聞きたくなかった現実
扉を開けようとした瞬間、中から華やかな笑い声が響いてきて、わたくしは思わず手を止めた。
たくさんの殿方の笑い声に混ざって、ひときわ明るい可愛らしい笑い声が響く。ああ、今日はマリエッタが来ているのね。道理でみんな楽しそうだと思った。
ひとり納得して扉を開けようとしたけれど、聞こえてきた言葉に呆然として、開けることはできなかった。
「だからさぁ、ヘリオス殿下はちゃんと言うべきなんじゃない? マリエッタを正妃にすべきだって」
「そうですね、マリエッタもセレンも公爵家の娘ですし、問題ないかもしれませんよ?」
「だよなぁ。言ってみればいいじゃないか。俺だったら絶対、地味姫よりマリエッタがいいもんなぁ」
地味姫。
その言葉にズキン、と胸が苦しくなる。それがわたくしのことを陰で揶揄する時に使われる蔑称だと気がついたのはいつの頃だっただろうか。
波打つような金色の髪と透けるように白い肌、大きな翡翠色の瞳に薔薇色の頰を持った天使のようなわたくしの妹、マリエッタに比べて、確かにわたくしの顔の造作はとても地味だ。
本当に姉妹かと疑いたくなるけれど、わたくしは髪も瞳も特徴の無い薄い茶色で、切れ長といえば聞こえがいい、一重の細めの目だ。まつ毛の長さだってマリエッタの半分しかない。似通っているのは肌の白さくらいだろうか、それでもマリエッタの肌の方が肌理が細かくて美しい。
不細工というほどでもないけれど、華やかさもないわたくしの容姿。地味姫とはよく言ったものだと、言われる立場のわたくしでさえもそう思う。
「そんなこと、口にするわけがないだろう」
ヘリオス様の声が聞こえて、わたくしの体はさらに硬直した。話の流れから予想はしていたけれど、やはりヘリオス様もこの場にいたんだわ。
「生まれた時から決まっている婚約だぞ。しかもセレンはあれだけ真摯に妃教育に取り組んでいるのだ、親父や大臣達からの信頼が篤い。反対されるのが目に見えている」
「まあねぇ、非の打ち所がないもんねぇ」
「そんな進言してみろ、下手すれば僕の方が廃嫡されるぞ」
ヘリオス様が笑いながら言った。
「そりゃあさ、セレンは国を治めるパートナーとしては心強いかもしれないけど、お妃様のお役目ってそれだけじゃないでしょ」
「だよなぁ、マリエッタが『頑張って』って笑ってくれたら、それだけでオレ100倍くらい頑張れるよ」
「まぁ、本当かしら」
「ホント、ホント。でも実際オレだけじゃなくて、国民だってマリエッタに笑顔で手を振ってもらえるだけでやる気出ると思うんだけどなぁ」
「それはあるかもな。マリエッタの美貌は城下でも評判だ」
「マリエッタの乗った馬車が通る時なんか、ひとめ見たいって人だかりができるもんな」
続く会話の内容に、わたくしは血の気が引くのを感じていた。今までなんの疑いもなく、一心に治世の勉強をし、妃としてヘリオス様の補佐を行なっていけば良いのだと思っていた。
でも、確かにマリエッタをひとめ見たいという声が城下でも日増しに強くなっているのはわたくしも勿論知っている。国民も、マリエッタが妃になることを望んでいるのかも知れなかった。
「ヘリオス殿下だってマリエッタに激励されるとやる気出るでしょ?」
「それはまぁ、これだけの美女に言われれば……」
「まぁ、本当に? 嬉しい」
「ほら、やっぱりそうなんじゃないか」
僅かな沈黙のあと、ヘリオス様がため息をつくのが聞こえてきた。
「話しても仕方がないことだ。そろそろセレンが来る頃だろう。この話はここまでだ」
「ちえー、殿下のことを思って言ってるのにさ」
「正妃にできないからってマリエッタを後宮に閉じ込めたりしないでくれよ? 俺たちの太陽なんだから」
「そんなことはしない」
ヘリオス様の苦々しい声に、わたくしは震える思いだった。
だって、知らなかった。ヘリオス様が、まさかわたくしが婚約者であることに不満を持っていただなんて。立場上、覆すことができないことだったから、ただ黙って受け入れていただけだったなんて。胸のあたりが絞られたみたいにきゅうっとなって、目頭が熱くなる。
堪えていたけれど、涙がポトリと落ちてきてしまった。
婚約者だとお父様に教えられてから、ずっとずっとヘリオス様をお慕いしてきた。ヘリオス様はわたくしよりも半年あとに生まれたから学年としてはひとつ下ではあるけれど、身分を問わず広く意見を取り入れる柔軟さも、帝王学だけでなく剣術・馬術にまで手を抜かない真面目さも、お役目に対する真摯な姿勢も、そのすべてを尊敬していた。
金の短髪は陽に煌めいて綺麗だったし、紫の瞳が印象的な精悍なお顔も好きだった。鍛えているからか立ち姿まで美しいところも素敵だと思っていたわ。
誰に対しても変わらない態度で、これまで婚約者として特別に扱われたことはそういえば無かった。素っ気なく思えることもあるけれど、それすら愛しく思ってきた。
でも、ヘリオス様は違ったんだわ。
ヘリオス様が好きだったのは、マリエッタだったのね。わたくしとの婚約をずっと苦々しく思っていたんだわ。ヘリオス様はきっとわたくしの前では生涯それなりに笑って、時々腹の中のもやをぶつけるように意地悪を言って……そうして、「仕方ないことだ」と自分をごまかしながら生きていくつもりなんだろう。
それは、なんと不幸なことか。
いつでも明るく笑っていて欲しいのに……わたくしが、それをさせないんだわ。
次々と涙が溢れでてくる。こんな姿を誰にも見せるわけにはいかない。わたくしは音を立てないように気をつけながら、そっと扉の前を離れた。