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1、届かぬ矢

 ユースタリア大陸におけるノースエルフの生息域はパジルテ山脈から北の森林地帯だ。

 見渡す限りに針葉樹の森が広がり、夏以外は常に雪に覆われている。山脈から一望しただけでは、エルフどころか獣がいるのかすらも怪しく思える。それぐらい、静かな森だった。

 目印は、見渡す限りの遠景に一本あるかないかという程度に生えている、巨大な古代樹『エラ』の木陰だ。エラは地中に張り巡らせた太い根で周囲の木々を根こそぎなぎ倒し、届く範囲の養分という養分を吸い尽くしながら、深く深くまで根先を伸ばしていく。やがて地下の水脈に辿り着き水に不自由しなくなると、加速度的に大きくなって、あっという間に雲にも届くほどになる。幹を周るだけでも半日がかりの大木だ。

 ノースエルフはエラが十分に成長すると、幹をくり抜き根をほじくって、部族単位でその中に住み着く。丈夫な幹は冷たい冬の風雪を遮断してくれるし、根の中に井戸を掘れば水の確保も容易だ。何よりも、肥大化するエラを放っておくと、際限なく森を食い尽くして、辺り一帯の生態系をめちゃくちゃにしてしまう。狩りを生業にしているノースエルフたちにとっては、林業もまた欠かせない。

 彼らは数百年の時間をかけて、エラをゆっくりと切り崩しながら枯らしていく。一つのエラが空っぽの切り株に成り果てる頃には、別のエラが十分すぎるほどに大きくなっているので、またそこに移動して住み着く。誰も数えられないほどの昔から、ノースエルフたちはそうやって生きてきた。

 しかし、エラが増える数とエルフが増える数が、そういつもいつも釣り合うわけではない。エラが増えすぎて森が腐ってしまうこともあれば、エルフが増えすぎて、エラを巡る戦争になることもある。勝った部族は栄光を持つもの(エラン)と呼ばれ、負けた部族は行き場をなくし、空っぽになったエラの残骸に住み着くか、森の片隅に家を建てて住むことになる。

 それらエラの外に住むノースエルフたちは敗残者(ゲーレン)と呼ばれ、獣と同じように、エランたちの狩りの対象になる。エランたちにしてみれば、ゲーレンは獣よりも美味しい獲物だ。捕まえて耳を切り、奴隷や娼婦として働かせることもあれば、あっさり殺して財産だけを根こそぎ奪っていくこともある。無論ゲーレンも抵抗はするが、寒さと飢えでろくに人口を増やせない彼らは、季節が巡る度に弱っていき、やがて狩られる定めにある。

 しぶとく年を経て、群れの体をなさないほどに孤立してしまったゲーレンが生き延びる手段は、結局のところ一つしかない。森を捨て、見知らぬ土地へとさまよい出ることだ。

 今もまた、一人のゲーレンの若者が、毛皮を積んだ背負子を負って、当てもなく南を目指していた。背が高く、長い耳がツンと上を向いている。ノースエルフ特有の銀色の髪と白皙の肌は、足元の雪と混ざって見事なまでの保護色だ。着ている白貂の毛皮とも相まって、冬景色の中で見つけることは一見難しそうに見える。

 だが、十分に成熟したエランたちにとっては、まっすぐに続く雪をかき分けた跡だけでも十分だった。長い雪と雪の合間の、切れ目のような短い晴れ間にどうしても残ってしまう痕跡。エラの梢の上から鷹のように目を尖らせる見張りがそれを見つけて報告すると、五分と経たないうちに三人一組の当番兵が派遣される。エラの周囲には豊富な木材で作られたスロープが張り巡らされていて、スロープのへこみに尖った靴裏を合わせて滑り降りると、ちょうどエラの侵食の際、森が始まる円周上にたどり着くことができる。

 そこから先の密集した針葉樹林は、エランにとっては高速道路と同じだった。木の幹を蹴って斜め前の幹へと飛びつき、それを蹴って、また斜め前の幹へと飛びつく。ジグザグに三角飛びを繰り返しながら獲物へと近づくエランの狩人たちは、森の中でもっとも速く動ける生き物だ。

 ゲーレンの若者が近づいてくる三人組に気づいたときには、既に周囲を取り囲まれてしまっていた。正面と背中、そして利き腕側の幹に一人ずつ、弓に矢をつがえて、いつでも撃てる体勢になっている。

「なんだ男か」と、前に回り込んだ一人が言った。

「殺せ」

 ごくごく事務的な合図で、三方から同時に矢が放たれた。

 ゲーレンの若者は雪に膝まで浸かっていて、背負子を下ろす暇もない。躱せるはずもない状況だった。エランたちは矢が獲物に刺さる前にはもう、背負子に積まれた毛皮の値踏みを始めていた。見たところ、虎と黒豹。どちらも高価な代物で、草原(グリーン)エルフの行商人に渡せばかなりの値段で買い取ってもらえた。

 皮算用をするうちに、彼らは若者がいっこうに倒れないことに気づき、訝しんだ。視線を戻すと、異様な光景が広がっていた。

 放たれた矢が三本とも、見えない盾にでも突き刺さったかのように、ゲーレンの若者の体の周りでぴたりと動きを止めているのだ。

 まばたきをして見なおしても、矢はぴくりとも動かない。外れたなら雪に突き刺さるだろうし、当たったのなら血で汚れる。受け止めいなされたのだとしても、せめて地に落ちるものだろう。

 いずれでもない、矢はまだ空中にあって、獲物に突き刺さる一瞬を待っている。


『汝に向かって投げ入れられる全てのものは、汝に届くことはない』


 涼やかな、女の声が聞こえてきた。エランたちは長耳をそばだてて方向を探るが、つかめない。


『やはり、私と契約して正解だったろう。ユアン』


「不本意だけど、そうみたいだな」

 ユアンと呼ばれたゲーレンの若者は、周囲の警戒を続けるエランの当番兵を尻目に、ゆっくりと背負子を下ろし、腰に差していた長剣を抜いた。見咎めたエランたちは次々に矢を放つが、やはりユアンの体までは届かない。凍りついたようにピタリと止まり、空中にとどまり続ける。

「見ての通りだ」とユアンは三人に語りかけた。

精霊(イスト)の加護により、俺に矢は届かない。狩りは成立しないってことだ。見逃してはくれないか」

 エランたちは互いの顔を見合わせた。やがて、一番の年長者らしい、ユアンの正面で弓を構える一人が言った。

「精霊とはなんだ。言ってる意味が分からない」

「ゲーレンなりの生きる術だ。エランには必要のないものさ」

 ユアンは背丈の割には幼い顔に、曖昧な微笑みを浮かべた。敵意のなさの表れにも見えたし、挑発のようでもあった。本人にすら自分の心が掴みきれていないような、幼い微笑み。

「弓がダメなら、剣で倒すだけだ」

 エランの年長者は弓を肩にかけ、胸に下げていた短剣を引き抜いた。本来は傷ついた獲物にとどめを刺すためのもので、鋭い刃は首や肋骨の隙間をえぐるにはぴったりだ。しかし、ユアンの構えている長剣の相手をするには、間合いが合わない。無理に突っ込んでいけば刃の長い剣が先に突き刺さることになる。

 エランの年長者はそれでも幹を蹴って、ユアンの頭上に空中から襲いかかった。ためらっている他の二人に発破をかける意味もあるが、それ以上に、剣での戦いにも自信があったからだ。素直に突き上げてくるであろうユアンの一撃目をしのいでしまえば、刺すべき首筋はすぐそこにある。

 だが、彼は、不思議な力で空中に留まったままの矢のことを失念していた。

 速さを失った矢などぶつかれば簡単に弾け飛ぶと、思い込んでしまった。ユアンの元へ飛びかかる障害にはならないと。

 しかし、矢が体にふれた瞬間、弾き飛ばされたのはエランの年長者だった。空中に固定された矢羽はびくともせずに年長者の肩を押し返し、深い雪の上へと無様に転げさせた。

 ユアンはその隙を見逃さず、素早く雪を踏みしめてとどめを刺しに向かった。毛皮のブーツの底に縦に打ち付けた二枚の木の板は、体が雪に沈み込むのをある程度抑えてくれる。木を足場にするエランと違い、重い荷を背負うことの多いゲーレンは、雪上での移動に長けている。

 エランの年長者はすぐさま起き上がろうとしたが、上半身を起こしたときにはもう、ユアンの長剣がその首を跳ね飛ばしていた。

 残りの二人はユアンの背中に向けてありったけの矢を撃ち尽くしたが、やはりその矢は届かない。

 ユアンは年長者の肩にぶら下がっていた弓を剥ぎ取り、すぐ傍で宙に浮いていた一矢を掴んで、素早くつがえた。

「引いてくれないか」

 またも弱々しい、曖昧な微笑みを浮かべるユアンに、エランたちは飛びかかっていった。ユアンの振る舞いから漂う妖気が、背中を向けることを許さなかった。

 ユアンは空中の矢を我が物のように握りこみ、続けざまに四矢を二人に撃ち込んだ。矢は意思を持っているかのように彼らの眉間と胸元に刺さり、雪上に新たなくぼみを二つ作った。


 エランの当番兵たちを倒したユアンは、少し迷ってから年長者の体を漁って、弓の弦と矢筒をいただくことにした。当番兵が倒されたのはエラの物見も見ているだろう。すぐに追手がくると考えた方がいい。

「辛いな。山にたどり着くまで、休めそうもない」


『安息の場所を求めるなんて、諦めることだね』


 何処からか精霊の声がする。


『未到と漂泊の精霊と契約した者に、そんな贅沢は手に入らないよ』


「うるさいぜ、アリア」

 ユアンはため息をつくと、再び背負子を背負い直した。

「今はまだ、生きるのに必要だから、お前に付き合ってるだけだ。そのうちお前も振りきってやるさ」


『そううまくいくといいけどね』


 エルフの森に、非常事態を知らせるヤギの角笛の音が響く。

 森を出るまでにどれほどの面倒が降り掛かってくるのか、未だ遠くの背景でしかないパジルテ山脈を木々の合間から見つめて、ユアンは首を振り、足を速めた。

 

 

 

 

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