【ヴィオル視点】ほどほどの距離感で
「ヴィー……?」
「なんだ」
小さく、探るような声でセレン嬢が俺を呼ぶ。
俺は二ヶ月近くをかけてこの状況に慣れてきたわけだが、セレン嬢は昨日真実を知ったばかりだ。戸惑うのは当然だろう。
セレン嬢が少しでも安心できるようにといつも通りの声のトーンを意識して返事をすれば、彼女は納得したように何度も小さく頷いた。
「そうよね、ヴィーなのよね」
「当たり前だろう」
「ヴィオル様だけれど、ヴィーはこれまで一緒にいてくれたヴィーだと思ってもいいの……?」
「もちろんだ。別にこれまでと何も変わらない」
演技をするような器用さもないし、ほぼ素の俺のまま接してきたつもりだ。正体を明かしたからといって、これまでとなんら態度を変えるつもりもなかった。
「というか、猫になったからといって態度も言葉もなんら手を加えたつもりはないからな。猫だろうが人だろうが俺は俺のまま、あれが素だ」
「あの可愛い猫ちゃんが、素……」
「可愛く見えたなら猫という姿のせいだろう、愛玩動物だからな」
「ふふふ、そうですわね」
なぜか意味ありげにセレン嬢が笑う。とりあえずは気持ちが落ち着いてきたようでひと安心だ。
「ここ二ヶ月近くヴィーとして接してきて、セレン嬢と腹を割って色々と話せたのは俺も嬉しかったんだ。だからセレン嬢も今まで通り接してくれると助かる。……難しいとは思うが」
「……はい!」
セレン嬢があまりにも嬉しそうに笑うから一瞬不思議に思ったが、その視線で分かってしまった。今言った言葉がちょっと照れ臭かったものだから、しっぽが無意識にテーブルをパタ、パタ、と打っていたのだ。
それはセレン嬢があの顔になるのも道理だろう。
揺れるしっぽを触りたそうに見ている割に視線をうろうろと彷徨わせたセレン嬢は、最終的に小首を傾げて気まずそうにこう言った。
「あの……たくさん触ったこと、怒ってる?」
思わず笑ってしまった。そんなことを気にしていたのか。確かに触られまくったが。
「俺は人嫌いだからな、最初は嫌だった。というかやめろと言うのにセレン嬢が容赦なくもふもふもふもふもふもふ撫でるわ顔を近づけてくるわでそれなりに居た堪れない思いをしたが」
「ご、ごめんなさい……!」
「もう慣れた。撫でている時はセレン嬢が本当に幸せそうだから、今は別に嫌ではない」
「い、嫌じゃない? 本当に?」
さっきまで困ったように下がっていた眉毛が、穏やかな弧を描く。セレン嬢の安心したような表情を見ると俺も嬉しい。
俺を撫でたくらいで穏やかで幸せな気持ちになれるなら、ちょっと小っ恥ずかしいのくらい全然問題ない、むしろちょいちょい撫でていつも笑っていればいいのではないだろうか。
「それにセレン嬢は撫でるのがべらぼうに上手いしな。心地よいくらいだ」
「ヴィー……!」
「ああ、ただこれ以上撫で方を勉強するのは勘弁してくれ。気持ち良くて人としての節度を失うのは困る。だらしない格好はさすがに見られたくないからな」
必要以上に罪悪感を感じてしまわないように冗談めかして言うと、セレン嬢はぱあっと表情を明るくする。
「気持ち良かったのなら勉強した甲斐があるわ。……ねぇ、ヴィー」
「なんだ」
「お願いがあるのだけれど、その……」
セレン嬢はくちびるの前で指を組んで、言いにくそうに口籠もった。俺の方が顔の位置は下にあるのに、俯いて上目遣いで俺の目を捉える。器用だ、そして可愛い。
この感じはこれまでにも散々見てきた。ゆえにセレン嬢が言いたい事など簡単に予測できる。
俺は小さく息を吸って覚悟を決めた。
「時々、撫でてもいい? 本当に時々、ちょっとだけでいいの、今までみたいに撫でまくったりしないから」
「撫でるくらい、別にいつでも構わないが」
「本当!!?」
「うわっ」
弾けんばかりの笑顔になったセレン嬢が、勢いあまって俺を両手で抱き上げる。そして俺を抱きしめようとして、ハッとした様子でもう一度テーブルに下ろした。
「ご、ごめんなさい。嬉しくて、つい」
「だから、これくらい別にいい」
「それでは、失礼して」
ごくり、と唾をのんでセレン嬢がおずおずと俺に手をのばす。
額から後頭部にかけてを小さな手のひらでゆっくり撫でられると、反射的に俺の耳がピルピルっと水を弾くように動いた。それを見たセレン嬢が目を細めて微笑む。
「やっぱり可愛い……」
それは仕方あるまい。猫が可愛いのは当然だ。野良でもなんでも、猫は可愛い。
撫でているうちに、まるで吸い寄せられるようにセレン嬢の顔が俺に近づいてくる。俺は慌てて止めた。
「セレン嬢、顔が近いとさすがに照れる。節度を持ってほどほどの距離感で頼む」
「ご、ごめんなさい!」
バッと俺から離れたセレン嬢が「ヴィーはヴィオル様、ヴィーはヴィオル様」と自分に言い聞かせている風なのが面白い。今はまだ耳まで赤くなっているが、さっきの様子なら問答無用で足を拭かれ、もふもふされるのもそう遠い日ではないだろう。
とりあえず拒絶されることはなさそうだから、もうそれでいい気がする。
セレン嬢にお茶を飲むように勧め、気持ちが落ち着いたらしきところを見計らって、俺はおもむろに口を開いた。
「セレン嬢、ところで今日は話しておきたいことがあるのだが」
「……ええ。そうよね、分かっているわ」
セレン嬢がゆっくりと顔を上げる。
さっきまでとは打って変わって、きゅっと引き締まった表情をしていた。
「特級魔術師の試験にエントリーする前に、お父様たちにその考えを打ち明けた方がいいのでは、というあの話でしょう?」
「そうだ。もう一度、真剣に考えるべきだと思う」
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