あらわれるはずのないもの、害虫として有名な一つについて
我が家にあらわれた、あらわれるはずのないもの。
害虫として有名なGのあれの話で、詳細な説明等あり、苦手な方は絶対に読まないでください。
キーワードも参考にしてください。
ミートパイとか、スイートパイとか。
アップルパイとか、カスタードクリームパイとか。
手づかみで食べられるこれらのパイの形といえば、主なものは二つしかないと思う。
つまり、三角形か長方形だ。
どちらも正方形のパイ生地を、フィリングを詰めて折りたたんで作られる。折りたたみ、端をフォークなどでぎゅっぎゅっと押し付けて封をすれば完成。ファーストフードでも見られるごく一般的な形である。
そのうちの一つ、長方形のもの。
あれがゴキブリの卵にそっくりだということをご存じだろうか。
それを見つけたのは本当に偶然のことだった。
今日は外が寒く、外出するために何かしらのアウターが必要だった。
春秋に着る薄手のそれを手に取った。それは年中、部屋の隅の衣装ポールにフックで掛けてあって、半年ぶりに気安く手に取ったわけである。
腕を通し、風が冷たいから前をきちんと閉めておくかと、下のほうに付いているファスナーに手をやり――それに気づいた。
胡麻そっくりの黒い小さな粒が隅のほうに二つ付いている。
一瞬何か分からなかった。
食べこぼし?
ゴミ?
が、昆虫特有の物体が付いていることに気づき(たぶん触覚か足だと思うがすでに忘れた)……あわてて脱いだ。叫びながら。
脱いであらためて検分すると、やはりそこに虫が付いていた。
本当に胡麻そっくりだった。大きさも色も何もかも。動きもしない。ただ違っているのはそれがやはり虫としての構造を保有していること。
テッィシュでくるむと、その瞬間はさわさわと動いたが、おとなしく捕まえられた。
が、服に二匹も虫が付いているというのはあきらかに異常だ。
そこでそのアウターをくまなく見たところ、いきなり四匹の存在を発見した。
もう「うわああ」と叫ぶしかない。
そして叫びながらも処理するしかない。
そんなこんなでアウターを検分していき、たぶん計十匹までは発見し、とうとうそれを見つけてしまった。
冒頭に書いたあれである。
長方形のパイのような、あれ。
縦二センチ横一センチくらいだったか。もう記憶が定かではない。なぜなら見つけてすぐに急いでティッシュではがして捨てたからだ。
だが、その中央が破れていたのは今でも覚えている。
もうそれだけで分かってしまった。
あれは卵の殻だ……と。
そう悟った瞬間、アウターをまるめて袋に詰め、密閉しゴミ箱へと入れていた。
洗えば使えるのは分かっているが、もうこれ以上あの胡麻そっくりの虫を探したくもないし、付着したままの可能性のあるそれを洗濯機に入れて洗いたくもなかったのである。
そこで一つピンときた。
実は約二週間前、我が家に初めてゴキブリが出現したのである。
我が家はそれなりに新しい物件で、しかも三階にある。
それなりに高層ともいえる。
当然、これまでゴキブリの姿をみたことはなかった。
まれに、数年に一回程度、共有の廊下等で偶然見つけることがあるくらいで、それは致し方のないこと、だが我が領域内では見たことはなかった。
住処になる理由がまったくなかった、とも言っておく。
一応きれいに住んでいる(つもりだ)。
が、二週間前にそれが一匹、我が家に突如あらわれた。
推測するに、ドアを長い時間開けている隙をついて、そいつに侵入されてしまったのだろう。入ろうと思えば入れる隙を与えていたのは痛恨のミスだ。
だが悔いたところて仕方なく、その成虫が我が家に侵入した事実は変えようがない。
初めて見つけたときは本当に驚いた。
なぜここにいる。なぜ我が家に。
そいつはさささっと寝室にしている暗い部屋へと逃げていった。
繰り返すが、我が家はそれなりに新しい物件で、しかも三階にある。
だからゴキブリはもとより蚊に悩まされることもなく、当然、害虫に対抗するための諸道具を何一つ保有していなかった。
だから次の日、会社帰りに薬局により、色々と購入した。
床に設置しておびき寄せるタイプのもの、それにスプレータイプのもの。
それらを入手したことでひとまず満足した。
今思えばこのとき本気で駆除に乗り出すべきだったのだが……。
知らないということは人を油断させる。
約一週間後、二度目の再会を果たす。
ふてぶてしくも逃げようともしないそいつに、スプレーが効果をあげた。
事件は終焉を迎えたと思った。
なぜなら我が家にはその害虫が住まう理由がなく、そいつさえ駆除すれば他にいるわけがない、そう思っていたからだ。
そして今日。
まさかの再会を果たす。
いや、実際は違っていて、その子供との初対面だ。
アウターを処分してすぐに図書館に行き、子供向けコーナーへと直行した。そこには子供の好きな昆虫関係の棚がある。そしてそこには予想通り、「ゴキブリ」という分かりやすいタイトルの分かりやすくまとめられた図鑑があった。
ページをめくり、頭がくらくらとした。
やはりあの胡麻のような虫はゴキブリで、あのパイのような形のものはゴキブリの卵の残骸だったのである。
そこからは恐ろしい記述ばかりが羅列されていた。
パイ型の卵の中には二十から四十の幼虫が入っているらしい。
ということは、今日始末しただけでは足りないということか?
まだ我が家には残党がいるというのか?
しかもだ。成虫は卵を七日から十日に一回産むらしい。あの二十から四十の子供が詰まっているあれを、際限なく。確か活動が鈍る秋までだったように思う(が、もうその真偽を確かめる気力はない)。
ということはあれか。
我が家にあらわれたあの成虫、確率的にはもう一つ卵を産んでいてもおかしくないということか?
ちなみに生まれたての幼虫の色は透明系らしい。
だが見つけたものは黒かった。胡麻のように。
ということは、あれは生まれてしばらくたった奴らだということか。
他にもあるかもしれない卵から、透明系の幼虫がわらわら湧いてくるかもしれないということか?
ゴキブリは生涯で九回近く脱皮しながら大きくなるらしい。
最後の方の脱皮の写真は、もう本当にセミのようだった。
四、五センチある脱皮した殻が我が家から見つかるようなことがあったら、もう……。
あとは蛇足になるが、ゴキブリはなぜか仲間同士で共に過ごすと大きくなりやすい性質があるそうで、だから一緒に行動していることが多いらしい。なるほど、だからアウターにあれだけの数がくっついていたわけだ。
また、ゴキブリのフンには仲間を呼ぶ習性があるそうだ。しかしフンは素手で触ると菌が付着するのでよくないとか、間違って吸うと同様によくないとのこと。もし見つけたら気をつけるべし。
図書館から戻り、落ち着いて問題のアウターのあった部屋を調べると、フンがいくつかと、あの胡麻のような幼虫を一匹発見した。アウターをかけていたポールから最大で三メートル離れたところだった。
……ということは、このポールの四方三メートルは危険地帯ということか?
それからこの危険地帯を一斉に掃除したのは言うまでもない。
これからもしばらくはゴキブリのことで頭を悩まされる日々だろう。
前述したとおり、今日はこれだけでひどく大変な思いをした。早急に平穏な日々に戻りたいと切に願う。
だが、一つだけいいことがあった。
それは会社で起こった嫌なことが私の中から薄まったということである。
先週末、会社で本当に嫌なことがあり、もうどうしようもなく胸がむかむかとしていた。色是即空ともいうように、物事は考え方によって成るもので、捉え方次第でどうとでもなる。……ということは分かっているのだが、頭の中がどうしてもそれを思い出そうとするのだ。人は嫌なことを思い出して刺激を欲しがるものだという。嫌なことでもいいから刺激を欲してしまうのだそうだ。
その人間らしい特性のおかげで、私は昨日とそして今日をむかむかとしながら過ごしていた。
が、ゴキブリ事件によって、ゴキブリに頭を支配されてしまって、処理が落ち着いた頃には、すっかり心が落ち着いていたのだ。
いや、ゴキブリの件は今後も注視していく必要があり、正直に言えば心は今もざわめいている。だが、この週末からのあの嫌な心の重しはだいぶ軽くなっていた。
悩んでいるとき、その黒い心に少しでもいい、白に戻るための一滴が入ることが必要だと、自作の小説の中で記述したことがある。だがそれが難しいことはよくよく分かっている。それが、今回はこの事件が貴重な白の一滴となった。
長方形のパイを一生食べることはできないような気もするが、この件だけはゴキブリに感謝できる。明日会社に行って、もし嫌なことがあっても、つらつらとゴキブリのことを思い出して乗り切れる自信もある。
だけどもう絶対に成虫は出てくるなよ、卵も出てくるなよ、と思うが。
すごくどうでもいい話におつきあいくださりありがとうございました。