39 隣国の王子妃候補
ミルクフレーバーの紅茶の香りに、焼きたての焼き菓子の甘い香りが充満している。
その手のひらサイズの焼き菓子は、マドレーヌという名前だと、エルが教えてくれた。
何やら、ユリ様と一緒に前世の記憶を捻り出すようにして、必死に思い出したものらしい。卵、小麦粉、砂糖、バターを同じ分量に測ってとにかく混ぜて焼くだけの、比較的作りやすいお菓子とのことだ。
もちろんこの世界にも似たようなケーキは存在するけれども、エルが作ってくれたこれはシンプルで優しい味がする。小さめに作ってあるので食べやすくて、料理部の皆にも好評だったようだ。
そのお菓子を料理部の試食室で取り囲んでいるのは、私とエルと、私達が呼び出したセラフィナ先輩。
ユリ様も来たがったけれども、見も知らぬ男爵令嬢がいては話しにくい内容だろうということで、遠慮してもらった。不満そうにしていた彼女には、マドレーヌを沢山差し入れておいた。
「あら、凄く歓迎してもらってるのね。とっても美味しそう」
「お口に合うといいのですが」
「うん? 殿下がそれを言うということは」
「私が一人で作りました」
「おや、それは凄い……。売り物と言われても信じる出来ですよ」
セラフィナ先輩が目を丸くしたあと、けらけら笑っている。
それはそうだろう。一国の王子が、こんなにしっかりとしたお菓子を一人で作り上げるとは、国民だって想像だにするまい。
本題の前に、私達はまず紅茶を飲んで、お菓子を口にする。
「しかも美味しい!」とセラフィナ先輩は手放しに喜んでくれた。
その言葉に私が自慢げな顔をしていたら、「殿下じゃなくて、フィリーが喜ぶの?」と笑われた。二人の生暖かい笑みに、ちょっと恥ずかしくなって、拗ねた顔をしてしまう。
「ところで、殿下は畏まっちゃってどうしたんです。いつもみたいに砕けた口調でいいですよ。私も先輩面をして、気楽に行かせてもらうね」
「……では遠慮なく。今日は聞きたいことがあって来てもらったんだ」
「ふふ。私しか知らないであろうことを知りたいのね?」
そう言って笑みを深めるセラフィナ先輩に、私とエルは眉を下げて目を合わせる。
エルが頷いたあと、慎重に言葉を紡いだ。
「『聖王』と『魔王』について、知りたいんだ」
その言葉を聞いて、セラフィナ先輩は目を見開く。
しばらく沈黙が続いたあと、彼女はふー、とため息をついた。
「それをどこで?」
「……それは言えない」
「ふうん? 一方的に情報を引き出そうってこと?」
「そういう訳では。……やはり、ただでは聞けないような内容ということか」
「もちろん。……そうだなあ。殿下とフィリーは、どこまで話を聞かされてる?」
エルが思案するようにして、口を閉じる。
これは、エルと私が、王子とその婚約者としてどこまで国の内情を知らされているか聞かれているのだろう。
「正直、まだ何も。今回の話は、僕の立場上聞いたものじゃないんだ。『聖女』や『聖者』について一般的な知識はあるけれども、『聖王』や『魔王』については名前を聞いただけで、内容はさっぱり分からない」
「じゃあ、何も伝えられることはないよ」
「……セラフィナ先輩」
「フィリー、そんな顔をしてもだめ」
艶やかな笑みを讃えたまま、セラフィナ先輩は私にすげなく対応する。
「私が知っている情報は、王子妃候補としての教育上、入手したもの。だから、簡単に他国に漏らす訳にはいかないの」
「王子妃候補が知ることのできる情報でも?」
エルの言葉に、セラフィナ先輩がニヤリと笑う。
「言いたいことは分かるよ。王族以外の者が知ることのできる程度の情報であれば、多少他所に流れたところで国の損失は少ない。特に私は、婚約破棄をされたり、男に追い回されたりと浮名が激しい上に、今だって第3王子の婚約者に内定しているだけだ。確実に王族になる保証がない私が持っている程度の情報なら、内々に漏らしても問題は少ないってことだろう?」
「エル! セラフィナ先輩、そんなことは……!」
「いいんだよフィリー。殿下と私は、歯に絹を着せないと話ができない間柄じゃない。この程度のことで、私の殿下に対する恩義も信頼も崩れないよ」
「それはありがたい」
失礼をしたと慌てる私に、セラフィナ先輩とエルが優しく微笑む。それなら、いいのだけれど……。
「その上で言わせてもらう。それでも、情報は渡せない」
「……セラフィナ嬢」
「王族になる保証がない私にも、大切な情報を握らせる理由、分かるかな? 私達は『聖王』を探している」
その言葉に、私達は息を呑んだ。
セラフィナ先輩の目に、怪しい光が灯る。その妖艶な笑みは、吸い込まれるような何かを持っていた。
「自国にすらいない私に情報を与えているのは、自国にいない私だからこそ、探す起点の一つとなり得るからだね。私が漏らした情報を元に、あなた方に先を越される訳にはいかない。だから、国としてどこまでのことを知っているのかも分からない二人に、詳細は伝えられない」
「……」
「ここまで伝えるなんて、大サービスだよ」
「分かってる。ありがとう」
「うん、素直でよろしい」
満足そうに頷いた先輩は、紅茶を一口飲んで「これも美味しい」と呟いた。
「私の国、ルシエンテス王国は、最後の聖女が生まれた国だ。私の国以上に、『聖女』や『聖者』、そして『聖王』と『魔王』について詳しい国は少ないだろうね」
意味深に笑うセラフィナ先輩に、私はふと気になったことを口にしてみる。
「最後の聖女様は、どんな方だったのですか?」
「そうだなあ。一言で言えば、愛に満ちた人。そう言えってさ」
「……誰かの指示で、言わされてるんですか?」
「うん、そう。聖女本人」
私とエルは、目を丸くする。
「それ以上いうと、聖女本人も怒られるんだってさ」
「怒られるって、誰に」
「さあ」
楽しそうに笑うセラフィナ先輩に、私は首を傾げることしかできない。
「それにしても聖王と魔王について、二人は誰から聞いたのか、興味が尽きないねぇ」
「それを教えたら、全て喋ってくれるのか?」
「まさか。それは強欲ってものだよ、ラファエル殿下。でも、こんなふうに情報が出てくるということは、聖王も魔王もそろそろ現れるのかもしれないね」
くすくす笑っている彼女の黒髪がさらりと揺れる。
隣国の王子を二人も魅了した魔性の女の唇が、ゆったりと弓を描いた。
「よくよく調べて、可能な限りの知識を得ておいで。それでも何か気になることがあったら、私を頼るといい」
その妖艶な姿に、私もエルも目を奪われて動けない。
「どうせ私は悪役令嬢だ。多少のことなら国の目を盗んで、恩義に報いて差し上げよう」
エルと私は、知らない間に、強い味方を手に入れていたようだ。




