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2、汚れた毛皮

 

 エラから遠ざかっていくに連れ、エランたちの追撃は尻すぼみになり、パジルテ山脈の稜線がくっきりと雲を区切るようになる頃には、ユアンの周囲に静けさが戻った。

 ユアンの体に傷はなかったが、長剣は二箇所刃毀れし、敵の矢から滴り落ちた毒砂のせいで、束ねていた毛皮が汚れてしまっていた。

 虎、黒豹、熊、合わせて十二枚の毛皮は背負うには重たく、戦闘には邪魔。いっそのこと捨ててしまおうかとも思ったが、他に財産は何もない。

 無事に人里に辿り着いたら、ともかく幾ばくかの金を得て、ほんの数日だけでもいいから屋根のある家で眠りたかった。雪を踏みしめるたびにその思いは強くなる。弱気は薄れ、今度は一刻も早く毛皮を洗わなければという焦りが生まれた。雪ではなく流水で洗いたい。

「アリア、近くに川はないか」

『川が欲しいのなら谷間を目指して歩くことだね』とアリアは答えた。『まだ地下水が滲み出す季節じゃない。そんなことは君も知っているだろう』

「稜線に谷間が見つからないから訊いているんだ。パジルテ山脈ってのはなんなんだ、壁か? どうしてああも均等に、嫌がらせみたいにそびえてるんだ」

『元々あった山脈に、古代人(アーシ)が手を加えて城壁にしたそうだよ。その頃はまだ私も《指》ではなかったから、はっきりとした記憶はないけどね』

 《指》という言葉で、ユアンはアリアと初めて出会ったときのことを思い出した。巣穴で眠りこけていた熊を殺し、皮を剥いでいたときに、いきなり髪にさわられたのだ。

 振り向くと、見たこともないほど美しい、黄金の髪をした女がそこにいた。エルフのように尖った耳ではなかったが、麗しい顔つきとしなやかな体つきは、幼い頃に見た姉の姿にそっくりだった。

 今にして思えば、あの姿は罠のようなものだったのだろう。ユアンをひっかけるための、単純明快で、躱しようもない罠だ。契約してからというもの、アリアは何処からともなく声をかけてくるばかりで、一度も姿を見せようとはしない。

『稜線ではなく、山肌を見ることだよ』とアリアは言う。『壁のほころびからの湧き水が、いくらか緑を濃くしているはずだ。雪に隠れていたとしても、もう少し近づけば分かるさ』

「その少しが長すぎる」

『そう思うのなら休むといい。もうすぐ新たなエラの勢力圏に入る。そうしたらまた追いかけっこが始まるからね』


 半月後、新たなエランたちとの追いかけっこをどうにかこなし、パジルテ山脈に辿り着いた頃には、ユアンはすっかり疲弊しきっていた。腕に浅い傷が幾つか、右のふくらはぎもブーツ越しに少し切れている。背負子の紐も片方が切れかかっていて、毛皮にも一太刀振り下ろされたせいで、何枚か傷がついている。すぐにでも修復したかったが、パジルテ山脈の山裾に辿り着いたユアンを待っていたのは湧き水ではなく、でっぷりと太ったひげ面の男たちだった。

「止まれ」

 鮮やかな赤い服を着た二人が、小柄な体格に似合わない長い槍を交差させて、ユアンの行く手を遮る。そのすぐ向こうには大きな洞窟が口を開けている。漂ってくる唸るような風音からして、相当奥まで続いているようだった。

「血で汚れたエルフとは珍しい」と向かって右側の槍持ちが言った。エルフには出せないような低い音域の声は聞き取りにくい。

「お前たちは、何者だ」

 ユアンは誰何しながら彼我の戦力を確認した。槍持ちが二人、洞窟の岩肌から様子を伺っている弓持ちが三人。もう一人、奥の暗がりからこちらを伺っている男がいる。隊長格なのか、一際たくましい体つきをしていて、熊でも殺せそうな大斧を持っている。

「森から出てきたエルフはみーんなそう言うな。ともかくエルフなんてのは、何も知らんからな」と向かって左側の槍持ちが言った。

「御託はいい」とユアンは声を荒らげた。「この洞窟は山の向こうまで続いているのか」

「通りたきゃ通行料を払え」と右側の槍持ちが言う。「百リーゲル、ないしは五十キヌフだ。払うのなら、我らが地脈(カデルラ)での安全は保証しよう」

「リーゲル……?」

 生まれてからずっと森の中を彷徨っていたユアンには、貨幣の単位すら分からなかった。売買という行為に対する漠然とした想像だけで、毛皮を背負って旅をしてきたのだ。

「その汚い毛皮なら七十枚ってところだ」と右側の槍持ちが言うと、後ろの弓持ちたちがニヤつき始めた。

「そんぐらいじゃ足りないぜ。エルフらしく体でも売るってんなら通さないこともないがな」左側の槍持ちがそう言うと、今度は遠慮のない笑い声が、風の音と混ざって洞窟から木霊した。

 ユアンは少し顎を引いて、どう行動するべきか考えた。自分の中の、獣を狩るときに爆ぜるようなもっとも凶暴な部分が、押し通れと叫んでいる。毛皮を捨て、剣を抜き、エランたちと同じように巣にこもる無礼なひげ面たちを、根絶やしにしろと叫んでいる。

「受けた屈辱は晴らせ。何を犠牲にしても、どんなに困難でも。でなければ、生は苦痛だ」

 ――それが死んだ父の遺言でもある。

 しかし、素直に激情に身を任せるには、今の体は疲れすぎていた。真下からでは頂きも見えないほど巨大な山脈だ。洞窟がどれほど続いているのかも、何人殺せばいいのかも、定かではない。

『やれないことはないよ』とアリアが耳元で囁いた。

『今の君では無理だ。もっと私に体を明け渡すことだよ。そうしたらどんなに狭い穴でもくぐり抜けてみせるさ』

 アリアはそっとユアンの右腕にさわった。肌が粟立つ感覚が、ユアンにその選択を許さなかった。

 何も言わずに背負子を向けて歩み去るユアンの背中に、ひげ面たちの笑い声が粘っこくまとわりついた。


 洞窟から遠ざかったユアンは、山裾沿いをひたすら歩いて水場を探した。しかし、日が暮れる頃になっても都合のいい場所は見つからない。結局は雪を食べて、適当な木陰に座り込む他はなかった。

 座って一息つくと、空腹が気になって仕方なくなってきた。エランたちとの追いかけっこが始まってからは、ろくに獲物を狩る時間もなかったのだ。上着の裏に縫い付けてあった干し肉の備蓄も尽きている。せめて鳥の一羽でも飛んでいないかと空を見上げると、白く濁った雲ばかりが見えた。

 また雪が降る。眠るには都合の悪い天気だった。寒さに強いノースエルフでも凍死することはありえる。体力が尽きかけているときならなおさらだ。

「アリア、危なそうなら起こしてくれ」

『私は君の便利屋じゃないよ』

「俺に死なれたら困るんだろう?」

『さほどでもないさ。はぐれもののエルフが君だけってわけでもない』

「そうか。そんなら好きにしろよ」

 ユアンは毒で傷んだ一番上の虎の毛皮を引っ張りだして、それで体をくるんだ。

「結局、この一枚は諦めるしかないのか……」

 エランが戦争や手強いゲーレン狩りの際に使う毒砂は、エラが防虫のために幹の外皮に滲み出させる樹液を抽出し、それを砂と混ぜたものだ。泥状にして(やじり)に塗って使うこともあり、煙状にして吸わせることもある。傷口から体内に入ると全身の筋肉が痙攣し、呼吸ができなくなって死ぬ。吸うだけでも喉奥から肺にかけて激痛が走り、量によっては高熱が収まらずに死に至ることもある。

 アリアの加護によってユアンが毒に侵されることはないが、加護は毛皮にまでは及ばない。空中で静止した矢から滴り落ちる毒砂は防ぎようがなく、汚れた部分は明らかに変色してしまっていた。

「諦めるしか……」

 眠りに落ちる一瞬、自分が一体何をやっているのか分からなくなって、吐き出したくなるような後悔が胸の奥からせり上がってきた。

 父が言い残したように、復讐と戦争に生きるべきだったのだろうか。

 ――おそらく、それが正解だったのだろう。逃げもせず、逃がしもせずに、張り詰めた短い生を送る。勇敢で誇らしく、文句のつけようもない理想の生――。

 何故自分がそれを諦めて逃げているのか、そのくせ卑屈になりきれもせず、ひげ面にへりくだってでも中に入れてもらうことができないのか。

 ユアンは自分をうまく操縦できないことに呆れ、曲がりなりにもゲーレンとして百年を生き延び、たった一人になるまで理想を貫き通した先祖に詫びた。

『気にすることはないよ』とアリアは言う。

『君の一族は、君以外全員間違ったのさ。安息を得ようとしたがために、生を苦しみで彩り続けたんだ。何の意味もない車輪を回し続けた。徒労という名の車輪をね。それは漂泊するよりも、ずっとずっと、何の意味もないことなんだ』

 既に眠ってしまったユアンには、アリアの言葉は届かなかった。


 苦しみもがく声で目が覚めた。ユアンが飛び起きると、目の前で、見たこともない痩せっぽちの少女が喉を押さえて苦しんでいた。

「誰だ」

 少女は目に涙を溜めてユアンを見つめた。ひげ面たちと似たような、赤く染め付けた毛皮を着ている。見た目はまったく似ていないが、彼らと同種なのだろうか。

「あ……かひ……」

 声が出せないようだ。まさか毛皮に残っていた毒砂を吸い込んだのかとユアンは勘付いた。

「水がいる。水場は何処だ」

 少女は弱々しくユアンの頭上――山の上を指さして、膝をついて咳き込んだ。

「遠いのか?」

「……あ………か」

「くそ、大した量は吸い込んでないはずだ。気を強くもてよ」

 ユアンは少女を背負って駈け出した。山裾にたどり着いてみると、少女が上から降りてきたのだろう雪の跡がまだ残っていた。それをたどりながら、道々雪を齧って口の中で溶かし、少女に口移しで飲ませては、指を突っ込んで吐かせた。何度も繰り返すうちに少女は痙攣して血の痰を吐いた。毒と反応して腫れ上がった粘膜が、胃に落ちずにこぼれ出たのだ。

 これなら助かるだろうという手応えを感じながら、予期せぬ形で見つかりそうな水場の予感に、ユアンは心を踊らせた。

『君ってほんと、気分屋だよね』

 アリアの嫌味を聞き流してなおも登り続けると、ユアンの眼前に切り立った崖と、その上に建つ集落らしき家々の影が見えてきた。




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