悪の始まり
―――悪の人間にとって大事なのは迷わないことだ。相手を殺すときには全力でぶっ殺す。正義のヒーローがなんかうざったい心理描写してても迷わず突っ込め。変身シーンの間だろうと何だろうとだ。常識に惑わされるな。そんな常識は打ち破ってやれ!いつだって突撃だ!―――え?女子校に突撃してくる?おいバカやめろその常識は守れ!
―――悪の組織『黒い悪魔』とある日の会話より抜粋
「塔花、あなた一人暮らししなさい」
「突然ですね」
ある日、家に帰ったら母親が仁王立ちして突然家を出ることになっていた。何を言っているかまったく分からない。雪坂塔花は呆然と立ち尽くす。
「今日久しぶりに小さい頃からお世話になってる人に会いに行ってきたのよ。でね、その人アパートを経営しているんだけど、部屋がいくつか空いてるらしいの」
「だから、そこで暮らせと」
「その通り!私に似て賢い子ね」
なぜだろうかこの母親に似てると言われても全然嬉しくないのは。むしろ不快感すら感じる。
「高校はどうするんですか。せっかく合格したのに」
「今よりずっと近くなって家賃1万!2LDK!駅から5分通学10分!部屋はとっても綺麗!」
「その条件で家賃1万は絶対におかしいです。多分、その部屋夜な夜な亡霊が出るとかそんな感じだと思います」
「全部屋その料金よ?」
「そのアパートお墓の上に建ってるとかじゃないですか?」
そんな家賃では経営なんて成り立たない。どうやって生きているんだろうと不思議に思う。
「安心しなさい。その人にとってアパート経営は趣味だって言ってたから。先代のを受け継いだだけで家賃なんて別に無くても困らないらしいし」
「どういう生き方してるんですかその人」
「好きなように生きてる。悪の組織の総長だし」
行きたくない。絶対そんなアパート行きたくない。悪の組織?一体何なんだろうそれは。
雪坂のなかで思考がグルグルと回る。悪の組織などというここ数年聞いていなかったようなワードが理解できない。
「お父さんもお世話になってるわよ。昔、仕事で悩んでいるときに喝を入れてくれたんですって」
雪坂はあれ?と首を傾げる。悪の組織といっても結構まとも?『悪』、なんて言葉がついているけど中身は意外と―――
「『仕事が辛い?こう考えるんだ。仕事辞めちゃってもいいさ、とね』って言われて仕事を辞める決心がついたんだって」
何してくれとんだそいつは!と心の中で叫ぶ。さすが悪の組織、人を引き摺り下ろすのはお手の物である。彼らは人を堕落の道に落とすのだから。
「おかげでお父さんは株でウハウハ。たとえ毎日外食しても生活に困ることはなくなったしね」
結果がいい方向になったから文句を言えない。もし失敗したらどうするつもりだったんだろう。悪の組織なのだから責任は取らないと思うが。
とりあえずなんとしてもそんなアパートに行くのを回避しようとする。彼女としてはその人に感謝はしているけどあまり近づきたくない。
「えーと、そうだ。そんな有料物件ならすぐ埋まるんじゃないですか?」
彼女による説得開始。なんとしてもそこに行くのを阻止する。そんな変な所に行かされてたまるものか、と心に秘める。
「大丈夫。そのアパートの名前は『滑落荘』って言うの。で、学生さんなんかは誰も入ろうとしないらしいから」
「……私、大学受験を考えているんですけど」
「別に塔花はそんなの気にしないでしょ」
確かに雪坂塔花はそんなことは気にしない。
お守りなんて買わないし、占いにちっとも興味がわかない。
たとえアパートの名前が何であれ条件がよければ喜んで引っ越しただろう。
悪の組織なんてものがいなければ、の話だが。
「まったくもう、契約もしたし、引越しの挨拶もしたし、荷物も送ったから逃げられないわよ」
「ちょっと!聞いてないですけど!」
「言ってないもの。はい、これ電車代」
気づいた頃には彼女の道は決定していた。反撃の隙間がどこにも無い。
「大家さんによろしくね。駅に迎えに来るはずだから」
無駄な抵抗はやめろと言う悪魔の言葉だ。自分の預かり知らぬところで話が進行している。
「仕方ないですね。で、その大家さんとやらの特徴は?」
もう諦めるしかない。今更どうしようもない。こう見えても雪坂は諦めが早い。無駄なことはしない、のほうが正しいかもしれないが。
「『見た目普通だけどこの人には近づきたくない』っていう人が大家さん」
「普通服装とか背格好とかを特徴にしません?」
「和服を着た男の人、いや男の子ね。小動物みたいであやうく誘拐するところだったわ」
この母親はもう手遅れだ。手の施しようが無い。
それにしても見た目が小動物みたいな男の子、それでいいのか悪の組織のトップ。どう考えても威厳も恐怖も感じられない。雪坂塔花にとって悪の組織のトップとは、黒いマントを翻していたり、巨大な剣を持っているイメージなのだが、早速そのイメージは砕け散った。
「向こうに情報は伝えておいたわよ。うちの娘は身長これぐらいで」
母が手を自分の目の高さに合わせる。
「髪は短めで」
両手を肩の高さに並べる。
「胸は小さいです、ってね」
両手を胸の高さまで持って行きストンと落とす。
よし殺そう。雪坂塔花の胸に真っ赤な殺意が芽生えた。
「お母さん、その喧嘩買いました。表へ出ろ」
「何?愛の告白?キャッ!私たち親子なのに…」
「出刃包丁と柳刃包丁どっちがいいですか?」
「……つまり毎日料理を作ってくれってことよね?そういうのはもっと段階を踏んで……ポッ」
殴りたい。精一杯の力を込めて。これは殴っても許されるレベル。頬を染めるな。
「…告白…新婚旅行…デート…結婚…プロポーズ…出産」
「妄想やめてください。順番が変です。というかなんで子供が生まれているんですか」
「愛ゆえに」
そんなものは無い。胸を張って言える。
とりあえず相手していたら日が暮れるので無視して会話を進めよう。
「で、このいつ行ったらいいんですか?」
「今日よ?」
……どうやら私は耳が悪くなったようだ、と雪坂塔花は思う。今日、トゥデイ。様々な呼び名があるが少なくとも引越しする人間に教える時間ではないはずだ。
「今日?今日の何時に待ち合わせですか?」
「15時だけど」
「……今何時でしょう?」
「14:30ね!」
「……ははっ」
後三十分しかない。何これ嫌がらせ?新手のいじめ?と雪坂塔花は考える。この母親は天然でこういうことをするのだ。
「お母さん、ホウレンソウって何の略か分かります?」
「砲撃、連射、総攻撃の略ね!」
なんだその絨毯爆撃みたいなホウレンソウ。
「報告、連絡、相談だよ!何でこんな時間になるまで黙ってたの!」
「びっくりサプライズ!」
「別の意味でびっくりだよこんちくしょう!」
急いで自分の部屋まで駆け上がり、財布や携帯電話などを鞄に詰め込む。ゆっくりしてはいられない。
必要最低限に荷物をまとめると全速力で家を出る。途中で母親が「お土産買ってきてね~」と言っていたが無視する。
「間に合って!」
駅の方向へ全力で走る。母の迷惑なサプライズにより彼女は脇腹を痛めることとなった。