不食人8
その日のバイトが終わると、僕はまた長岡のアパートに来ていた。彼は今朝と変わりなく、それどころかさらに回復しているようにさえ見えた。
「なぜ君は、そんなに元気なんだ?」
「わからない。普通なら今頃死んでたっておかしくはないよな? 今日ずっと考えてたんだが、もしかしたら俺は、不食人になっちまったんじゃないだろうか?」
「不食人?」
聞きなれない言葉だった。
「ああ、食べずに生きていける人間のことだ。世界には、そんな人間が実在してる」
「君が、そうだっていうのか?」
「食べずにいたことでそうなってしまったのか、元から食べる必要がなかったのか。どちらにしても、他に考えようがない。食べなければ死んでしまうなんて事自体、ただの思い込みであって間違いかもしれない」
「思い込み?」
「人に焼けた鉄棒を見せた後、目隠しをして焼けていない鉄棒を肌に押し当てると、火傷したような水ぶくれができる。思い込みが人を傷つける良い例だ。知らないだけで、本来食べなくたって人は生きていけるのかも知れない。そうでもなければ、今の自分は説明出来ない」
本気でそんなことを言っているのだろうか? もし仮に食べずに生きていけるというのであれば、全世界で飢え死んでいる人達はなんだというのだ。勘違いで人が死ぬ? とても納得できるような話ではない。断食を始めると聞いたその日から、僕の心に何かが引っかかっていた。今ようやく、それが何か解った気がした。
「君の財布を見せてくれ」
「財布? いいけど」
長岡は少し面倒そうに、汚れたバックから黒い財布を取り出した。
「俺が外で買い食いしたとでも思ってるんだな? 言っておくが、俺は一度も外に出てないぞ」
そう言うと、ちゃぶ台の上に財布を放った。僕はその財布を手に取ろうとはしなかった。
「どうした? 財布の中身を見るんじゃないのか?」
「見なくてもわかる。どうせ中身は空だろう?」
「ああ。誘惑に負けちまうのが怖かったからな」
「君がなぜ今だ生きていられるのか、説明してやろうか?」
「出来るのか? お前に」
「ああ、僕の知らない逃げ道があるからだ」
「逃げ道? なんのことだ?」
「僕に預けた最後の食糧。水道を止め、財布の中身は空。どう考えてもやりすぎだ。これから強く生きようとする奴は、こんな無茶は絶対にしない。少なくとも僕なら、保険を掛ける」
「保険?」
「目の前に、食べ物を置いておく。何時でも食べられるように」
「馬鹿な! それじゃ我慢なんてとても出来ない」
「いいじゃないか。動けなくなって死んでしまうよりはましだ。それに、目の前にある方がずっときつい。手っ取り早く手に入れたい。それが君の望みだろう?」
「俺がお前に、嘘を付いてるって言いたいのか?」
「君はわざと、自分の逃げ道を全て僕に塞いで見せた。その後はどうするつもりだった? さも何も食べていないように見せて、生き続けるつもりだったのか? 日本人初の不食人。テレビに出て時の人にでもなろうとしたのか?」
「俺だって自分で自分がわからない。お前だけは信じてくれると思ってた……」
「信じてたよ、昨日の晩まではね。本当に君が死んでしまうと思った。僕がどれ程君の事を心配したかなんて、わからないだろうな! だがもう無理だ。僕を利用しようと考えたのなら、今すぐ止める事だ。マスコミは面白がって飛びつくだろうが、こんなインチキ直ぐにバレる。君は結局、今まで自分を馬鹿にしてきた連中を、見返してやりたかっただけだろう?」
「もういい……。信じないなら出てってくれ」
「ああ、そうさせてもらう。これ以上君の茶番には付き合いきれない。僕まで詐欺の片棒を担がされでもしたら堪らないからな!」
僕はそう怒鳴ると立ち上がり、玄関へと走り抜けた。ここまで言うつもりはなかった。しかし、友人を責める辛辣な言葉が、勝手に口を付いてくる。それこそ止めどなく。今日秋野さんの話を聞かなければ、笑って許せたかも知れない。しかし、彼女の美談を根本から否定するような話は、怒りの感情に拍車を掛けた。
僕は玄関の靴に、無理やりつま先をねじ込んだ。揃えられた長岡の靴から目を逸らす。そのまま振り返らずに外へと飛び出した。
彼がなぜ何も食べずに生きていられるのか。僕に内緒で、こっそり食べていたからとしか考えられない。だからこそ、馬鹿な誇大妄想に取り付かれた長岡を、彼の友人として止める必要があった。なぜなら彼は、保険を掛けていたのだから。僕という頼りない保険を―――。




