3、《漂泊》の力
「ここは……?」
壁面に雪も積もらないほど外側に反り返った赤い崖が幾つも立ち並び、その上に木とも土ともはっきりしないねずみ色の家々が建っている。屋根の上で雪下ろしをしている人影も何人か見えるが、種族までははっきりしない。ユアンはエランの物見のような遠目の術を身につけてはいなかった。
気を失った少女が残した雪の跡は、崖の真下で途切れていた。ここからどうやって登ればいいのか、頭上を見上げても、そそり立つ崖はやすりで磨いたように滑らかだ。少女に聞こうにも背中で気を失っているし、無理やり起こしたところで喋れるわけでもない。
「誰か、下りてこれないのか」
大声で叫ぶと、雪下ろしをしていた人影たちが、蜘蛛の子を散らすように屋根の上から散っていった。
「怪我人がいるんだ、早くきてくれ」
シンと静まり返った山の上で、ユアンの声だけが反響する。
「まったく……」
登れない壁、返事のない人影。人の寝込みに忍び寄って勝手に死にかけている少女。
気安く無礼なひげ面たちとは一味違う面倒さだった。
「アリア、お前と契約してから、何一つ手応えってものがない」
ユアンは愚痴を言いながらも少女を雪の上に寝かせて、また手近な雪を噛み解かしては、口移しで飲ませて吐かせる作業を続けた。
『それが世間ということさ』とアリアは言う。
不意にめまいがして、ユアンは少女の傍に座り込んだ。少し眠ったぐらいでは疲れが取れていないようだ。
少女を近くで見ると、丁寧な三つ編みのおさげが目についた。誰か、編んでくれる人がいるのだろうか。首筋や鎖骨周りは心配になるぐらい痩せているが、毛糸で編まれた手袋や、きちんと大きさの合っている革靴を見るに、大事に育てられてはいるようだ。
「誰かいないのか、今すぐこの子を迎えに来い!」
ありったけの声を絞り出してもう一度叫ぶと、少女がうっすらと目を開け、ユアンを見つめた。
目尻から涙がこぼれ落ちていく。毒の大半は体の外に出たはずだが、息を吸うと痛むのだろう、浅い不自然な呼吸をしている。
「喋るなよ」とユアンは首を振った。「本当なら、もっと大量の水で洗わないといけないんだ」
「あ……う……」
少女は口を開こうとする。ユアンの言葉が聞こえていないのか、それとも――
「汎用語が通じないのか」
ユアンはこめかみを押さえて、通じないとは思ったが、エルフの古語でも話しかけてみた。
【喋るな】
「……あ」
【通じないんだ、喋っても無駄だって、分からないのか】
ユアンはまた手近な雪をかき集めて、口に含んだ。何度も繰り返したせいか、頬も舌も冷たさでしびれている。
「あ……は……」
何かを懇願するように必死で喋ろうとする少女を、口づけして止める。少女は弱々しくも舌を動かして抵抗したが、ユアンにとっては邪魔くさいだけだった。首ねっこをひっつかんで無理やりに雪を流し込んでいると、ふと、背後で木の葉が舞い落ちたような、小さく乾いた音がした。
とっさに振り向くと、異様な生き物がそこにいた。
体高はユアンの二倍ほどもある。全身は黒い体毛でびっしりと覆われ、柱のように太い脚は見える範囲だけで六本以上付いている。脚の先にはするどい爪、胴体の正面には大きな牙のついた口。
これが何かは分からないが、肉食であることだけは分かる。ユアンは立ち上がって剣を抜き、少女の前に立ちふさがった。
「アリア、なんだこいつは」
『一口に説明すると、蜘蛛、ということになる』
「その蜘蛛とはなんだ」
『大きな虫さ』
「くそ」
ユアンは剣を構えて一気に間合いを詰めた。苛立ちと疲れ、背後の少女の存在が、他の選択肢を削っていたのは確かだ。しかし、正体不明の相手に不用意な選択ではあった。
突如として蜘蛛の口から吐き出されたねずみ色の液体を、ユアンは躱しきれずに剣で防いだ。剣と服に降りかかった液体は、粘性のある糸になってまとわりつき、いくら引っ張っても剥がれない。
ユアンはようやく蜘蛛という存在の骨子を悟った。この糸で捕まえた獲物を、爪で押さえて牙で噛み砕く。エルフと同じ、狩人なのだ。
「アリア、《漂泊の力》を使うぞ」
『構わないが、ここで使うと後ろの娘も死ぬよ』
「俺が喰われるよりマシだ」
ユアンは剣を手離し、全身の力を抜いた。蜘蛛に引きずり倒される間際、目もくらむような青白い閃光がほとばしった。
ユアンの体が閃光の中に溶ける。同時に、閃光が生き物のようにうねって分かれた。指向性を持つ無数の細かい矢となって、蜘蛛の口と胴体、それぞれの脚に突き刺さっていく。
『解放、してやる』
何処からかユアンの声が聞こえた直後、蜘蛛の体が内側から膨れ、爆風と共に弾け飛んだ。血煙が蒸気のように辺りを覆い、肉の焦げた臭いをまき散らしていく。
ユアンはいつの間にか人の姿に戻り、少女の体に覆いかぶさって、肉片が彼女に振りかかるのを防いでいた。着ていた毛皮も靴も焼け、裸になってしまっていたが、《未到の力》によって、焼け焦げた肉片の雨はユアンの背中まで届かない。空中で不自然に静止したままだ。
『やるじゃないか、光の方向を操縦したのか』
アリアはいつになく感情を乗せた声でそう言った。
『やはり君と私は相性がよい』
「後ろが気になっただけだ」
ユアンは腕の震えを押さえながら、少女を見つめた。
「見ての通り、服もなくした。上の人里までどうしてもたどり着きたい。お前はこの崖を、どうやって上り降りしたんだ」
少女はユアンから目を反らし、顔を赤らめて、首を振った。
「……ダメか」
ユアンはため息を付いて、雪の上に寝転がった。肌を刺すような冷たさも、頭上に見える人里も、一度寝転がってしまうと、どうでもよくなってきた。
「城壁……なるほどな。崖と蜘蛛と、馬鹿みたいな高さ。まだこの城は健在ってことか。お前らが城を守ってるんだな。エルフが森を守っているように」
「少し待て、今降りる」
頭上から老人の声がした。
よく目を凝らすと、崖に蜘蛛が一匹へばりついていた。その背中に人影がいる。
蜘蛛は口から糸を吐き伸ばしながら、崖をふわりと跳ね降りてきた。体重すら感じさせない静かな動きは、体の大きさから考えると信じられないほど抑制が利いていた。虫にも知性はあるのだろうか。
蜘蛛はユアンと少女の目の前に降り立った。
「その娘をこちらに乗せろ」と老人は言う。頭に毛は一本もなく、着古した赤服は色あせている。やはり、彼も痩せていた。ぽきりと折れてしまいそうなほど、首と手足が細い。
ユアンは少女を抱き上げて、粘液まみれの剣を一瞥したが、そちらは諦めた。
蜘蛛に飛び乗ると、裸の足の裏に蜘蛛のしめった体毛がふれて、鳥肌が立った。上から見ると、大きな脚が八本。それだけではなく、脚と脚の付け根にも短い触手のような脚がびっしりと生えているのが分かった。
「薄気味悪い生き物だな」
「お前は降りろ、よそ者よ。蜘蛛が這い上がるには重すぎる」老人は苦いものを噛むような顔をした。
「それは絶対にごめんだ」ユアンはしゃがみこんで老人を睨みつけた。「凍えそうで気が立ってるんだ。口論する時間もない。この子の喉にエラの毒が入ってるんだ。さっさと洗い流さないと喉が溶けちまうかもしれないって言ってるんだよ」
「ならばお前が降りろ」老人は頑固に言い募る。
ユアンの我慢の糸が切れた。老人の胸ぐらを掴んで蜘蛛の上から投げ落とす。蜘蛛が異変を察知してもぞついたが、背中を蹴り飛ばすと大人しくなった。
「おい、起きてるな」
ユアンは少女の頬に手をふれた。
「あ……」
「喋らなくていいと言っている。いいか、お前が蜘蛛を動かすんだ。できなけりゃ、お前は毒で死ぬし、俺は凍えて死ぬ。分かるか?」
少女は不安げにユアンを見つめたが、やがてゆっくりと蜘蛛の脚の一つに手を伸ばし、三度小指で弾いてから、二度撫でた。
蜘蛛は静かに回頭してから、崖を見上げて、その出っ張りまで一気に粘液を吐き、分厚い糸の橋を作った。その糸を口の中に引っ張り込みながら、音もなく登っていく。
「そういう仕組みか」
胃が浮き上がるような感覚がするほど、蜘蛛の上昇は速い。崖の突端までたどり着くと八本の脚でがっちりと捕まる。揺れらしい揺れはほとんどそれだけで、小刻みに脚を動かして体勢を微調整しながら、崖の上へと二人を運んだ。
ユアンが少女を抱えて背中から降りると、蜘蛛はまたすぐに下へと降りていった。老人を迎えにいったのだろう。
集落はユアンが考えていたよりも大規模なものだった。山肌をねずみ色の屋根がびっしりと覆っていて、かなり上の方まで人が住んでいるようだった。ところどころに撥ね釣瓶のついた井戸が見える。人影と同じぐらい蜘蛛の姿も目立っていて、道の真ん中を人や荷物を載せて堂々と闊歩している行列もあった。
「蜘蛛と、住んでいるのか」
ユアンはとりあえず手近な井戸に向かった。裸なこともあって、大勢の人影が遠巻きに見つめてくるが、近づくとみな逃げてしまう。
「誰か、服を持ってきてくれ。代価は後で払う」
ユアンは歩きながら、誰にともなくそう叫んだ。
「……っち。これじゃ晒し者だ」と愚痴ると、
『おもしろい男だよ、雪の上を裸で歩いてるんだから』
アリアは他人事そのものの態度で、からかった。