不食人5
初めから馬鹿げた話だと思っていた。命を懸けてまでやることではない。少なくとも僕なら、ここまで耐えられない。自分の体が、どんな状態なのかも分からなくなってしまったのだろうか?
僕は彼に水を飲まそうと立ち上がり、台所に駆け込んだ。手じかにあったコップを手に取り、蛇口を捻る。
「ん?」
あろうことか、どんなに開いても水は一滴も出なかった。水道は言わば、最後の生命線だ。例え料金を滞納しても、簡単には止められない。
「なぜ、水が出ない?」
「無駄だ柏木。水道は、断食した日に止めてある」
「馬鹿な事を……」
僕は友人の無茶振りに、彼をぶん殴りたい衝動に駆られた。水も飲まずにいたなんて、どう考えても自殺行為だ。僕は持ってきたリュックに、飲みかけのお茶が入っていたことを思い出した。ペットボトルを取り出すと口を開け、長岡に走り寄る。
「よせっ」
大きく見開いた彼の目は、見るからに痛々しいミイラそのものだった。
「少しは僕の言うことを聞け!」
長岡は観念したのか、自分で飲むと言って僕からペットボトルを受け取った。初めは咳でまともに飲めなかったようだが、少しづつ喉に流し込んでいく。僕が傍で見守る中、彼は容器に入ったお茶を全て飲み干した。
「うまい……」
友人の閉じた目から、涙がこぼれていた。
「飲まず食わずでも、涙は出るんだな……」
彼は深く息を吐き出すと横になった。お茶を飲んで少し落ち着いたのか、咳も収まりつつある。
「長岡、病院に行こう。君の体は限界だ」
限界のその先は死だ。しかし僕は、その言葉を口に出来なかった。
「俺は今……。試されている」
「試す?」
誰が何を試すと言うのだろうか? 彼は今まで理不尽なまでの運命に翻弄されてきた。もしかしたら彼は、自分の命運を断食に懸けようとしているのかも知れないと僕は思った。
「俺が最初に食いたい物は、もう決めてある」
「なんだ?」
「ウマ屋のカレーうどん」
これだけ我慢して、全国チェーンのカレーうどんとは、長岡らしい回答だと思った。
「最後の晩餐ってあるだろう? 死刑囚に看守が聞くんだ。何が食いたいって……。柏木なら何が食いたい?」
「最後の晩餐か……。僕なら、テレビでしか見たことのない高級食材で作った、超豪華料理かな。君はやっぱり、ウマ屋のカレーうどんか?」
「ああ、寝ながらずっと考えていた。もし俺が死刑囚で、ほんとの最後の最後。望む食べ物は、どんな味か分からない物より、自分が死んで悲しんでくれる人が作った、手料理なんじゃないかって思うんだ」
母親、恋人、そんな人の事を言いたいのかも知れない。しかし彼は、小学生の時分で両親を事故で無くし、兄弟も恋人も居ない。彼の為に手料理を作ってくれる者など、どこにも居ないのだ。
「あのカレーうどんを食うと、なぜか懐かしい気持ちになる。顔だってろくに覚えていないのに、似ているんだろうな……。母親の味に」
僕よりずっと孤独を感じて生きてきたのだろう。彼がこんな無茶をする理由など、僕には到底分かるはずもなかった。
「もともと自分で始めたことだ。止めないでくれ柏木。やめる時は、自分の意志でやめたい……」
「分かったよ。その時は一緒に、ウマ屋に食いに行こう」
その後長岡は、静かに寝息を立てた。僕は最早止めるまいと思った。彼の好きにさせてやろう。友人に後ろ髪を引かれる思いで、僕は部屋を後にした。




