9、二人の敗残者
着地したユアンを迎えたのは、毛並みの揃った絨毯と生ぬるい空気、暗がりの中に蠢く二つの人影だった。
アリアが状況を掴むために放った閃光が、一瞬その姿を照らしだす。髪を腰まで垂らした女のような男がベッドに寝そべり、その上に太った女がまたがっている。
閃光で目が眩んだ二人は一瞬動きを止めたが、すぐにベッドから転がり降りた。ユアンに向かってきたのは、男ではなく女だった。ユアンにはわからない言葉で喚き散らしながら、太い両腕を伸ばしてくる。ユアンは体勢を低くしておもいきり女の足を払った。体重はあるが、戦士の体つきではない。痛みにも慣れていないようで、それきりすねを抱えてうずくまってしまう。
男はユアンに向かってこようとはせず、女をかばうこともなく、灯りをつけようともしなかった。ただ立ち上がって、ユアンの方をじっと見つめている。
「あんたが、ナスカか」
男の裸は引き締まっていて、構えてこそいないが、隙が少ない。身長はユアンよりも高く、洞窟まで辿り着いたゲーレンにふさわしい体つきと言えた。
「ゲーレンには、二種類いる」ナスカは鈴のような軽やかな声音で言った。
「汎用語を子孫に教える部族と、教える手間を惜しむ部族だ。前者は再びエラを勝ち取り、他のエランたちと交流することを諦めてはいない。一方後者は、子孫が奴隷になることを嫌い、意思の疎通すら図れぬほどの野蛮さを持って育てる。たいてい、どの部族も、最後の世代を迎える頃には、後者になっているものだ」
ナスカはゆっくりとベッドに腰かけた。
「君はノックもしない野蛮な男だが、きれいな汎用語を使うね。あるいはゲーレンではなくエランなのかな。冒険好きのエランの王子、珍しい話ではあるが」
「あいにく、ゲーレンだ」とユアンは答えた。「相応に野蛮な育ち方をしている」
「せっぱつまってなければ、森を捨てやしない、というのは分かるよ」
ナスカは背筋を曲げ、顔の前で指を組んだ。ユアンにはその落ち着きぶりが異様に思えた。――奇襲、ではあったはずだ。
「先ほどの光」ナスカは独り言のようにつぶやく。「およそ覚えのない技だ。何か道具を使ったのかな? だとすると、きちんと準備をしてからここにきた、ということになる。その割に、襲いかかってはこない。巨躯のビオネスタ嬢の突進も鮮やかにさばいてみせた。弱いわけでもない。――つまりは、敵意はない」
「まあ、そんなとこだな」
ユアンは回りくどさに呆れながら、息を吐いた。「草原エルフの猿マネしてる連中を除けば、他の部族のゲーレンとまともに話すのは初めてなんだが。みんな、あんたみたいなノリなのか?」
「さあね。ゲーレンに、みんな、なんてくくりは、意味がない」とナスカは答えた。「ともかくそこで待つといい。灯りをつけ、ビオネスタ嬢の手当もしなければならない。骨は折っていないだろうね」
「大げさに痛がってるだけさ」
「それなら、面倒がなくていい。しばらくそこで待っていたまえ」
ナスカはそれきり、ユアンのことなど忘れたように、裸のまま女を抱え起こして、垂れ幕で仕切られた隣の部屋に連れていった。ランプを灯したのか、ぼんやりとした明かりが漏れてくる。女はひっきりなしに何事かを喚き始めたが、ナスカが穏やかな口調で答えるうちに、それにつられるように静かになった。
『思ったよりもおもしろそうな男じゃないか』とアリアが言った。
『思考力がありそうだ。一瞬で部屋に転がり込んできたのがエルフだと見切った。君も学ぶべきところがあるんじゃないかい』
――どういう意味だ。
『君の本質には退廃的なところがあるからね。物事を理解しようとする熱意に欠けている。分からないことをそのままにしすぎるきらいがある』
――知ったことか。
おとなしく待っているのも馬鹿らしかったので、ユアンは暗がりの中、武器になるようなものを探して部屋の中をうろつき回った。ベッドの奥に、用途のよく分からない細長い針が何本も束になって置いてある。他には、机の棚にナイフが一本。使えそうなものはそれぐらいだった。机の上には皮紙の束、壁一面の棚には薬草の標本や薬瓶が幾つも並んでいる。
どうやら医者というのは間違いではなさそうだった。
体を売っているというのも、間違いではないのだろう、とユアンは踏んだ。純粋な情だけであの脂肪の塊を愛するエルフがいるはずもない。
「驚いたな……」
ナスカには、耳がついていた。つまりエランの奴隷ではない。体を売り始めたのは洞窟にたどり着いてからのことだろう。
そこが、ユアンには理解できなかった。体を売ることに抵抗がないのなら、エランの奴隷としてエラに入る道もある。その方が楽だったはずだ。エランの追撃を振りきってこの山まで辿り着くのは、簡単なことではない。戦士としての挟持があるからこそ、弓矢をかいくぐることができる。――そのはずだ。
自らの支えであったはずの挟持を、捨てたのか?
この山で? ――ドワーフ相手に?
考えれば考えるほど、ナスカという男が恐ろしく思えてきた。
「自分を曲げるにも、程がある」
程なくして戻ってきたナスカは、部屋の二箇所のランプに明かりをつけた。いつの間にか服を着ている。ドワーフや蜘蛛使いたちと似たような赤い服だが、丈はきちんとエルフの長身に合わせてある。茶渋に染めた帯を締め、靴は草を編んだ簡素なものだった。エランの室内履きに似ている。
「君の名前は?」
明かりの中で見たナスカの顔は、思っていたよりもやつれていた。特に頬と顎にかけては一切の肉のたるみがなく、頬骨が少し浮き出ている。穏やかな目つきに、薄い眉。広い額には斜めに傷が走っていて、左の首筋にも別の傷跡がある。刀剣で切られたものだろう。
「ユアン」
「ここへは、ミラ嬢の紹介できたのか?」
「まあな。言伝てがあると言われてきた」
「――彼女にも困ったものだね」とナスカは苦笑する。「それで? ただでお使いを引き受けたわけじゃないだろう」
「俺もミラも南へ行きたいのさ。ミラは道を知っているという。本当かどうか、ともかく探ってみたくなってな」
「ユアン、君はずいぶんと向こう見ずだ」
ナスカは、口元を綻ばせる程度の、礼儀にかなった微笑を保っている。
「エルフの年というのはわかりづらいが、それでも、君がずいぶん若いエルフだ、ということは、察しがつく」
「あんたの察しはつかないな。いったい幾つだ」
「さあ、数えることはやめてしまった。それでも、ずいぶん長い間、ここにいるのは、確かなことだ」
ナスカはつかの間、目を閉じた。
違う部族のエルフと語り合うということに慣れていないユアンには、その隙が気になって仕方がなかった。他のエルフの前で、目を閉じる。――信じられないほど、惰弱な行為に思えてしまう。
「戦士であることを、やめたのか」
「……ふふ。そうか。目を閉じるだけで、そこまで。君の野蛮さは素晴らしい出来栄えだな」
ナスカは小さく頭を振ってから、首筋の傷を抑えた。
「見ての通り、私は一度死んでいる」
「死にかけた、だけだろ」
「まあね。しかし、経験というのは生き物を変えてしまうものだ。君にも覚えがあるだろう。何をきっかけにして森を捨てたのかは知らないが、君も一度、諦めた」
「……ああ」
ユアンは平静を装いながらも、自分の動揺に苛立った。
「君と力くらべをするつもりがないのは確かだ」とナスカは言って、ユアンが開けっ放しにしていた、飼育穴へと通じる扉を閉めた。両手がふさがり、隙だらけ。――本当に、気にしちゃいないのかと、ユアンはやりにくいものを覚えた。
「むしろ好意的なものを感じているよ。今まで洞窟の入り口にたどり着いたゲーレンは何人もいたけれど、みな、殺し合いを選ぶからね。まっすぐに。自分の力と勇気を信じて――。君のように回り道をして、僕の部屋まで辿り着いた若者は初めてだ」
「馬鹿に、しているのか」
「いいや、感心している。先の見えない戦いに踏み出すことを躊躇する。それは賢いということさ」
ナスカは再びベッドに腰掛けた。
「お茶は出さないよ。どうせ飲まないだろうからね、戦士くん」
ユアンはナスカの曖昧な微笑み――、どうなってもいいというようなその笑い方が、癇に障った。
「喧嘩したいんなら、してやるぜ」
「お好きにどうぞ」
ユアンは絨毯を蹴り、座ったままのナスカに正面から殴りかかった。左拳でフェイントをかけてからの顎を狙った右拳、ナスカはそれを手の甲でいなし、顔からそらすと、ユアンの伸びた腕を掴んでベッドの上に引きずり込んだ。構わず飛び込んでいったユアンは肘を曲げてナスカの首に体重をかけたが、ナスカは腕でかばいながら体をずらし、その肘をねじり上げていく。焦ったユアンは力ずくで体を起こそうとしたが、ナスカは拳骨でこめかみを何度か殴りつけ、ユアンの力が抜けたところで、完全に腕を極めきり、その背中にまたがった。
「体術も筋力も、まだまだ甘いな」ナスカの指がユアンの首筋を這う。「どうやってエランの追撃を逃れたのか不思議なほどだ。なんなら、私が稽古をつけてやろうか」
背筋をなぞるナスカの指の感触。激高したユアンの体に熱がこもり、青白い光が迸る。
ナスカは何を考える間もなく脊髄反射で手を離し、空気にこもる熱に押し出されるように、部屋の端まで飛び下がった。
『やめておけ、ユアン』
ナスカに《漂泊》の光を向けようとするユアンを、アリアが止めた。
『私の力で彼を殺したところで、君の負けだ』
ユアンはしばらく動くことができなかった。屈辱と怒りが全身に満ち、行き場をなくした青白い光が血流と混ざり合い、心臓が鼓動するたびに跳ねまわる。発する高熱は着ている毛皮とベッドを発火させ、あっという間にさらさらの炭に変えてしまった。
『君の負けだ』とアリアは繰り返すが、その口調は忠告とは呼べなかった。無意味さを指摘する、ただの皮肉だ。
ユアンの体から完全に熱が引くのにはそれから十分ほどもかかった。ナスカはその間顎に手を当てて何かを考え続けていた。
「いいぜ」
たぎるような怒りを文字通り燃やし尽くしたユアンは、いつもの調子で、自分から口を開いた。
「喧嘩は俺の負けだ。負けたからって何も払う気はないがな」
「家具代は弁償してもらうよ」とナスカは答えた。「焦げた臭いを紛らわすのに、香草も必要だ」
「何も払う気はないが、敬意はべつだ」裸のユアンは肩をすくめた。「組み合いの腕だけは認めてやるよ。剣を持ったら俺が勝つけどな」
「――さっきの力のことだが」
ナスカは声を低くした。「何処で手に入れたんだ」
「欲しいのか?」
ユアンはなりゆきに驚いた。精霊の情報が取引の材料に使えるとは、今まで考えたこともなかったのだ。
「まずは、知りたいな」ナスカは否定をしなかった。「いいだろう。ミラ嬢から何か言伝てがあるなら、話してくれ。君たちが南へ行くために、できうる限りの善処はしよう」
「……話が進むんなら、何よりだ」
ユアンは怒りが燃えた後も胸中に残る悔しさを振りきって、ようやく、ひねられた方の腕に込め続けていた力を抜いた。