不食人6
僕はその日、眠れぬ夜を過ごした。無理にでも、病院に連れていくべきではなかったのか? 彼が死んだら、僕は罪になるのだろうか?
もしこのまま、長岡が亡くなってしまったらと、考えずにはいられなかった。
翌朝、早めに起きて長岡の様子を見に行こうと思っていた。しかし、眠りの就いたのが朝方ということもあり、長岡のアパートに着く頃には、すでに八時半を回っていた。バイトの時間まで三十分も無い。
僕は最悪の展開を予想しつつ、声を掛けずに友人の部屋のドアノブを回した。昨日まで転がっていたはずの彼の靴が、綺麗に揃えてあった。玄関に入って直ぐに、僕は得も言われぬ奇妙な感覚に襲われた。
「おう、柏木」
長岡はちゃぶ台で、型遅れの携帯電話を弄っていた。
「起きいて、平気なのか?」
「今日は気分がいい。お前のお蔭だ」
布団は綺麗に畳んである。昨日は起きることすら困難に見えた。
その時の僕は唖然としながら、間の抜けた顔をしていたに違いない。友人は痩せ細り、見た目はそれ程変わらない。しかし、心なしか顔色も良く。声の通りも良くなっていた。
「何か食べたのか?」
「いや、何も食ってない」
僕は、ちゃぶ台を挟んで彼と対面した。今日で五日目、僕が飲ませたのはお茶だけだ。
「本当に、何も食べていないのか?」
「この部屋に、食べ物が無いのは知ってるだろう?」
僕は長岡の表情を探った。嘘を付いているようには見えないが、誰が見ても明らかだ。長岡は昨夜より、確実に回復している。
たった一本のお茶で、ここまで元気になれるものなのだろうか? 不思議に感じていたのは、彼も同様だった。
「昨晩、母親の夢を見た。顔はおぼろげだが俺には分かった。お前とあんな話をしたからだろうな。母親が差し出したおにぎりを、俺は無我夢中で頬張ってた。とてつもなく美味かった」
「その夢は警告だ。もう断食なんてやめろってことだろう」
「そうかもな。でも昨日とは違う。死ぬほど腹が減っていたのに、今朝はそれほど食いたいと思わない」
「何だって?」
「食欲が無いんだ」
「そんな事、あるわけないだろう」
「俺だって信じられない。上手く説明出来ないが、自分が一番驚いてる」
困惑する長岡の眉間に、深くしわが寄っていた。断食をすることで、彼の体がおかしくなってしまったのだろうか? 感覚の麻痺、あるいは精神作用か……。どちらにしても、僕にわかるはずもなかった。
「僕までおかしくなりそうだ。バイトが終わったらまた来るから、それまで目を覚ましておけよ」
昨夜ならともかく、今すぐ死んでしまうようには見えない。とりあえず目先の不安は、取り除かれた気がした。
しかし、自転車を走らせる僕の頭の中に、友人の揃えられた靴が鮮明に映し出されていた。それが、死神に取り憑かれた者が渡る橋であり、死にゆく者の儀式に思えてならなかったからだ。




