面白さと科学的に向き合ってみる
面白いって言葉って使えないって考えた事がある人ってそれはもう現代の漫画アニメラノベなどの物語論に突っ込んでいると思います。面白さとは人それぞれで違う。これによってまずスタートすると思います。ただこれは私は一昔前の考えだと思います。これは絶対的な面白さを破壊してより深い物語への理解へと繋がったのですが、大きな問題を生んだと思っています。それは人と人が互いに面白さについて語り合う機会を壊してしまった事じゃないか?と私は思っています。そこから一歩進もうと私は考えました。
面白いって言葉が悪いんじゃないか?とまずは考えました。面白いって言葉は的確なのか?そう考えると面白いは作品への感情を語る適当な便利ワードでしかないと分かりました。面白さを直接図るには面白い、面白くないの0、1のデジタルな数値化と後はすごく面白いを図るための1の細分化が重要だと考えました。面白いから面白くないを1~5の段階評価するなどです。
なろうの評価はどう扱えば良いか?はかなり困ります。評価する時1は最低なのか?なら評価する自体ですでに面白かったのではないか?と考えてしまいます。これはちょっと扱いにくいです。言葉で明確にすごく面白い、面白いなど区別するべきでした。1が何を表すか?分からない。だから安直に5を入れてしまう人が多いのではないか?と考えています。
後はこれらを集計してランキングにする事ですね。面白さは定量的に扱える。私はそう思っています。
ただこれは面白さを細分化しない人向けです。感動したとか笑えたとか具体的な言葉で感情を表せるなら、面白さは質が違うから定量的に扱え無い事になります。私はランキングでは評価できない面白さってあると思っています。そのフォローとしてレビューがあるんでしょうね。
では面白いと言う感情は無いのか?私はあると思います。面白いは様々な感情を複合的に纏めた言葉。これ以外にそれらの元になった純粋な面白い感情があると思っています。面白さとは奇異なもの特徴的なものに惹かれる心のありようじゃないか?と考えています。面白さを緩く言い換えるなら興味深いだと思います。注意を引き付ける対象を見たときに発生する言葉だと思います。故にもっと様々な感情を含みます。奇異よりも特別なものに対する感情の方が相応しいと思います。
こういった感情が優れたものにひきつけられる感情となり面白いが評価そのものを示す言葉になったんじゃないか?と考えています。
なろうのランキングは面白さを示しているか?なら。面白さの感情を細分化し無い人には示してると思います。または注意を引くような物語を特に好む人には直接的な感情を示してると考えています。
じゃ面白さとはじっくりと物語を観察して考察するような人には相応しい感情ではないか?と言うと違うと思います。考察できてる自己満足に陥ってる人にはと注釈をつけることになります。そこでスタートに書いたラノベなどの物語論は特別であるべきだと考えています。リアリズムの視点が緩いのに刺激を受ける作品は詳細な感想が書きにくい。
私はリアリズムと言うのはこの世界を書き表すルールだと思っています。だからそのルールから外れたものをどうやって言語化するのか?となる多分まともに出来ないと思っています。ラノベなどに対する感想を一般小説の様な物語への感想と同一視すべきじゃないと思っています。
ラノベなどの面白さは一人の読者がどう感じるか?よりも多くの読者に受けたいと思って書かれています。目的がしっかりあるのだから、それにあわせて数字によって集計して定量的に判断したほうが良いと思っています。読者がそもそも放棄してるし、細分化する事にあってないのだからわざわざ詳細な感想によって評価すべきじゃない。
面白いは細分化できる作品と、そもそもそれがやりにくい作品があり、その基準はリアリズムにあると私は考えています。作品を組み立てる側のロジックと受ける側のロジックって基本的には同じです。面白さの感情を細分化しにくい作品はロジカルに作りにくい。そういった作品に対する感情は当然理路整然とされたものじゃない。作者だって何やってるか?わかりにくい作品は当然読者も分かりにくい。
じゃ何故面白さを細分化しにくい作品の方が読みやすいと言われるのか?と言うと意識的に頭の中で言語を整理する処理をあまりしてないと思っています。そうじゃなくても楽しめるような作品。快不快の感情だけは残るけど、あとからそれを言語によって整理しようとすると上手く表現する事が出来ない。
無理にラノベの感想なんて書かなくて良いですから。面白い面白くないの2択から始めましょう。詳細な感想なんて基本書き手の自己満足の妄想の羅列だと笑って突き放せばよいです。数値で表される物語への感情それはラノベにおいて正しいと私は考えています。