不食人3
「馬鹿げ話だ」
日当たりの悪いアパートの一室で、僕は被りを振った。お腹を押さえながら友人は、そんな僕を見て乾いた笑いを見せた。
「そう言うなよ。俺だって命懸けだ」
僕は昼の高校に入ったものの、つまらなくなって途中でやめた。長岡とは夜学で知り合った。彼と意気投合した理由は単純だ。二人には友達が居なかった。
長岡は一か月前から、趣味でボクシングジムに通い始めた。窓際のハンガーに黒いスポーツウェアが掛けてあった。青田というジムの先輩に、譲って貰ったものらしい。無駄な贅肉が落ちて精悍な顔立ちになっている。もともと痩せてはいたものの、以前とはまるで別人だ。変わっていないのは、いつも同じヨレヨレのTシャツを着ているくらいだろう。
長岡の性格は知っている。一度こうと決めると後には引かない。僕が何を言った所で、どうにもならない。意固地というか頑固というか、人の意見に左右されない。受け身な僕とは対照的だ。
僕は友人の住んでいる、何もない部屋を徘徊した。六畳一間の室内が、やけに広く感じる。申し訳程度にある流し台に向かうと、小さな冷蔵庫の扉を開けた。食糧どころか、調味料すらも入ってはいなかった。それもそのはずだ。食べ物の類すべて、部屋の中心にあるちゃぶ台の上に乗っているのだから。
「随分と、徹底してるんだな?」
「ああ、こうでもしないと甘えがでる」
「そんなこと言って、本当は押入れにでも隠しているんじゃないのか?」
「疑り深い奴だな。あまりおすすめしないが、なんなら開けて見るといい」
かなり立てつけの悪くなった押入れの扉を、僕は力任せに引いてみた。半分程開いた所で、無造作に押し込めてあった古いブラウン管のテレビが目に入る。それがバランスを崩し、僕にもたれ掛ってきた。テレビに悪戦苦闘している様を見て、彼は口に手を当てて噴き出した。鍋や雑誌のみならず、この部屋に有ったものは、押入れの中に無造作に放り込まれていた。
「部屋には、何もない訳だ」
僕は納得せざるを得なかった。
「今は捨てるにも金がいる時代だ。いるものがあるなら、自由に持って帰ってくれ」
「遠慮しておくよ。ゴミを収集する趣味はないからね」
僕は一通り部屋を物色すると、長岡に対面するよう、ちゃぶ台の前に腰を下ろした。
どこで拾ってきた物なのか、酷く古びたちゃぶ台だ。室内には、せんべい布団が畳んであるだけ。幼くして両親を亡くし、施設を出た後バイト代だけで食い繋いで来た。この部屋は、彼の人生を物語るには十分だった。
「これが最後の食糧なんだろ? 本当に持って行ってもいいのか?」
僕の素朴な疑問に、長岡は大きく頷いた。
「他に貰ってくれそうな奴もいないしな」
長岡はちゃぶ台の上にある食べ物を手に取った。ビニール袋を取り出すと一つ一つ丁寧に、まるで大切な人の骨でも拾うかのように袋にしまう。僕には、彼が唾を飲み込む音すら聞こえそうな気がした。
「断食を始めて、どれくらい経つ?」
「まだ二日目だ。正確には一日と半分」
長岡は平気な顔を、努めて作ろうとしていた。無理をしているのは僕でも分かる。人が二日も食べずに、平気でいられるはずがない。
「今更ダイエットもないだろう。何の為にこんなことをしている? プロのボクサーにでもなるつもりか?」
長岡のハングリー精神は、確かにボクサー向きかも知れない。この豊かな日本に生まれ、これ程苦労している若者も珍しい。
「いや。俺はただ、何ものにも負けない精神力を手に入れたいだけだ」
そう言った彼の目には、確かな決意が見て取れた。
「それはつまり、自分の限界に挑戦するってことか?」
「そうだ。事故か病気でも経験しない限り、生きるか死ぬかの瀬戸際に立つのは稀だ。簡単に、しかも手っ取り早く手に入れたい」
どうやら長岡は、試練が大きければ大きいほど、結果的に見返りも期待できると考えているようだ。自己の限界。人の三大欲を抑えようと言うのだ。半端な心では成し遂げられない。彼は食べ物を連想しかねない日用品を、全て押入れの中に隠し入れていた。
「知っての通り、俺は何も持っていない。これからもきっと、孤独に一人生きていくはずだ。親のいるお前にはわからないだろうが、俺は揺るぎない自信を手に入れたい。どんな苦労にも負けない、強く生きるための自信だ」
「一人とは限らないだろう。そのうち長岡にも、恋人が出来るかも知れない」
それを聞いて彼は、ハハハと笑い出した。
「こんな幽霊が出るような、おんぼろアパートに住んでいる俺に、恋人なんて出来るはずないだろう」
長岡は決してモテない顔ではないと思う。今は痩せて、更に目鼻立ちがはっきりした印象だ。僕は今まで好きになった女の話や浮いた話を、彼の口から一度も聞いたことがない。興味が無いわけではないだろう。これは憶測だが、彼の心に潜む強烈なコンプレックスに、起因しているのではないかと思っていた。
「部屋に引き籠るつもりか?」
「ああ、動くと腹が減る」
「バイトはどうするつもりだ?」
「クビになった。俺がレジに立つと、勘定が合わなくなるらしい」
そう言って彼は、引きつった笑いを見せた。いつものことさ、とでも言いたげだった。
彼がこんな風に、自暴自棄になったのも頷ける。これまで言葉に出来ない程の嫌な感覚を、いくつも味わって来たに違いないのだから。僕は一日だって食べなかったことはない。腹が減るたび何かを口に入れてきた。とても彼の真似をしようなどとは思わないし、するつもりもない。しかし、くだらないとは思いつつも、長岡がやろうとしていることに、不思議と興味が湧いてきていた。
「それでどんな感じだ? 断食した感想を聞かせてくれよ」
「そうだな……。とにかく腹が減った。減量は地獄の苦しみだと言っていた、ジムの青田先輩の言葉を噛みしめているよ。カレーにラーメン。頭の中を知っているだけの食い物がグルグル回る。一通り回ったらまた繰り返すんだ。それこそ限りなく、寝ても覚めてもそればっかりだ」
彼は辛くも、何処か断食を楽しんでいる。何かしら手応えのようなものを感じているのかも知れない。断食をする修行僧をテレビで見るが、それで死んだなどと言う話は聞いたことがない。食べ物が無くても、この部屋には水道がある。水があれば早々死んでしまうこともないだろう。今晩にでも、我慢できなくなって食べてしまうに違いないと、僕は気軽に考えていた。
「断食はいつまで続けるつもりだ?」
「取り敢えず三日くらい頑張ってみる。自分でもビックリなんだが、思っていたよりいけそうだ」
僕は安っぽい壁掛け時計に目をやった。ちょうど時間は七時を回りかけていた。長岡のアパートは公園西口、僕のアパートは公園の東口付近にある。公園を横断するのが近道だけに、なるべく早い時間に帰りたかった。
「そうか。気が向いたら明日また来るから、無茶はするなよ」
僕は彼の、最後の食糧を手に取ると、長岡の部屋を後にしたのだった。




