、四年前に甚と紀野君が強請った先がコノエだったら、杏がコノエに就職することが不安だったのかも」

 「でも、これって想像の域を経ないよね。まさか、二人の想像を後藤刑事に話すわけにはいかないわ。それに杏を苦しめるような事はしたくないわ」

 愛果は今日会った杏の不安そうな顔を浮かべた。

 「勿論、このことは愛果との話で証拠があるわけでもないから、今の段階で後藤刑事に話すことではないよ。紀野君が戻ってからの話だしな。でも、警察は甚の強請りについて、どこまで捜査が進んでいるのかな。当然、当時の甚の仕事先が池袋だって分かっている。そういえば、甚の殺害現場について聞いたことないよな。俺達みたいな一般人に話せない事はあるだろうけどな」

 愛果は、事件から離れるように言い出した。

 「私の仕事だけど、翻訳家を目指そうかと思ったの。すぐに成れる訳じゃないから、まずはそっちの勉強をしようと思うわ。留学で語学を磨く事も考えてるの」

 「留学か、どこに?」

 「まずは翻訳専門の学校を探さなくっちゃね。英語は当然だからフランス語とかスペイン語とかかな」

 「分かったよ。どの国でも時間を見つけて会いに行くから」

 愛果は思わず噴き出した。

 「まだまだ、先の話よ」

 「いや、愛果は可愛いから外国人に言い寄られそうで心配だ」

 「亜樹雄、なんかストーカーになりそう」

 「確かに愛果についてはストーカーになるかも」

 「亜樹雄がストーカーなら許すわ、ボディーガードとして」

 愛果は笑いながらタダだしねって付け加えた。


     (九)


 杏から愛果に連絡が入ったのは、会ってから一週間経っていた。愛果は、また例の喫茶店で会った。

 「愛果、ごめんね、呼び出して」

 「何言ってるの。いつでも会うよ」

 「あれから光輝がマンションに戻ってないの。携帯も繋がらないし」

 「ご家族に連絡は」

 「それが、ほら青森の店、倒産したでしょう。今、家族がどこにいるか光輝も知らないみたいだったわ、家族がバラバラになったって言ってた。私は家族じゃないし、行方不明届なんか出せないじゃない。それに愛果が言ってたみたいに、急に戻ってきたらって考えちゃって。ほら、愛果が言ってた知り合いの刑事さんに、それとなく探してもらえないかな?」

 愛果は一瞬、後藤刑事の事を思ったが私立探偵じゃないんだから、個人的に頼んでいいものか迷った。

 「そうねぇ。今晩、亜樹雄とも相談してみるわ。いくら知り合いといえども警察官だからね。どっちにしろ明日、杏に連絡するからね」

 それで杏と別れた。すぐに亜樹雄に連絡すると、俺から後藤刑事に聞いてみると言って、電話を切った。

 「今日の午後二時にマンションの俺の部屋に来てくれる事になった。後藤刑事は今日非番だから大丈夫と言ってくれた。愛果の部屋はまずいから俺の部屋で話そう。愛果の部屋には俺以外の男は入れないからな」

 「亜樹雄って益々、ストーカーらしくなってきたわね。じぁ、二時前に亜樹雄の部屋に行くわ」

 愛果は一時半に亜樹雄の部屋に行った、手作りのクッキー持参で。後藤刑事を部屋に招き入れたのは、二時十分前。その前に、愛果は亜樹雄の部屋でコーヒーを入れていた。三人でソファに座り、テーブルにクッキーとコーヒーを置くと、後藤刑事は二人を見て笑った。

 「豪勢なおもてなしだな。先に言っておくが私は賄賂を受け取らないぞ」

 亜樹雄はクッキーを食べてから後悔しないようにと言った。愛果は、思いっ切り亜樹雄を睨み付けた。まずは、愛果から友達の相談を話した。それに、四年前の話も。

 「私達二人の想像です。四年前の紀野君の実家の倒産と甚が強請った相手が、四年前池袋に父の会社が建てた幸ビルに入っているIT企業コノエじゃないかと。友達がコノエに内定したとき、紀野君が不機嫌になったこと。そして、甚が殺害された記事を読んで紀野君が怯え、マンションから姿を消した事。ひょっとすると、四年前実家が倒産し、借金が残った紀野君と甚が何かの拍子に出会った」

 黙って聞いていた後藤刑事は言い出した。

「推理するのはいいが、二人が接触した場所や脅迫相手がコノエだという証拠もない、ましてや脅迫のネタも分からない。ただ、三千万を出せるのは金持ちの可能性が高い。そして、それを出すだけの価値があるネタが何であるか。ただ、一つ、甚と藤石さんが池袋での接点がある。別に特別な関りでなくても、現場で挨拶を交わした程度でもいい。甚は藤石さんの名前をチョットだけ利用した、現場服のネームプレートを見れば分かるからね。まずは紀野君の行方が気になるな。署に戻って内密に探ってみるよ、事件ではないからね」

 後藤刑事はクッキーとコーヒーで、お茶してからそそくさと帰っていった。

 「流石、刑事だね。まずは証拠。紀野君の行方は後藤刑事に任せるしかないな。それより愛果、大丈夫か?コノエの事を話したこと。警察が動くと思うよ、そうなったら当然社長の此乃江の名前が出てくるし、嫌な気分にならないか?」

 「大丈夫よ。それより事件が早く解決する方がいいわ。ねぇ、四年前って此乃江が選挙に出ようと考えていた頃じゃない。選挙に出るには、色々な準備が必要でしょう。それなりの人達への根回しとか」

 「そうだな、となると都合の悪いことは隠したいよな。それが、何なのか分からないけど」

 後藤刑事に話してから三日後、後藤刑事から新宿の漫画喫茶で紀野君が保護されたと連絡が来た。

 「一応、阿佐ヶ谷警察署で話を聞いている。君たちが想像していたように、甚と一緒に強請りを働いたと自供している。これから先は、まだ話せないが無事だということを伝えておくよ」


     (十)


 亜樹雄は医師の国家試験に、愛果は翻訳家への勉強に向けて集中していた。亜樹雄へ久し振りに法学部の白川から、気晴らしに三人で食事をしないかと連絡が入った。同じ大学でも学部が違うと中々会えないし、医師と検事を目指す二人は忙しい。白川が銀座のホテル最上階を予約していた。

 「公正を旨とする検事が我々に賄賂?」

 亜樹雄が笑いながら言った。

 「俺は司法試験に合格してるけど、これからだからな。それに二人に賄賂を贈るだけのメリットがないな。それから、言っておくが俺は予約を取ったが奢るとは言ってない。割り勘だぞ。それに、亜樹雄が医師になっても受診する勇気がないな。愛果ちゃんも、そこはちゃんと見極めなくちゃね」

 「はい、肝に銘じておくわ」

 愛果は白川に笑いながら頷いた。

 「二人して俺を馬鹿にしてるな。神の手になっても見てやらないからな」

 三人で他愛無い話をしているうちに食後のコーヒーになった。

 「そういえば、いよいよ国政選挙が近づいてきたな。早々と選挙に立候補をすると宣言していた此乃江快二は野党の新進党から出るんだな。新進党は野党の中でも弱小政党と言われているのに、大会社IT企業コノエの社長が何でって思ったよ。金なら有り余っているのに。もっとも当選より選挙を体験したかったのかも。金持ちの考えることは分からないな」

 白川は今度行われる選挙について話したが、愛果は内心ドキッとした。

 「何だ、お前はいずれ総理か大臣かって狙っている口か。やめとけ、それこそ違法行為で自ら検察に捕まるぞ」

 亜樹雄は白川を睨んだ。

 「いや、俺の野心は甘い汁を吸っている各大臣を法廷に引きずり出す東京地検特捜部に入る。そして、検事総長になる。正儀の味方だ」

 白川は胸を張った。

 「まあ、せいぜい選挙違反者でも捕まえてくれ」

 亜樹雄は軽く言い放って食事を終わった。

 十月に入り、選挙戦が始まった。愛果とは選挙について話すことは殆ど無かった。白川の言う通り此乃江快二は、野党の新進党から出馬した。亜樹雄は此乃江が弱小政党からの出馬に何か意図を感じていた。金もあるし、四年前から準備もしていたはずだ。それなりの人達への根回しとか。もしかしたら、それなりの人から要請があったら。断れない要請。此乃江の上には、妻の父親、会長がいる。此乃江は社長でも、実権を握っているのは創業者の会長。その会長に重大な秘密があったら。此乃江に四年前から政界への憧れがあったとしたら、自分の秘密を抱えて準備などしないだろう。むしろ、娘婿が政界へ出る準備を内密にしている事に気が付かなかった。甚の強請りの相手は社長でなく会長。四年前、甚の強請りに屈したのは会長。そのことを此乃江は全く知らされていなかった。だから、堂々と出馬することを新聞にぶちまけた。いざ、出馬となった時点で会長からストップが入った。政界に出る夢を捨てきれない此乃江に会長が新進党からの出馬を頼んだ。まずは足掛かりとして議員になり、その後は与党への鞍替えを保障した。心持、此乃江の選挙に対する意欲が減少したような気がした。選挙が終わり、此乃江は新進党トップで当選した。

 愛果はあれから杏に会い無事保護されたことを伝えたが、同時に甚の事件の関与を自供したことも伝えた。

 「そう、やっぱり何か隠してたんだね。まさか甚を殺害したなんて事ないよね」

 杏は暗く沈んだ表情で愛果を見た。

 「知り合いの刑事さんには、紀野君を探して欲しいと頼んだだけだから。刑事さんが保護した時、紀野君はホッとした表情で事件について話し出したみたい。ほら、前に杏が甚が殺害された事を知って怯えてたって言ってたよね。事件のことは分からないけど、まずは紀野君が無事で良かったよね。」

 「私この先、光輝と前みたいに付き合えるかな」

 「今は急いで結論を出す事ないよ。まだ、分からない事だらけだし」

 「そうだね。愛果は、ずっと友達だよね」

 杏は愛果を見つめて言った。

 「ううん、友達じぁないよ、親友だよ」

 杏は、ただただ泣いていた。 


     (十一)


 警察は紀野の自供により、四年前に甚と会ったのは池袋のパチンコ屋で、負け続けたのでついこの野郎と機械に毒づいた。その時、隣に座っていた甚がパチンコ玉を箱から分けてくれた。その時、金になるバイトをしないかって誘われた。丁度、実家が倒産して家族はバラバラになっていて金が欲しかった。一日で百万と言われて浮足立った。仕事について強請りだとは知らなかったが、一日百万と言われた時に何かヤバい仕事だと感じた。仕事はレンタカーを借り、夜中に晴海埠頭で待機していろと言われた。車で待っていると甚はどこかに行って黒いバックを持って帰ってきた。その時、百万円を渡され、このことを誰かに言ったら殺すぞって脅された。こんな金じゃコノエに取ってはした金だったかなってボソッと言ったので、その時コノエを強請ったんだと思ったと。それから甚に会ったことはありません。警察は、甚が四年前にコノエを強請り上手くいったので、再度、強請ったが、今度は相手に殺されたと判断している。しかし、今、コノエの社長は新進党トップで当選した此乃江だ。弱小政党であっても議員。証拠もなく、しかもネタが何なのか分からない状態でコノエを調べることに上層部は了承しないだろう。甚の殺害場所も居酒屋で飲んで酔った後に、路地で石で頭を殴られた。酔って誰かと喧嘩になり殺されたとも言えなくない。強請った相手に殺されたという証拠もない。まずは犯人を逮捕するしかないのだが、路地に防犯カメラはない。ハッキリしているのは下町の小さな居酒屋で一人で飲み、グダグダに酔っぱらっていたのを店主も客も証言している。

 その頃、愛果は家を売ることを亜樹雄に相談していた。泥棒について犯人は分からないままだが、荷物も殆ど無いし、空き家にしているのも物騒だし、万が一放火などで火事が起きては大変だ。マンションに住むようになって家の方へもあまり行かなくなった。亜樹雄も事件は泥棒から離れていると感じていた。確かに空き家は何かと物騒だし、愛果もこの先留学する可能性がある。一応、後藤刑事に連絡しておいた。二人で愛果は以前行った阿佐ヶ谷の不動産屋に行った。以前、応対してしてくれた不動産屋の浦地さんに話を通し、早速、見積を頼んだ。愛果が産まれた時に建てた家なので、大分傷んでいる。

 「まだ、二十年ちょっとですよね。少し手を入れれば高く売れますよ。阿佐ヶ谷駅からも近いし。では、早速拝見させてもらってもいいですか?」

 それから三人で家を見に行った。物はダンボール一箱だけだった。浦地さんは、こちらで処分しましょうかと言ったが、それは明日取りに来ますと言ってから帰った。 次の日、亜樹雄の車で家のダンボールを取りに行き、もう一度、家の二階から一階の隅々まで見て回った。納得はしているが、家族の思い出を失くすのは寂しかった。

 「大丈夫か?まだ、止めることも出来るぞ」

 「ううん、思い出は私の中にあるわ。置いといても切がないし」

 帰りに阿佐ヶ谷の不動産屋に寄り、浦地さんに鍵を渡した。

 「では、お預かりします。なるべく早く、お見積りを作成します」

 四谷のマンションに帰る途中、ファミリーレストランで昼食を取った。愛果は部屋に戻るとダンボールの中身を一枚づつ見ていった。前に何度も見ているが、大したものはなかったはずだ。ただ、最後だと思うと何ということがないレシートも、じっくり見てしまう。その中に、くたびれた清掃会社のレシートが入っていた。裏に下手な字で軽井沢市の住所が書いてあった。清掃会社を見て、そういえば甚も池袋の清掃会社で働いていたよね。亜樹雄は車を駐車した後、大学の授業に行った。愛果は亜樹雄が戻るまで待てずに、思わず後藤刑事の携帯に電話してしまった。

 「ごめんなさい、お仕事中ですよね」

 「大丈夫ですよ、いつでも。ところで何かありましたか?」

 「ちょっと気になって。甚が以前勤めていた清掃会社の名前を知りたくて。実は家を手放すことは言ったと思うんですけど、今日最後の荷物のダンボールを持って来たんです。そして、改めて見てたらレシートの束の中に清掃会社があったんです。他のは食事や洋服、家具など母が日付順に輪ゴムで留めているんです。その束と束の間に、くたびれた清掃会社のレシートが紛れ込んでいたんです。多分、母は知らずに入れていたと思います。そして、そのレシートの裏に下手な字で軽井沢市の住所が書いてあります」

 「清掃会社の名前は、富岡清掃会社です」

 「あっ、その名前です」

 「今すぐ取りに行きたいので、マンションのホールまで降りて下さいますか。電話を入れますから」

 後藤刑事は焦ったような声で言った。それから間もなく、レシートを取りに吉川刑事と一緒に現れた。何となく緊張した面持ちで。

 後藤刑事にレシートを渡して一か月後、後藤刑事から連絡が入った。例によって二人でいつものように阿佐ヶ谷警察署に来てほしいと言われた。そして、いつもの会議室には刑事課の吉川、武田両刑事と後藤刑事が待っていた。またしても、口火を切ったのは後藤刑事だった。

 「何度も来てもらって悪いね。ただ、今日は事件の決着が見えて来たので、色々心配を掛けたし、協力もしてくれた二人には発表を前に話しておこうと、吉川刑事達と話したんだ」

 吉川刑事は、何となく不機嫌そうに話し出した。

 「甚を殺害した犯人が分かりました。ただ、スッキリ逮捕したと言いづらいが。名前は野村年男六十五歳、殺害場所は居酒屋から裏道に少し入った所だった。その時、甚も相当酔っぱらっていた。そして、野村も酔って道端で寝ていた。そこに甚が通りがかり野村の足を蹴ったらしい。何しろ二人共、ぐでんぐでんに酔っていた。野村は怒りに任せて、そばにあった石で甚の頭部を殴り、慌てて自分のアパートに戻った。部屋で倒れているのをドアが少し開いてるのを不審に思った隣人が発見し、大家に連絡して救急車で病院に搬送した。病院で検査を受けたらアルコール中毒と言われ、更に肝臓癌末期で入院。余命を感じた野村が看護師に甚の殺害を告白、看護師から連絡を受けた我々が野村に接触をしたが朦朧とした状態で犯行を認め、二時間後に死亡しました。凶器の石から僅かに指紋が検出されており、野村の指紋と合致しました」

 吉川刑事は一旦話を止めペットボトルの水を飲んだ。

 「これから先の話ですが、出来れば公にはしたくないと感じています。あっ、でも隠蔽ではありません。藤石さんから提供されたレシートから甚が、コノエの会長を強請っていた事実を会長が認めました。そして、強請りに屈して三千万円を渡したことも。このことは此乃江社長には秘密にしていたそうです。甚は、あのレシートに書かれていた軽井沢の住所から、お嬢さんが中学生の時に受けたレイプの事を突き止め脅した。折しも此乃江社長が政界への進出を考えていた矢先だった。でも、お嬢さんの教子さんは知らされていませんでした。今、此乃江社長が弱小政党といえ党首になったことで、教子さんは離婚を申し出たそうです。しかし、此乃江社長はどんなことが起きても教子を守る。この党が与党を揺るがすような第一党に、いや引っ繰り返して与党になると息まいています。ネット社会、このことが公になることは否定出来ないが、警察としては甚の殺人事件の解決を積極的に発表していくことにしています。会長はあくまで被害者です。公になったとしても此乃江社長の手腕は政治だけでなく、家族を守る事にも発揮すると思っています」


     (十二)


 愛果は両親の愛を信じて生きていた、勿論今でも。悪夢のような話を聞いた後でも。亜樹雄にその話をした後、亜樹雄は愛果の中に流れているのは両親の心、血じゃないと言い切ってくれた。愛果も嬉しかったし、自分でもそう思い続けていた。此乃江の選挙を通じ、名前を見聞きすることが増えた。そして、その度、あの日の父と母の告白を思い出され心が揺らいだ。愛果は部屋に戻ると亜樹雄に言った。

 「以前、亜樹雄が父が本当に無精子症だったか検証できるし、百パーセントじゃない。その時は医学で調べられるのかって、少し期待した自分がいたわ。今度の事で私分かったの。私の中でいつまでも私を縛り続けていたのは血の鎖、私自身だったって事。両親の愛は愛、そして血は血。その両方を受け入れて初めて前を向けると思うの。此乃江社長が絶対に奥さんを守る。そして、私はストーカーの亜樹雄が守ってくれる」 

 「ストーカーは酷いな。でも、愛果は絶対に守る」

 愛果は両親の三回忌を亜樹雄と親戚一同で行った。その日も晴天で青空が突き抜けていた。

 亜樹雄は東大病院の外科研修医として神の手を目指している。白川は一年間の司法修習生になり、検事を目指し正義の味方になると息まいている。光輝は怖くて触れなかった帯封がかかった百万円を提出し、不起訴になった。IT技術分野で勉強してきた光輝は、ITを活用し気候変動に負けない農業を研究している。杏もコノエでIT技術の向上を研究し、光輝を支えて行くと張り切っている。そして翻訳の勉強を続けていた愛果は、来月のフランス留学に向けて準備をしている。

 これから続く若者たちの未来に何が起ころうとも国を守ってほしいと、愛果は密かに此乃江を応援している。

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