【ヴィオル視点】泣きながらでも
不安になって恐る恐るセレン嬢に手を伸ばしたら、その手首をグッと掴まれた上に睨まれた。
「血が……」
そう言われて右手を見たら、ウルフの返り血がそこそこ飛んでいる。こんな手で触ろうとしたらそりゃあ睨まれても仕方ないか。
「すまん」
素直に謝る俺の頬に、今度はセレン嬢の白い手が伸びてきた。
なんだ? と訝るうちにセレン嬢の指先が俺の頬をそっと撫でる。俺は思わず固まった。さすがに猫でもないのに顔を触れられるだなんて思っていなかった。
振り払うことも避けることもできなくて所在なくセレン嬢を見返すと、セレン嬢はさらに眉間の皺を深くして悲しそうに呟いた。
「ここにも……」
俺の頬を撫でた指が赤く染まっている。あ、血か? もしかして頬にも飛んでいたのか。
「すまん、飛んでいたか?」
頭上に襲いかかってきたウルフにウインドカッターをぶち込んだときに、手の平に返り血が飛んだのは気付いていたが、頬にまで飛んでいたのは気がつかなかった。ちなみに空いた左手でローブをさっと広げたからセレン嬢には血はかかっていない筈だ。
さすがに髪なんかに血でも付けて帰ったら言い訳なんか出来ないだろうし。
俺を見上げたまま、唇をひき結んだセレン嬢は、いきなりボロッと涙を溢す。俺は慌てた。
「だ、大丈夫か!?」
バカのひとつ覚えみたいにその言葉しか出ない。やっぱり深窓の令嬢にはキツかったのか。いやいや、だがこれを乗り越えねば中級魔獣を倒すなんて夢のまた夢なんだ、セレン嬢。
君ならばきっと乗り越えられるはず……!
言葉には出せず心の中で叱咤激励していたら、セレン嬢の唇が震えながら小さく言葉を紡いだ。
「わたくし……撃てなかった」
「は?」
「あんなに大きな魔獣が、ヴィオル様のほんの頭上にまで迫っていたというのに。わたくし……ウインドカッターを撃つことができなかった」
ふるふると震え、ボロボロと涙を溢しているというのに、口からでる言葉が予想と違いすぎて聞き間違いかと思った。
「いや、それは別に問題ないだろう。俺は元々見ててくれと言ったはずだが」
「言われました。でも、それとこれとは話が別です」
ぐすっ、ぐすっ、とすすりあげながら、セレン嬢は青い顔のまま泣いている。
「ダメだ!」
俺の顔についた血を拭った指先で自分の涙を拭おうとするから、俺は全力で止めた。俺なんざ少々ウルフの血がついたところでどうってことはないが、無菌状態で育ったようなセレン嬢のツヤツヤほっぺにウルフの血なんかついてかぶれたりしたらコトだ。
ウルフの血がついたセレン嬢の細い指先に小さく水の玉を作って攪拌し、そのままパシャっと水を捨てる。あとは指先をささっと風で乾かせばおしまいだ。
さぁ綺麗になった。いくらでも泣いて、涙を拭いていい。
その一連の魔術に気をとられたのか、セレン嬢の涙が止まっていた。そして一瞬だけ、セレン嬢の唇が尖ったのを俺は見逃さなかった。
なんでだ? 今一瞬、拗ねたような顔をしなかったか?
「なんか……気に障ったか?」
「……ヴィオル様にとってはさっきの狼の動きも想定内だったのでしょうね」
「ああまぁ、対処はできたと思うが」
「どうか次は、わたくしも参戦させてくださいませ」
まだ目も鼻の頭も赤いくせに、急に何を言い出すんだ。俺は呆れた。
「……そんな顔で見ないでくださいませ」
「いや、まだ無理だろう。焦らなくていい、次からが本番なんだ」
「ですがわたくしはさっき、ヴィオル様が襲われてしまう、と本当に肝が冷えたのです。なのにそんな時ですら援護の魔術ひとつ撃てないなんて……自分に腹が立って仕方がないのですわ。目の前でヴィオル様を死なせてしまうかも知れないなんて思いは、もう二度としたくありません」
キッと睨まれて、俺は不思議な事に笑いたくなってしまった。
血が怖くて泣いているのかと思っていたら、悔し涙だったのか。随分と威勢の良いことだ。
「な、なぜ笑うのですか……!」
「すまん、笑っていたか?」
顔に出てしまっていたとは。いつもは表情筋が死んでいると言われるくらいなのに、なぜセレン嬢の前だと顔に出るんだろう。猫として自然体で接する時間が長かったせいなのだろうか。謎だ。
「いや、血を怖がって泣いているのかと思ったら、随分と勇ましいことを言うから」
「もちろん血も魔獣も怖かったですわ。恐怖で体が竦みました。今もあの魔獣の骸を見るのは正直にいうととても怖いのです」
ああまぁ、ウインドカッターで屠った死骸はなかなかにグロいもんな。俺も最初の頃はよく吐いた。
「ですが、わたくしは慣れなければ。もっと強い魔獣を倒せなければ道は開かないのですもの」
「いい覚悟じゃないか」
「血も魔獣も怖いけれど、自身や大切な方の危機に、体が竦んで今みたいに何も出来ないことの方が余程怖いと思い知りました。わたくし、とっさの時に体が先に動くくらいに、強くなりたい……」
「……そうか、じゃあやってみろ」
俺は、また自分の唇の端が上がるのを感じていた。
俺の生徒は、思っていたよりもずっとずっと、負けず嫌いで根性が据わっていたらしい。




