【ヴィオル視点】猫は失敗だった……
そしてその夜、予告通りの宵九つの鐘がなる頃、俺はセレン嬢の部屋を訪ねていた。
公爵家の馬鹿デカイ邸の所在地は分かっていたし、セレン嬢の魔力を探知すれば居場所なんてすぐに分かる。魔術師を敵に回すなとはよく言われることだが、俺もそう思う。寝首をかくなんて多分簡単だ。
闇に紛れて屋根から屋根へ。塀を乗り越え壁のでこぼこを伝って目当ての窓へ辿り着けば、約束通り俺の体が通り抜けられるほどの隙間が空いていた。
上品なレースのカーテンがひらりと風に舞っている。早く部屋に入って窓を閉めさせないと、これはこれで不用心だと反省した。年頃の娘への気遣いが足りなかったかもしれない。
前肢でコツンと窓を叩くと、セレン嬢が飛ぶような勢いで駆け寄ってきた。
「まぁ、可愛い! 黒猫ちゃん、貴方がヴィオル様の使い魔なの?」
「そうだ」
「ヴィオル様の声にそっくり!」
「使い魔だからな」
というのは建前で、本人だからだ。姿を変えて見せるだけではなく猫としての身体能力まで発揮できるレベルでの変化というのは今の時代、俺くらいしかできないのではないかと自負している。
俺にしかできない完璧な魔術を堪能して貰おうと、猫らしくしなやかに四肢を伸ばし、尻尾をくるんと巻いてみせると、セレン嬢は目を輝かせて喜んでくれた。
「可愛い~!! わたくし、猫を飼ってみたかったんです!」
抱き上げられて、可愛い可愛いと撫でられる。さすがの俺もどうしていいかわからず、為されるがままに彼女の腕の中におさまった。なんせ恐れられることはあってもこんな風に猫っかわいがりされることなどかつてなかった。
所在なく撫でられているうちにレースのカーテンが夜風に揺れているのに気づいて、俺はひとつため息をついた。
「……窓を閉めてくれ。すまん、不用心だった」
「使い魔さんは賢いのね。ねえあなた、お名前は?」
「名などない。好きに呼べ」
「お名前がないの? ヴィオル様は困らないのかしら」
この姿でいることなどほぼないのだから、名など考えたことがなかった。うーん……と少し考えるような声が聞こえて、俺はひょいっとセレン嬢の顔の位置まで持ち上げられる。
「では、ヴィーと呼ぶことにするわ。ヴィオル様の使い魔ですもの」
俺と目を合わせ、にっこりとセレン嬢が笑う。
近い。近い。顔が近い。
なぜ人は、愛玩動物と見ると距離が近くなるのだろうか。猫になったのは失敗だった。鳥にしておけば良かった。鳥なら飛んで逃げられたのに。
そもそも俺は人とのコミュニケーションが苦手なのだ。それはもう、苦手さが顔に出て、恐れられるレベルだ。今もまさに羞恥に耐えきれず、四肢が暴れだそうとしているのを必死で抑えている。公爵令嬢の顔やら手やらに傷などつけてみろ。いかな俺でも謝った程度では済まない。
そろそろ限界だ、離して欲しい。
そんな俺の願いもむなしく、まだ俺をしっかりと確保したまま、セレン嬢は器用に窓を閉める。どうやら侍女は下がらせているらしい。俺としてもありがたいが、もしかしてこれから話す内容が侍女にも秘密にするようなことなのかもしれぬと思うと少し緊張してきた。
俺の腹に腕を回し、尻をひょいと持ち上げるとセレン嬢はそのまま椅子に腰をおろす。幼い頃に親父がよくこうやってひざに座らせてくれたな……と空に浮く四肢を眺めていたら、セレン嬢はおもむろにハンカチを水差しの水で濡らすと、俺の足を手に取った。
待て!
まさかその綺麗なハンカチで俺の足なぞを拭く気ではあるまいな!?
俺は慌てた。公爵令嬢のハンカチなんて、いくらするのか予想できない。じたばたともがくが、セレン嬢の腕ががっちりと腹を捉えていて意外にも抜け出せない。腕や服にツメがひっかかるのが怖くて、俺の動きに制限がかかってしまうのも敗因なのかもしれないが。
「こーら、暴れないの。お外を歩いた足でお部屋に入れたら、さすがにリンスに怒られてしまうわ。わたくしの侍女、意外と怖いのよ」
結局お綺麗なハンカチで四肢ともにしっかりと拭かれてしまった。なんなんだ、本題に入る前に信じられないほど疲れたではないか。この娘、意外とマイペースだな。
「ヴィー、怒ってるの?」
「……怒ってはいないが。せめてもっと捨てても良さそうな布で拭いて欲しかった」
そんなもの、持ってないかもしれないが!
「それより、本題だ。家庭教師が必要だと言っただろう。なにをするつもりだ」
「ヴィー、ごめんなさいね。その教えてくれる方にしか話せないの」
用心深い。よほど言いたくないことらしいが……ここまでの思いをしたんだ、絶対に吐いてもらうぞ。
「俺が教える」
「ヴィーが? だって猫ちゃんでしょう?」
「使い魔を舐めるなよ。大概の魔術ならそこらの魔術師よりもしっかりと教えられる」
自分で言うのもなんだが、なんせ稀代の魔術師だからな。
すごいのねぇ、と感心している場合ではない。セレン嬢、頼むからさっさと口を割ってくれ。
「でも、大丈夫かしら。わたくし、今年の特級魔術師の試験に、なんとしても合格したいのだけれど」
「特級魔術師!? 今からか! あと三ヶ月もないぞ!?」




