斬
社長夫人は、昨夜の夫婦喧嘩で夫の投げた炊飯器が頭に当たった後に気絶し、死んだと勘違いした夫に車の後部トランクに体を押し込められた。
気絶から覚めて、暗く狭い空間でぼんやりと現状を把握しようとしている時、突然腰から先が胴体から離れていく。
腰の横断面は、鋭利な刃物で斬られたように真っ直ぐで綺麗だった。
同じように縦半分に斬られた車の断面と一緒に、腰は向こう側へ倒れていった。
────妖包丁“村誤”
大きさ形や色は何処でも手に入る一般の包丁と区別がつかないが、羽のように軽く、
「豆腐の上に並べた釘を、無抵抗に切断できた」
と、古文書に記録がある。
この幻の妖包丁が数百年ぶりに確認されたのは、某国北方の湖に隣接する水産加工場だった。
超高級外車で通勤する社長が経営し、敷地内には社長自慢の高級錦鯉が泳ぐ大きな池もある。
だが、加工場は対照的に錆が目立つ古びた建物で、今にも倒壊しそうであった。
その加工場で働く従業員達の中に、丸太のような太い腕や脚で機敏に立ち回る、妖包丁の持ち主のオバチャンがいた。
普段は優しい巨太な彼女も、包丁を握ると殺魚鬼モードに入り、誰も近づけない恐怖の存在となる。
時折、魚をさばいている包丁が手から滑り飛び、周りで作業している従業員の頭に刺さる事もあった。
その時のオバチャンは、仏様のような笑顔でスッと包丁を頭から抜き、嘗めてぬらぬらと照明に反射する、指に付けた唾液を傷口に塗りつけて、
「ごめんねええ(てへぺろ)」
と、無邪気に謝る。すると、被害者は何も言い返せなくなるのだ。
───傷口は1年も過ぎれば自然回復し、傷跡も残らない
従業員達の誰もが、この不思議な包丁の切れ味に憧れを持ち、使ってみたいと考えてオバチャンに様々な条件で交渉してみるが、今まで首が縦にふられた事は無かった。
ある日、ここで働き始めて数十年間1度も休んだことのないオバチャンが、私用で1日だけ有給をとる話が浮上する。
誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰るオバチャンに、他の従業員達が渦中の包丁を手に取る隙は全く無かったが、この日は誰もが、
────包丁を使う機会が巡ってきた
という感情を抱いた。
当日の朝。いつもより1時間も早く職場に集まった従業員達は、最年長者の利き手に握られ高々と掲げられた包丁に視線を集めていた。
その包丁が、まな板の上に横たわる高級錦鯉に向けられる。切っ先が僅かに震えていた。
いつも以上に眉の間にシワを寄せ、深く息をゆっくりと吸い、呼吸を止めて包丁の震えを止めると、最年長者は静かに鯉をさばいていった。
───張り詰めた空気に、誰も声が出せなかった。
ほとんど時間を掛けずに鯉をさばき終え、包丁を洗ってまな板の隅におくと、大きな息をひとつ吐きだして、
「……切れ味が凄すぎて、力加減が難しい。恐らく、指が落ちても気付かない。」
と言い、近くにあった木の椅子をギギッと足で引き寄せて腰掛けると、疲れたのか目を閉じて暫く動かなくなった。
その様子を見て興味を持った入社3日目の新人が、口の中のガムをクチャクチャと噛みながら名乗りをあげて、まな板の上の包丁を掴んだ。
新人は、軽さに驚きながらも落ち着いた様子で、別のまな板の上に横たわる巨大鯰の頭と胴体を、包丁で躊躇なく分断した。
だが、力加減を無視された包丁は、巨大鯰だけでなく下のまな板をも分断し、更にその下の作業台をも真っ二つにし、新人の履いていたゴム長安全靴の先に刺さって勢いを止めた。
新人は、V字に割れた作業台の真ん中で、立位体前屈の姿勢のまま、暫く固まっていた。
───周りの従業員達から、冷やかしの歓声が上がる。
新人は長靴から包丁を抜くと、半ギレして急に後ろに包丁を放り投げた。
幸い、新人の後ろには誰も立っておらず怪我人は出なかったが、放り投げられた包丁は、ひゅるひゅると縦回転したまま工場の窓ガラスを貫通して、外へ飛び出ていった。
あわてて他の従業員達が外へかけ出してみると、外の駐車場に止めてあった社長の超高級外車が、飛んでいった包丁に斬られ、縦に真っ二つに割れていた。
その斬れ味を見て目を輝かせた従業員達は、その超高級外車を的にして包丁を投げ楽しむ事にした。
───日頃のうっぷん晴らしである
投げられた包丁が、モーゼの分けられた海のように超高級外車を心地良く縦に斬っていく。ただ、勢いを考えて投げないと何処までも障害物を切り抜けて飛んでいく事を学習し、従業員達は力加減には慎重になっていた。
だが、後から来た新人がノリで投げた時、包丁は会社の敷地外に飛び出し、電柱1本を斬り倒して辺りを停電させた。
慌てた新人は包丁を急いで回収してくると、犯人が特定されるのを恐れるあまり、細切りの超高級外車を包丁で“みじん切り”にして証拠隠滅を図る。
そして、倉庫から持ち出して来たスコップで超高級外車の粒々をザクッとすくうと、敷地内の池へ不法投棄し始めた。
仕方なく他の従業員達も手伝って約2トンの残骸で池を埋め終えると同時に、目覚めた最年長者が、開けた窓から朝礼招集の号令をかけ、従業員達を屋内に呼んだ。
暫くして、警官達が停電の事情を伺いに加工場を訪れた。従業員達は、何を聞かれても口裏を合わせて、知らぬ存ぜぬで押し通した。
────次の日の朝。
オバチャンは、誰よりも早く工場に来ると作業服に着替え、いつもと変わりなく自分の包丁を研ぎ始めた。
(いつも死んだ魚の血ばかり吸わせてゴメンね)
(今日は随分ご機嫌だねえ)
(また好物の人血、吸わせてあげるからね)
(ふふ、ふふっ)
やがて、研ぎ終えた包丁をうっとりと眺めると、周りを見て誰もいないことを確認し、自分の長い髪の毛を1本抜いて、まな板の上に伸ばして置いた。
それを研いだばかりの包丁で、高速で輪切りに刻んでいく。
オバチャンは、利き腕の感覚を確認すると包丁の切れ味に満足し、まな板を洗いながら、ちょうど工場に出勤してくる従業員達に笑顔で挨拶していた。
この日、社長は会社を無断欠勤したが、誰も気にしていなかった。
数日が過ぎて、オバチャンに対して新人が頭を下げてきて、
「技術を教えて下さいっ」
と、頼んできた。
オバチャンは快諾し、自分の包丁を貸し与えた。
新人は、指や腕や首を誤斬しながらも技術習得に努めた。
ただ1度だけ、怒られたことに腹をたて、わざとオバチャン目掛けて包丁を滑り飛ばしたが、何故かオバチャンに包丁は刺さらず、コツンと音をたてて包丁を弾き飛ばした。
新人は恐怖した。