喜んでいい筈の言葉なのに
「良かった、ここにいたんだな」
「ヘリオス殿下……」
どうして、ここに? 喉まで出かかった言葉を飲み込む。いつもならばまっすぐにサロンに向かう筈のヘリオス殿下に会うとは思ってもいなかったものだから、思い切り驚いてしまった。
それに、わたくしも充分に面食らってしまったのだけれど、ヘリオス殿下も怪訝な顔をしているのはなぜなのかしら。お声をかけてきたのはヘリオス殿下だというのに。
「どうか、なさいました?」
「いや……セレン、僕の呼び方変えたんだな。どうしたんだい? 急に」
「皆様の呼び方にわたくしも倣おうと思いまして」
わたくしは、落ち着いて穏やかに答える。
「サロンで皆様と過ごすうちに、わたくしだけ呼び方が違うことに気がつきまして。幼い頃ならばまだしも、わたくしももう成人も近い年齢ですから」
この答えが、一番差し障りがないはずだ。
本当は、今後のために呼び方を少しずつ臣下として問題が無いものに移行していくための第一歩に過ぎない。わたくしが特級魔術師になった日には、ヘリオス様、などと親しげな呼称は許されないと思うから、今のうちから慣れておこうという算段だった。
「気にすることはないだろう? セレンはそう遠くない将来、僕の妃になるのだから」
「その時には、また『ヘリオス様』と呼ばせていただきますわ」
にっこりと笑って言えば、ヘリオス殿下は少しだけ眉を下げて苦笑する。
「わかった。セレンがそうしたいなら」
無理強いなんてしない。ヘリオス殿下はそういうお方だ。
「それよりも、妃教育をしばらく免除されると聞いた」
「まあ! さっきお話しして決まったばかりですのに、もうご存知とは」
あまりの耳の早さに驚いてしまった。
「サロンにも来ていないみたいだから、探していたんだよ」
「妃教育のお時間は、自習のお時間としていただいたんですわ。わたくしなりに見聞を広めるために調べたいことが山ほどあって……」
暗に、妃教育の筈の時間には、サロンには行かないと告げる。実際わたくしには時間が無いのですもの。
「それよりも、わたくしを探していたと……何か御用ですの?」
殿下がわたくしを探すだなんて、とてもとても珍しいことだ。いつもサロンで会うからかも知れないけれど、資料室まで探しに来てくださることなど初めてかも知れない。
「いや……その、このところ城下で評判の歌劇団が公演していると聞いてね」
「聞いたことがありますわ。衣装も演出も、とても豪華で夢のように美しいそうですわね」
「それそれ! せっかくだから一緒に見に行かないか?」
わたくしは、息をのんだ。
「考えてみたらこれまで僕たち、一緒に出かけたこともないだろう? 妃教育がしばらく休みなら、セレンも時間がとれるんじゃないか?」
一瞬嬉しさで胸がきゅうっと熱くなって、すぐにそれを覆い隠すほどの悲しさが押し寄せる。
こみあげてくるものを抑えるのが大変で、涙が零れてしまいそう。わたくしは慌てて下を向いて何度も何度も瞬きして涙を目の奥に押し込めた。
なぜ、今さら。
ヘリオス殿下の言葉通り、わたくし達はこれまで一度も共に出かけたことなど無い。毎日のように顔を合わせていたけれど、それは学園で、サロンで、夜会で、会うべくして会っていただけだ。
きっとこの言葉が数日前だったなら、わたくしは飛び上がって喜んだだろう。精一杯のおめかしをして、人生最良の日を思う存分楽しんだに違いない。
でも、今は。
「マリエッタ……」
「え?」
本当はきっと、マリエッタと一緒に出かけたいのだろうに、ヘリオス殿下は立場上わたくしを誘わざるを得ないのだと思うと、ただただ悲しくて、申し訳ない気持ちが湧いてくる。
ヘリオス殿下とマリエッタが二人で街を散策し観劇を楽しむ様を想像してみたら、麗しくてお似合い過ぎて、打ちのめされたような気持ちになってしまった。
ああ、皆が言っていた通りだわ。なぜ今まで思い至らなかったのだろう。輝くようなヘリオス様の隣がこんなに地味なわたくしでは、きっとそんな夢のような光景にはならない。
「わ、わたくし、今は調べ物がとても忙しくて……マリエッタがその歌劇団の公演をとても見たがっていましたの。もしよろしければ、マリエッタを誘ってあげてくれませんか? とても喜ぶと思うのです」
「何を言っているんだ。行けるわけがないだろう」
ヘリオス様の怪訝な表情に、わたくしは自身の失言を悟った。
「いくら婚約者の妹といえど、マリエッタ嬢と二人で行動などしたら、口さがない者達になんと噂を立てられるか分からない」
「そう……そう、でしたわね。ごめんなさい。マリエッタが見たがっていたことを思い出してしまったものですから、つい。……軽率でしたわ」
当たり前だ。馬鹿なことを口にしてしまった。正式に婚約が解消されない限り、そんな軽率なことをした途端、ヘリオス殿下にもマリエッタにも非難の目が向けられるだろう。
「いつならいい?」
「えっ……」
「今は忙しいんだろう? いつならいいんだ」
少しだけ拗ねたような口調。それなのに結局は譲歩してくれる……わたくしがお慕いしていたヘリオス殿下の変わらぬ姿勢に、また目頭が熱くなる。
だからこそ、一番大切なことだけは譲歩させたくない。わたくしは、決意を新たにした。
「少しお時間をいただけますか? 予定を組み直して考えてみます」
「分かった。待っている」
「はい。……ヘリオス殿下、わたくし、全身全霊で頑張りますから!」
「え? あ、いや、頑張り過ぎなくていい。セレンはすぐ頑張り過ぎるから」
そんなわけには参りません。どんなに困難でもわたくし、絶対に特級魔術師になって、婚約を円満に解消してみせます!
作者的に皆さまの反応が大変怖い回(^^)




