首なし
所謂、霊感の強い人、というのが私の友達に一人います。いえ、この言い方は正確じゃないかもしれません。当の本人はそれを自称してはいませんから。何か見える事は確からしいのですけど、それが本当に霊なのか、それとも、単に自分の脳か何処かに何らかの異常があって、それで見えてしまう幻なのか、分からない、と、そう彼女は語っているのです。
彼女。
名前は出雲真紀子さんっていいます。
ですが、それが幻想であるのか本物であるのかは別問題にして、どちらにしろ、見える事は見えてしまうらしいので、彼女はそれに頭を悩まされたりしてしまうらしいのです。そして、だから、時折、そんな悩みを吐き出すべく、それを私に語ったりもするのでした。
「こんな事話せるのは、あなただけなのよ」
そんな事を言って、彼女、出雲真紀子さんは私に、無理矢理に、とても怖い事を聞かせて来ます。
あそこに首を吊った女の人が見える、とか、血だらけの男の人が横たわってる、とか、見た事もない子供が教室中を走りまわってた、とか。
出雲真紀子さんとは、中学の三年生になって初めて交流を持ちました。私は、自分で言うのもどうかとは思うのですが、世に言うはにかみ屋で、引っ込み思案な部類に入る人間だから、それほどオープンに人と関わる方ではないし、また、出雲さんは、その“見えてしまう”性質の所為なのか、なんだか、近寄り難い印象があって、微妙に孤立してしまっているから、やっぱり、あまり人付き合いは活発ではありません。だから、三年生になるまで、お互いがお互いに近寄ろうとはしなかったのです。
だけども、私は、人付き合いは苦手なのですけども、それでも、何だか、人から話を聞くのは苦痛ではなく、どちらかと言えば得意で、また、積極的に他人を拒否するような性質も身に付けてはいなかったので、自分が見える奇妙なものを誰か他人に話したい、という“悩み”を持っている出雲さんは、私と近くの席になると、そんな私の性質を見抜いたのか、ちょくちょく私に語りかけて来るようになり、そうしている内に、いつの間にかに、ほとんど常に一緒にいるような間柄にまでなっていたのでした。
もしかしたら、親友、と、そう言ってしまっても良いかもしれません。
そんな訳だから、彼女が私に奇妙な何かの存在を告げるのは、日常の事となってしまっていて、はじめの内はその内容に怖がっていた私も、徐々に慣れ始め、それほどの恐怖を感じなくなっていたのです。
何しろ、彼女自身が、それが単なる幻であるかもしれない可能性を強調している訳ですからね。
ですが、その時に聞いたその話は、それまでの話とは少しばかり事情が違っていたでのした。だから私は、本当に怖かったのです。心の底から。そう。その話は、しっかりと“現実”に繋がっている、ように思えたのでした。
「――首なし、に憑かれちゃった」
その日、彼女は私に向かってそう言いました。
「首なし?」
「うん、首なし。しかも、三体も」
出雲さんは、頷きながら、本当に困ったというような表情を浮べています。
「別に、害はないのだけどさぁ……」
詳しく話を聞くと、どうも、首のない三体の霊(だと、そう思えるものに)、彼女は憑かれてしまったというのです。
「憑かれた、というか、なつかれた、というかねぇ…… なんでか知らないけど、私の周りから離れないのよ」
その三体は首がないから何もできない、のだそうです。何しろ、首がないって事は意思なんてないって事ですから。だけども、それでも自由に動く事はできるらしくて、ふらふらと辺りをさ迷っている…… つまり、考える事はできないけど動く事はできるみたいで、切れたトカゲの尻尾みたく、或いは壊れたロボットの様に、意味もなく動いているのだそうなんです。ただ、刺激に対して反応はするみたいで、全くの滅茶苦茶って訳でもなく、そして、まるで誘蛾灯に誘われる虫の如くに、その三体の“首なし”達は、出雲さんの元へ集って来てしまって、離れないらしいのです。
彼女の話によると、一体は女性。OL風。ワイシャツ、その上に薄いピンクのブレザー、同じ色のタイトなスカート、それにハイヒールを履いている。もう一体は、男性。黒と白のストライプのトレーナーに、ジーパン、スポーツシューズという格好。最後に、また女性。黒い薄手のドレス風の服を着て、やっぱり黒の靴を履いている。顔がないので、年齢だとかはいまいち分からないらしいのですが、少なくとも子供でも老人でもなさそうに見える。
出雲さんは溜め息混じりでした
「困った事に、私には、こいつらを引寄せてしまう“何か”があるみたいなのよねー まー、幻想かもしれないけど。だとしても、自由に払拭できる訳じゃないから、結局同じ。タチが悪いわ」
「その内、慣れるのじゃないの?」
「簡単に言うけどねー あなた、想像してみてよ。三体もの首のない体が、周囲を四六時中うろうろしてるのよ? 落ち着ける訳がないじゃない。偶に離れる事もあるけど、しばらくが経つとまた直ぐに近くに遣って来てるし。何かに使えるのだったら、少しはマシだけど、どういう行動原理で動いているのか分からないから、それも無理そう。本当に、ただの迷惑なだけの物体なのよ」
そう言葉を区切った後で、少し考えると、彼女はこう言い直しました。
「あ、物体じゃないか…」
彼女は如何にも迷惑そうにそう語っていたのですけども、どれだけ話を聞こうとも、それは私には想像もできない世界での出来事でした。ですから、リアリティを持ってそれに共鳴する事などは、もちろんできません。
ですが、それでも、彼女が大変なのだという事だけは充分に伝わって来ましたから、私は、彼女の身の上の大変さだけを想像して、「ふーん、大変なのねぇ」と、そう言います。
彼女はそれを受けて、分かってくれるのね、といった風に頷くのでした。
この話を聞いたはじめ、私は少しもそれを怖がってはいませんでした。だって、先にも述べましたが、いつもいつもこの手の話を聞かされているのですし、単なる幻想なのかもしれないのですし……
……正直に告白するのなら、三体の首なし死体なんて、ちょっと有り得なそうな話だと思っていたんです。一体、どういったことが起これば、そんな死体が三体も誕生するのでしょうか?
ちょっと、現実から離れ過ぎています。
首のない死体が、首のない霊になる、だとか、そういった単純な図式が、果たして霊の世界でそのまま通用するのか、という疑問ももちろんあったのですけども。多分、幻想なのだろうなぁと。だから、いつもにも増して、怖くなかったんです。
……ですが、そう考えていたからこそ、私はそのニュースを知った時に、驚愕し、そして戦慄してしまったのでした。
それは近くで起きた事件だったので、とても話題になりました。
煩いくらいに。
ある人のいなくなった民家から、三体の首なし死体が発見をされた。
それはそんな事件でした。
近所の住民が異臭に気付き、不審に思って中を覗いてみると、首のない死体が三つ転がっていた、というのです。しかも、それらは比較的若いものであったらしく、女性がニ体に、男性が一体。死体が着ていた服装までは分かりませんが、見事に出雲さんの話と一致します。
彼女が新聞報道よりも早く、この情報をキャッチしていて……例えば、偶然発見してしまってそれを知ってた……とか、それで私に語って聞かせたのであれば、何の不思議もありません。ですが、そんな事をする意味なんて全くないように思います。もし、自分の能力を自慢したいのであれば、死体を見付けた時に霊感で見付けたのだ、とか言った方がよっぽど自慢話になるでしょう。大体、彼女は、自分のそれを霊感だとは認めていないのです。変な目で見られる事は承知で、幻想なのかもしれない、とそう言っているのです。彼女が私を騙している、なんて、とても考えられません。
ならば、
出雲さんの見ている首なしの霊たちは、本物であるという事になってしまいます。
もし、普通の霊が憑いた、と出雲さんが私に言っていて、普通の遺体が発見された、というそれだけの関連性の話だったならば、私はそんな風に出雲さんの話と事件とを結び付けてはいなかったかもしれません。しかし、首なし死体、なんて現実的ではないと思える程の珍しい共通項で、しかも、数や性別や大体の年齢まで一致していたのならば、それを考えない訳にはいかないでしょう。
出雲さんは、“本物”を見ている?
私は、なんだか、急に、彼女の事が少しだけ怖くなってしまいました。
―――。
霊なのか、幻想なのか分からない、“見えてしまう妙なもの”の話を聞かせて来る。といった点以外では、出雲さんはとても良い友達でした。
驚くほどではないにしろ美人でしたし、神経質なところもなく、かといって決してズボラではない。外見の雰囲気とは違って、適当さやいい加減なのを好むけども、他人に迷惑をかけるような事はしない。押し付けがましい事もしない。頭はとても良いのに、それを鼻にかけない。
対等な友人関係を築いているから、こんな表現は使いたくないのですが、正直、“尊敬できる友人”だと私は思っています。
ですが、物事の一部分しか見ていない人、というのはいるもので、私はある日、女生徒の一人からこんな事を言われました。
「よく、あんな、出雲さんみたいな人と付き合えるわね」
私は、それを聞いてびっくりしてしまいました。
「なんで?」
私は、彼女に、好感を抱いていましたから、そんな風に彼女が言われるとは少しも思っていなかったのです。
「彼女、頭良いでしょう?」
その私の驚いた顔に対して、その女生徒は必死に説明してきました。
「そういう人って、大概、他人よりも自分が優れていたいって思ってるのよ」
極論過ぎます。
「ほら、彼女、幽霊が見える話とかして来るでしょう? しかも、それを如何にも自分は大変なんだって感じの話し方で説明してくる。優れているって言っても、色々な優越があるけど、他人よりも自分が不幸だってのもその一つだと私は思うのよね。何て言えば言いのかな? 被害者である事の優越 かしらね? その被害者である事の優越を、幽霊が見える話で、あの人は必死に示して来る。なんだか、嫌悪感を覚えるのよ、私は」
私は、その女生徒の主張を聞いて、自分の知らない頭の何処か、未知の部分、を叩かれたような変な気分になりました。
なるほど、
そういう考え方もできる訳だ。
「どんなに辛くても、それを聞かせる事で他人に不快感を与えるのなら、話すのは我慢するべきだと思うのよ。私は。彼女よりも、苦しい立場にいる人なんて、この世の中に幾らでもいるんだから」
ただ、それでも、やっぱりこの人の話は極論過ぎるなぁ と、私は思います。
それで、
「でも、私。出雲さんの話を聞いていても、別に不快には感じないけれど…」
と、そう言ってみました。
余計な軋轢は嫌ですから、できるだけ敵意はない事を現す為に、少し演技して、困った風を装って。
すると、彼女は少しばかり悔しそうな顔はしましたが、「変な人」と、一言呟くだけで、そのまま何処へと行ってしまいました。
自分の心の醜い部分を指摘された、そんな発言に響いたのだと思います。
きっと。
出雲真紀子さん。
彼女が誤解され易いというのは、どうやら、事実であるようです。彼女が、どことなく孤立している、という事からも、それは分かる。
そして、それはきっと、出雲さんに謎めいた部分があるからなのだろうと思います。
出雲さんは不思議な人なんです。幽霊が見えるとか、そういうことがなくたって。何処がどうとは巧く表現できないのですが、そんな雰囲気は確かにあるんです。
私は、彼女の事を他の皆よりはよく知っているから、そんな誤解をするような事はないけれど……(いえ、私だってある程度は絶対に誤解をしているのですが)、それでも、彼女の存在に付き纏っている“謎”な部分を意識しない訳じゃないのです。
そして、その “謎” つまり、“見えない”部分は、私に微かな不安を与えるのでした。
出雲真紀子さん。
彼女の存在に対して。
微かな…
(首なしの体 幽霊が うろうろ うろうろと 出雲真紀子さん 彼女 の周囲を 徘徊する)
出雲真紀子さんが、テストで100点を取りました。英語のテストです。出雲さんは頭の良い人だけれど、人間、誰にでも弱点はあるもので、彼女は英語だけは苦手だったのです。他の得意な教科でも、100点となると珍しいのに、その苦手な英語で100点とは、皆も驚いていたのですが、彼女自身が一番驚いていたようでした。
「偶々、ヤマが当たったのと、それと、選択問題で適当なのが当たったとか、色々幸運が重なったのよ。こんな事もあるのねー」
それが、その時の彼女の感想です。私はそれを聞いて、ふと、なんとなく、彼女にこんな質問をしてみました。
「ねぇ 出雲さん」
「うん?」
「例の“首なし”たち。まだ、離れないで、うろうろしてるの?」
「ああ、まだ離れないわよ。三体とも。消えるような気配もないし、何処かへ行ってしまう気配もない。いつになったらって感じだけど… それが、どうかした?」
「ううん もう、気にならなくなったのかなぁ? って、少しだけ思って…」
それを聞くと、出雲さんは少しだけ微笑みました。
「気にならなくなったって訳じゃないけど、まぁ、どう対応すれば良いのかって、なんかコツのようなものは身に付いて来たかもしれないわね」
「コツ?」
「そう、コツ。なんて言えば良いのかな? 無視できるような、精神の作り方、とか、そういった感じかしらね? 勉強したい時は、とにかく、何も考えないで集中する、とか、そういうの。少なくとも、気が散るって事はなくなったわ」
「ふーん」
自分でも、質問をした始めは気付いていなかったけど、私は、出雲さんの話を聞く内に分かってしまいました。
私が、無意識に何を想って、そんな質問をしたのか。
そうです。
私は、出雲さんが自分に憑いた“首なし”たちを利用して、英語で100点を取ったのじゃないかと疑っていたのです。
「それに、あいつらが何に反応して動くのかとかも、少しずつ分かって来たから、一時的に追っ払う事も、まぁ、場合によっては、できるようになって来たしね…」
もし、それを意識していたなら、私はそれを質問しないでいたでしょう。そして、その猜疑心は、悶々として私の中に溜まっていたはずです。だから、或いは、結果的には良かったのかもしれません。私が、それを口に出来た事は。出雲さんの口調からは、何一つ後ろめたい雰囲気は伝わって来なかったからです。それで私は、自分の猜疑を解消する事ができたのです。
ただ、
それも、出雲さんの演技だとするのならば、少し事情は違って来ますけど。
………出雲さんならば、そんな演技くらい?
もちろん、それが考え過ぎである事くらい、充分に承知していました。幾ら彼女だって、そんなに巧みに自分を見せる事ができるはずはありません。もし、そんなに器用な人だったら、クラスで孤立するとは思えませんから。
だけども、
だけども、(微かな不安)、そういった理性での判断とは別に、私は、私の、その思い込みを、完全には払拭する事はできなかったのです。
(見えない)
(見えない、から)
ある日、また事件が起きました。
“首なし”の死体に関する事件です。ただ、今回は殺人事件なんかではありません。単なる、事故です。トラックにガラス板が積まれていて、その内の1枚が急ブレーキをかけた瞬間に荷台から勢いよく滑り落ち、偶然近くを歩いていた小学生の男の子の首に命中してしまったのです。
そして、そのガラス板は相当に重かったらしく、その男の子の首を斬り落としてしまったのでした。
かなりの希有な事故で、そしてとても悲惨な事故でしょう。
珍しい事件です。
また。
「また、“首なし”の死体だよ」
だから、それは当然、また話題になりました。
首なし。
「何かに呪われてるのじゃないの? この辺り……」
呪い。
「かもねー でも まぁ 偶然って続くって言うじゃない?」
偶然。
「何にもなしの偶然でも、気持ち悪いけどね」
気持ち悪い。
私は、クラスメート達のそのざわめき声を耳に流しながら、漠然と感じている微かな不安が徐々に大きくなっていこうとしているのを、必死に抑えていました。
もし、仮に、出雲さんに憑いた“首なし”たちが存在しているのだとしたら…
ふらっ
視界の外、私の死角に、何かの気配が通過をする。
決して生徒ではない、“何か”
その気配は、もちろん、私の妄想なのかもしれない(ストライプのトレーナーに、ジーンズ。男性。首なし)。かもしれない、けど、しかし、私には現実と妄想の境界線がうまく認識できなくなっている。一体、何処までの感覚までが、嘘じゃない、本当の、客体然としてある現実なのだろう?
その時に、声が聞こえた。
「また、“首なし”か」
それは、出雲真紀子さんの声でした。
私はその声で、下に向けていた顔を持ち上げ、そして、声の方を見ます。
出雲さんは私の顔を見ると、やや驚いた顔をしました。もしかしたら私は、必死な形相をしていたのかもしれません。
「いや、また私の所に来たら、嫌だなぁって思って」
それから出雲さんは、そう慌てて弁解をするように説明をして来ました。
私は、緊張を解く事ができません。
まだ、強張っている。
「あ、ごめん ちょっと、不謹慎だったかな? でも、不安でさ。思わず、ね」
その私の強張りに出雲さんは明かに戸惑っていました。そして、その理由を勘違いしたらしく、そんな風に謝ってきました。
邪まな心の、断片も見付けられません。
私は、そこでやっと、緊張を解く事ができました。
「あ、ううん。違うのよ。ただ、ちょっと、考え事をしていただけで…」
私のそれを聞くと、出雲さんは不思議そうな顔をします。私の表情とその変化が理解できなかったのでしょう。
「どうしたの?」
「別に、大した事じゃないの」
私は追及をされると、気まずく、困ってしまって、笑いながら、それを誤魔化しました。
「ふーん…」
彼女は、その私の返答に不満そうにしています。
その、不満、を見て、私はいよいよ気まずい心持ちになってしまいました。
私、怖がっているんだ。
多分。
出雲真紀子さん。
彼女に憑いている“首なし”たちの事を。
………否、違う。
多分。
出雲真紀子さん。
恐らく、彼女自身の事を。
私は想像をしていました。
出雲真紀子さんが、“首なし”たちを使役できるようになって来ている、という事を。だから、彼女は、“首なし”たちを利用して100点を取る事ができた。そして、それが有益な存在であると知った彼女は、更に邪まな考えを抱き始めた。
もし、それを増やす事ができたなら、もっと、便利になるはずだ。
と。
“首なし”に頭は、当たり前だけどない。意思のないロボット。だから、例え自分を殺した人間の命令にだって、何の抵抗もなく従ってしまう。つまり、殺す時に、首さえ斬り落としてしまえば、それを使役できる。
もちろん、そんな殺人を簡単に行える訳はないから、普通ならば無理だろう。だけども、彼女には既に“首なし”が三体も憑いている。それらを使役できるのだとしたなら、或いは、首のない死体を、事故に見せかけて、作る事が可能であるかもしれない……
それが単なる妄想である事に、私は気付いていました。
だけども、その認識は、私の中から離れはしません。払拭できません。何故なのかは分かりません。
できないんです。
発見されてしまった三体の首なしの死体と、出雲さんの語る首なしの霊たちとの、とても偶然とは思えない、奇妙な一致。
それから起こった首がなくなる事故。
何かの必然がなければ、どうして、首が飛んで死ぬ事故なんかが起こるのでしょう?
『子供の“首なし”は、可愛いじゃない』
寝る前。
ベッド。
出雲さんは、私の想像の中で、そう言って妖しげに笑っている。
そうじゃなければ、どうして、彼女が英語で100点なんて取れるのでしょう?
ある訳ない。
ある訳ないんだ。
『よく、あんな、出雲さんみたいな人と付き合えるわね』
あの時の女生徒の言葉が耳に響く。
出雲さんは、
出雲さんは化け物なのかもしれない。
単なる妄想なんかじゃないんだ、
これは。
だって、現実に奇怪な事は起こっているんだから!
邪まな風が感じられる。
不吉な方向から吹いてくる。
やばい。
危険だわ。
私は急に危機感を覚えます。
だって、出雲さんが“首なし”たちの事を語ったのは、恐らく、私だけ。だから、私だけの口を封じてしまえば、つまり、私だけを殺してしまえば、彼女のそれは絶対に皆にばれる事はない。
それは充分に考えられる事。
だって、既に彼女は、“首なし”たちを使って、何の罪もない男の子を一人殺しているのだから。
なんて、
なんて酷い事ができるの?
(出雲真紀子)
人でなし。
そう、あなたは人じゃない。
そんな事ができるだなんて……、
私の中で、どんどん、出雲さんは醜い化け物にその姿を変えていきました。
暗い部屋。
暗い場所。
チャンスがあれば、きっと、私を殺しに遣って来る。
逃げないと…
でも何処へ?
(まどろみの中の不吉な想像力)
起きているのだか、眠っているのだか分からない、現実との境界線が極めて曖昧な世界。
加速した不安によってでき上がってしまった、歪んで矛盾だらけのそれを肯定してある世界。
或いは、願望によってでき上がってしまった厭な世界。滅茶苦茶。
カーテンが揺れていた。
カーテンは私の部屋の外の世界を隠してしまっていた。
(見えない)
(だから)
“首なし”たち、が遣って来る。
私の部屋の窓の外。家と家との合間から見える路地。そこを、“首なし”たちが、ふらふらと、ふらふらと、頼りない足取りで、手を前に、何かを掴もうとするかのような仕草で、ふらふらと、ふらふらと。
私は思う。
逃げなくちゃ。
逃げないと。
何かが言う。
『逃げられないわよ』
逃げられない?
『そう、逃げられない』
揺れるカーテン。その隙間。その向こう。そこに存在する何かの気配。
あなたは…
『出雲真紀子…』
静止画像。無表情。厭、違う。辛うじて、表情。不気味な悪意。だが、変化はない。チラチラと、チラチラとカーテンの向こうに見える出雲真紀子の姿は、凝固している。もちろん、口も動かない。だが、動かないのに声は聞こえる。まるで、暗闇に浮かんだ青白い光の影みたい。
『“首なし”たち、は既に玄関を通ったわ。そのままここを目指している。ドアの鍵なんか意味ないわよ? あいつらを、そんなもので止める事はできない。そして、ここにはこうして、私がいる。あなたにはもう逃げ場はないの』
それを聞いて私は、思う。
冗談じゃない! このまま、お前に殺されて堪るものか!
逃げ道なら、ある。
出雲真紀子は、私の家を知らないんだ。
私は、ベッドから跳ね起きると、ドアを乱暴に開けて廊下を進み、今ではもう誰も住人はいなくなった、嘗ては姉の使っていた部屋に押し入った。
まだ、姉の部屋の窓がある!
姉の部屋は2階にあって、私の部屋のすぐ傍なんだ。
いっつも私を見下ろしていた、とても長い黒髪をした、そう、出雲真紀子にとてもよく似ていた、姉。
私は、砕いてやるくらいの勢いで、姉の部屋の窓を乱暴に開けてやった。
その時に一瞬感じた不安。
(でも、こんな事で、本当に逃げのびる事ができるのだろうか?)
窓から外へ出る。そこは、私の家の1階の屋根の上であるはずだった。しかし、そこにある景色はそんなものではなかった。
青灰色の路 紺と紫の壁 曖昧模糊とした視界 窓があった 私の後ろに 青灰色の路の先には、幾つかのドア 木製のドア 濃い茶色 私の前
これは、現実じゃない。
何かが言った。
『そう、現実じゃないわ』
不気味な悪意。
静止画像。
そこにいるのは、出雲真紀子だった。
『罠にかかったわね』
罠?
『そう、罠。現実世界じゃ、“首なし”たちには、何にもできないもの。だから、あなたを殺す為には、別世界へ連れて来る必要があったの』
別世界?
『そう、ここは別世界よ。だから…』
……だから?
トタトタトタ
気配。
背後。
『もう、本当に、あなたは逃れられない』
“首なし”たち。
私は駆け出していた。青灰色の路を、全速力で進む。曖昧な路なのに、地面に響く足の感触はしっかりとしている。堅い。硬い。難い。カン、カン、カン。だけど、走っている気がしない。私は本当に前へ進んでいるのだろうか?
『言ったでしょう?』
出雲真紀子。
『あなたは逃げられないって』
後ろ。
顧みる。
“首なし”たちが迫っていた。
なんで?
私には分からない。
あんな、ふらふらとした首なしたちの歩みに、何故追い付かれてしまうのかが。
『ここは、現実世界じゃないから、そういうのは無駄なのよ』
声。
出雲真紀子。
私は、泣き出しそうになってしまう。
そして、思う。
ドア。そうだ、ドアだ!
一番、近くにあるドアのノブに手をかける。勢いよく開ける。
声。
『無駄だって……』
………。
光。
ザワザワザワ
クスクスクス
すると、そこは、教室だった。みんないる。いつも通りの教室だった。いつも通り、騒いでる。でも、
誰一人、私の存在には気付かない。まるで、見えていないかのように、私はいない事になっている。
誰に話しかけても、触っても、無反応。
自分が幽霊になってしまったかのようだった。
何?
そして、人ごみの中には、三体の“首なし”たちがいた。ふらふら、ふらふら。でも、それにも、誰も気付かない。
何?
………誰も、助けてくれない。
私は、この中では、ない、存在なんだ。
それを実感した。
別世界。
出雲真紀子はそう言っていた。
みんないる。いつも通り、騒いでる。楽しそうに、騒いでる。でも、私は、この中にいないんだ。
私は少し、悲しくなる。
ストライプのトレーナー。
男の“首なし”が前に立つ、後ろから、黒ドレスの女性。横からは、ピンクが……
逃げなきゃ!
私はそこで我に返った。
声。
『無駄だって……』
廊下に出る。そこにも、直ぐに、“首なし”たちは追いかけて来た。逃げられない。逃げられないんだ。
誰か助けて…
誰か助けて!
私の脳は必死に回転をする。そして、辿り着いた結論。
この場所で、誰かが私を助けてくれるとするならば、その可能性は、ただ一つしかなかった。
あそこに…
あそこに行こう。
……………。
図書室。
私はドアを開けた。この場所には、あの人がいるはずなんだ。
私は叫んだ。
「出雲さん! 助けて!」
出雲さんは昼休み、図書室でいっつも本を読んでいるんです。この場所が一番落ち着くんだって。それで、最近は、私もそれに付き合うようになって、随分と読書量が増えたのでした。
出雲さんはやっぱり本を読んでいて、私を見ると不思議そうな顔で、「どうしたの?」と、そう問い掛けてきました。
私は必死に訴えます。
「追われてるの…… “首なし”たちに。私を殺そうとしているのよ」
「あなたを殺そうと? どうして?」
「私を殺せば、もう安心だから。安心して、“首なし”たちを使えるから」
「誰が?」
「誰がって…」
私はそれを聞くと、言葉を詰まらせました。
誰だっけ?
それを聞くと出雲さんは、少し目を動かし、考える仕草をします。そして、それから、こう言いました。
「なるほど、なるほど、やっぱりねー」
やっぱり?
「最近、あなたの様子が少しおかしいと思っていたのよ」
なんのことだろう?
その時に、音がした。ガラリ。ドアを開ける音。“首なし”たち。また、近付いて来る。私を殺す為に。
「あのね……」
出雲さんは口を開きます。
「こんなの、怖れる必要なんて何もないのよ?」
迫って来る“首なし”たちを見ながら、出雲さんはそう言った。
「実体がないのだから、何にも触れないし」
出雲さんは微かに笑っている。
「頭がないから、何にも見えないし、だから、情報を運ぶ事もできないし。それで、命令だってインプットできないし。つまり、何にもできないんだ。テストでカンニングしようたって、できる訳ないわよ」
出雲さんはスタスタと、迫って来る“首なし”の所まで歩いて行った。
え?
軽く、それを手で押す。
すると、三体の“首なし”たちは全て将棋倒しで倒れ、そのままフッと消えてしまった。
振り返る出雲さん。
「そんなに、私が怖かった?」
出雲真紀子さんは、そう言って、少しだけ寂しそうにしました。
瞳を伏せます。
それから、
「お願い……」
私は自分の過ちを自覚しました。
『私を化け物にしないで……』
出雲さんは、私のその世界で涙を流しているようでした。いえ、それは、もしかしたら、私の世界だけじゃなく……
朝起きると、私は体がだるい事に気が付きました。どうにも熱があるようです。風邪を引いてしまっていたんだ。だから、あんな悪い夢を……、いや。
風邪の所為なんかじゃない。
私はそれに気が付きます。
出雲さんを化け物にしてしまっていたのは、私だったんです。私自身の醜く弱い心だったんです……。風邪は、その切っ掛けに過ぎない。
きっと。
私は、出雲さんの事を妬んでいたんだと思います。あれだけ能力の高い出雲さんの事を。無意識の内に。そして、出雲さんは英語で100点を取ってしまった。唯一、弱点だと思っていた英語ですら、克服してしまったみたいに思えて、私は、それで、更に………
なんでもいい。
きっと、材料なんか、なんでも良かったんだと思います。
なんでもいいから、私は出雲さんを化け物にする理由を探していたんです。それに都合の良い材料が偶々転がっていただけで…
あんなのただの偶然の積み重ねかもしれないのに。世間には、それくらいの珍しい偶然だって起こっています。否、もし、仮に、“首なし”たちの関連が偶然じゃなかったとしても、出雲さんが罪を犯すとは思えません。
どちらにしろ、それは分からない事なんだから、そんな事で彼女という存在を決め付けてしまってはいけない。
物事の一部しか見ないで、それを決めてしまう人達……
哀しい心理。
自分自身の心の内は、少しも見ようとしないで、それを行ってしまう人達。
(私にも、それはある)
………。
私が、彼女を化け物にしてしまっていた。
―――それから、病気は直ぐに治ってしまって、私はほとんど間を置かずに、学校で再び出雲さんと顔を合わせる事になってしまいました。ですが、なんとか、私は自然に出雲さんと接する事ができていたように思います。
私は、そんな自分自身に、少しだけ安心をしていました。出雲さんは、或いは、私のそんな態度の微妙な変化に気付いていたのかもしれません。だけど、多分、それを無視してくれています。
出雲さんが見ているものが、果たして本当に幽霊なのか、それとも幻なのかは、今でも分からないままです。ですが、今はもう、そんな事はどうでも良くなりました。
私が本当に怖いのは…
……相手を醜い化け物にしてしまう、私自身の醜く弱い心、だったからです。