森の秘密
ドングリ池は、池っていうわりに結構大きい。あたしは目を細くしてよーく見た。二匹のアライグマのうち、横たわっている方、それは確かにアライグマちゃんだ!
あたしとコマドリちゃんは頷きあって、池の中央へ、あたしは泳いで、コマドリちゃんは飛んで向かった。すぐうしろから、ダイゴが付いてきているのがわかる。
大騒ぎで向かってくるあたしたちに、起きている方のアライグマが気付かないはずがない。アライグマは顔を上げ、こちらを見ていた。
「リスさん、気をつけてね」
「ええ、わかってる」
この森で、あのアライグマだけが眠っていないのだ。最悪の場合、あのアライグマが皆を眠らせているってことだって考えられる。
あたしたちは十分警戒しながら、アライグマちゃんとお話ができるくらいの距離まで近づいた。起きてる方のアライグマは、あたしたちの警戒を知ってか知らずか、にこっと微笑んだ。
「ようこそ、私の森へ。起きてるお客様は久しぶりだわ」
「あなた、誰? アライグマちゃんの親戚?」
あたしの言葉に、アライグマはきょとんとした顔で黙り込んだ。それから「ああ、そうだった」と手を打つと、アライグマの姿がふにゃりと歪み、次の瞬間には、同じ場所にシマリスが立っていた。
そのシマリスは、あたしに瓜二つだった。顔も、体も、毛並みも、声も。謎の生き物は、あたしの顔でまた笑った。
「私は、誰でもあって、誰でもない。アライグマにだって、シマリスにだってなれるのよ」
「もう少しわかりやすく言ってくれない?」
「そうねえ。……私は、森の番人。決まった形は持たないの。この方がわかりやすい?」
「どっちもさっぱりだわ」
「じゃあ……この言い方は好きじゃないけど……池の女神だと思ってちょうだい。当たらずとも遠からずってところだから」
「当たってないんじゃないの」
「だって。あなたが、わかりやすくって言うから」
進まないあたしたちの会話を遮って、コマドリちゃんが声を張り上げた。
「あんたの正体は、ひとまずいい。それより、アライグマは眠ってるだけか? どうすれば起きるんだ? 答えてくれ」
あたしはちょっとびっくりしてコマドリちゃんを見た。だって、コマドリちゃんが女の子相手に乱暴な言葉を使うところなんて、見たことがなかったから。
女神(他に呼称のしようがないから、仕方なくそう呼ぶことにするわ)は、あたしを見て、コマドリちゃんを見て、ダイゴを見て、それからアライグマちゃんに視線を移した。またしてもふにゃりと体が歪んで、次に彼女はダイゴと似たような、ハダカザルの姿になった。ダイゴと違うのは、頭から生えた金色の毛がやたらと長いことと、ダイゴよりもずっとゆるっとした白い毛皮を体に巻きつけていることかしら。
女神は池の中をするすると動き、優しくアライグマちゃんを抱き上げた。それから池の淵に寝かせる。
あたしたちもアライグマちゃんと一緒に水から上がった。あたしは全身をぶるぶるして水を吹き飛ばす。
「アライグマちゃんっ。アライグマちゃんっ!」
「おい、アライグマ。起きろよっ」
しかしどれだけ必死に話しかけても、体を揺すっても、アライグマちゃんは目を開けない。もしかして、死んじゃってるんじゃ……? 不吉な予感がちらりと過ぎる。でも、そうじゃない。アライグマちゃんは息をしている。でも目を覚まさない。
「この子は今、夢を見ているの」
女神が歌うように言った。
「夢? 光が見せる夢?」
「そう」
「あれは何?」
「あら? もう知っているのではないの?」
女神が首を傾げた。あたしは少しムッとして、
「……日本の記憶」
「そう、その通りよ」
女神は満足げに微笑むと、今度は本当に歌を歌った。
笑えや笑え。歌えや歌え。
我らが笑わず誰が笑う。
大地に垂るる淋しき光
逆さの虹が受け止めよう。
一つ二つ、三つ四つと、積もり積もって我が身に降れば
我らがそれを、笑い飛ばそう。
笑えや笑え。歌えや歌え。
愛しき貴方を守るため。愛しき我らを守るため。
誇りを胸に、前を向け。
我ら世界の守り人。
歌い終えると、女神はコマドリちゃんに目を向けた。
「あなた、歌が好きだったわね。この歌、ご存知?」
「……逆さ虹の森に住んでいて、知らない奴がいるのか?」
「ふふっ。いないわね、きっと」
女神は何が楽しいのか、口元に手を当ててくすくすと笑う。
「じゃあ、この歌の意味、考えたことあるかしら?
あるかもね。ないかもしれないわ。でも、きっと正解は知らないのでしょうね」
「あなたはあたしたちを怒らせようとしているの? まあどっちでもいいけど。今は歌より、アライグマちゃんについて聞きたいわ」
「あら。だから説明してるんじゃない。本能が叫ぶ警告に逆らってまで友達を救おうとして、ここまでたどり着いた、そのご褒美に。
ねえ、耐えがたい恐怖だったでしょう? あの橋を渡るのは」
女神は急に笑うのをやめ、真剣な眼差しになった。ふっと空を見上げる。流れる金が彼女の肩からはらりと落ちた。
女神の細く繊細な指が、近いようで遠い逆さ虹に向けられた。
「この歌は、この森の存在意義を伝える歌。何も知らされないあなた達に、唯一与えられたヒント。
あなた達は、世界の守り人。世界を清く正すための、浄化機関」
「……ずいぶんな物言いね。まるであたし達が生き物じゃないみたいだわ」
「そうは言わないわ。あなた達は紛れもなく生きている。
けど……同時に、普通の動物とは一線を画している。例えば、そう。そこの人間のあなた。彼とシマリスさんには、大きな違いがあるの。ああ、もちろん見た目とかの違いじゃないわよ。存在そのものが違うの。
シマリスさん、あなたはね、嘘を糧に生きているの」
「は?」
「嘘よ。嘘。ああちがうわ。本当よ。……ややこしいわね。
一から説明するわ。
逆さ虹の森は、浄化機関。地球で人間達がついた嘘が、流れ込む場所。人間がついた嘘は虹を渡り、裏側のこの森へと流れ込む。そしてその嘘を糧として、あなた達は生きている」
女神は続けた。
「嘘はね、何も悪意からしか生まれないわけじゃない。善意が生む嘘もある。他愛ない嘘もある。本人が気づいていない嘘だってある。
人間は嘘をついて、大なり小なり心の安寧を得ることができるの。でも、じゃあ、人間の憂いを背負った嘘の言葉達は? あの子達はどうなるの? 嘘として吐き出された言霊は、己の身の黒さに絶望して地球に溜まっていくしかないの? でもそれじゃあ、いつか地球は嘘で塗りつぶされて、とても人が住める環境じゃなくなってしまうわ。
そこで私は……言葉の女神の私は、この逆さ虹の森を作った。悲しみに震える言霊達を集めて、それを浄化してあげるために」
女神は両手をあたし達に向けて差し出した。
「その役目を担うのが、あなた達」
逆さ虹の森の動物達は、それぞれ相性のいい嘘の言霊を体に取り込む。そして地球の夢を見る。逆さ虹の動物達は、生来とても気性が穏やかだ。だから動物達の夢の中で言霊が嘘を追体験する際に、あたしたちはそれを軽々と笑い飛ばすらしい。
嘘がなんだ。これは人を幸せにする嘘だ。こっちはついてはいけない嘘だったが、本人は反省しているじゃないか。あたし達のその想いを受けて、言霊は浄化されるのだそうだ。
あたしは何も言えなかった。だって、いきなりそんなこと。普通に考えて、信じられるわけがない。でも……不思議とわかった。女神は嘘をついていない。そういえば、あたし達は嘘に敏感だ。誰かが嘘をつくと、だいたいすぐにわかるから、誰も嘘をつかない。
それはもしかして、あたし達が嘘を取り込みながら生きているから?
「そんなばかな」
叫ぶコマドリちゃんの声にも、力がなかった。きっとあたしと同じで、女神の言葉が真実を語っていると悟ってしまったからだろう。
「あなたの話が本当だとして、それならアライグマちゃんはどうしたの? ここで眠っている動物達は? オンボロ橋は何?」
問われた女神は初めて表情を曇らせた。悲しそうに俯いて、小さく首を振った。
「……噓にも、いろいろあるのよ」
例えば、人を幸せにする嘘。己の欲望を満たすための嘘。恐怖からつい吐き出してしまう嘘。
「リスさんと相性のいいのは、幼い子供の無邪気な嘘。コマドリさんと相性のいいのは、己を優れて見せる嘘。
アライグマさんと相性のいいのは……人を傷つけるための嘘」
女神の手がそっとアライグマちゃんの頭を撫でた。警戒心の強いはずのアライグマちゃんは、しかし目を覚ます気配がなく、ただむにゃむにゃと寝言をつぶやいた。
「あなた達は生来とても穏やかで、優しい子。でもね、夢を見ると、ある程度その夢に引きずられることがある」
そしてアライグマちゃんと相性のいい夢は、夢を見た動物を、暴力的な性格に引きずりこみやすくなる。
「夢に引きずられてしまった子達に、それ以上夢を見せるわけにはいかない。嘘を浄化もできないし、何よりその子達に悪影響があるんだもの。でも、夢を取り込まなければ、その子は死んでしまう。
だから私は、この場所を作ったの。この場所なら私の力で浄化を手伝えるし、夢を見終えても、正気に戻れなければ目を覚まさない。目を覚まさなければ、動物同士で争ったり、傷つけあったりしなくて済むから」
女神が痛みを堪えるように、眉をひそめた。
「信じてもらえるか、わからないけれどね。私は、この森の動物達を愛しているわ。
だからできるなら、無理やり眠らせるだなんて、したくはなかった。けれど他に、どんな方法があるの? 死なせたくないの。それだけは嫌なの。私の都合で生み出した可愛い私の子供達。せめて私の都合で死なせることだけは、したくないの……」
それから少しの間、女神はアライグマちゃんの毛並みを撫で、顔を伏せていた。泣いているのかと思ったけれど、しばらくしてから顔を上げた彼女の顔は、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「でも安心して。だいたい五十年もすれば、溜まった澱も綺麗になって、みんな目を覚ますから」
『ご、五十年!?』
あたしとコマドリちゃんの声が重なった。
ちょっと待ってよ。五十年だなんて、冗談じゃないわ!
「あ、平気よ。みんな普通の動物とは違うって言ったでしょ? 五十年くらいじゃ寿命は来ないわ」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ!」
あまりにも呑気な女神の言葉に、あたしはつい怖い顔を向けてしまった。
「あたしは今すぐにでも、アライグマちゃんに会いたいの!」
「五十年は長すぎる! どうにかならないのか?」
詰め寄るあたし達の剣幕に、女神はびくりと体を竦ませた。
「どうにかって言われても……できるならとっくに、私がやってるわ」
またしても、女神の言葉に嘘はない。
ということは、どうやっても、あと五十年も待たなきゃいけないってこと?
「あー、ごほんっ」
後ろから聞こえてきた咳払いは、ダイゴのものだった。すっかり存在を忘れてた。そういえば、いたのね、ダイゴ。
「ちょっといいかな。
思ったんだけど、アライグマくんと相性のいい夢って、必ずしもアライグマくんだけと相性がいいわけじゃないんじゃないかな?」
「え? ええ、そうね」
ダイゴの言いたいことがわからないみたいで、女神はキョトンとした表情のままコクコク頷く。
「じゃあさ、例えばリスさんが、アライグマくんの夢の中に潜り込んで、彼を探し出すってことも、可能なのかな?」
目からウロコとはこのことよ! その手があったのね! たしかに、そうだわ。夢の中でならアライグマちゃんに会える。そこで彼を正気に戻してあげられたら、一緒に戻ってこれるじゃない!
全員の期待のこもった眼差しが女神に向けられる。
「…………! わ、わからない。けど、可能性は、あると思うわ」
「じゃあ!」
「でも、危険よ。
本来、リスさんの夢も、コマドリさんの夢も、アライグマさんのものとは違う。入れたとしても、普段の夢で晒されているものとは桁違いの悪意に晒されるわ。彼が見る夢は、とても強烈なものばかりだから。
それにアライグマさん本人も、かなり凶暴化している。夢の中とはいえ、怪我をすればどうなるかわからない。
それでも……やるの?」
やめてほしい。女神の顔にそう書いてあった。その表情はたしかに、娘を心配する母のようで、あたしはこんな時だというのに、少しだけ笑ってしまった。
でもごめんね。あたしどうやら、反抗期みたいなの。
あたしはコマドリちゃんと目を合わせ、お互いにやっと笑った。
「もちろん、やるわ!」
チャンスがあるなら、掴むだけよ!
冬童話の締め切りに間に合うのか不安になってきました。
無理かもしれない。でも絶対に完結はさせますので!