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死神の棲む街

ある才能について

作者: 雷星

 皆月高生みなづきたかおの一日は、重い気だるさとともに始まる。いつものことだという諦めが彼の意識を鞭打つように覚醒を促し、薄明かるい絶望に包まれた未来が垣間見えたかのような錯覚さえ与えるのだ。

 いや、それは錯覚ではないのかもしれない。このままでは自分の将来は暗澹たる闇に包まれてしまうのではないかという確信に近い感情が、彼の心に強迫観念のようにこびりついている。故に幻視のように未来を視るのだ。その悪夢に等しい未来から逃れるためには、起き上がるしかない。

 とはいえ、未だ首を抱いて離れない眠気に耽溺したいという誘惑に打ち勝つのは容易ではなかった。冬の朝。凶悪なまでの冷気が降り立った現世よりも、甘美な夢の世界を約束する分厚い布団に包まれているほうが余程幸福だ。

 それでも彼は、寝惚け眼を擦ると、無理矢理跳ね起きて掛け布団から飛び出した。凍てつくような空気が全身を包み込み、半覚醒状態だった彼の意識に強烈な一撃を叩き込む。覚悟していた以上の衝撃に布団の中に帰りたくなる。が、再び布団に潜り込んだところで安眠などできるはずがない。ましてや惰眠を貪るなど、それこそ夢のまた夢だ。

 濃密な気だるさとうんざりするほどの憂鬱さの中で、彼は、ひとり嘆息した。

 いつものように。

 それこそ、文字通りたったひとりで。


 世界中を探しても、同じ悩みを抱えている人間なんていないのではないか。

 ここ数ヶ月、高生はそう考えるようになっていた。

 その現象を知覚するようになって十数年経った。彼は十七歳。物心ついたころには、それを知覚していたということだ。幼いころはそれがなんなのかわからなかった。誰もが経験するものだと思っていたし、だからだれにも相談しなかったのだろう。

 しかしあるころから、それが不自然であることに気づく。ほかのだれも知らない、彼だけの悩みだということがわかったのは小学校にあがるころだった。

 それが彼の孤立に拍車をかけた。元々内向的なところがあったものの、だれにも相談できない、相談しようのない悩みを抱えた彼の心に分厚い壁ができたのは、当然の成り行きだったのかもしれない。

 彼には、悩みを理解しえないひとたちと仲良くなれるとは到底思えなかったのだ。

 だから、今日もひとりで一日を過ごすことにしていた。


「はあ……」

 洗面台に取り付けられた鏡に映る己の顔と向かい合って、彼は本日何度目かのため息を浮かべた。息吹きは大気に冷やされて白く染まる。

 鏡像はひどくやつれていた。目の下には隈が浮かび上がり、頬は痩け、青白い肌と相俟って死神のように見えなくもない。だとしても、脆弱極まりない死神に違いない。命を刈り取ることさえ出来そうもなかった。

 充血した目の焦点が合っていることですら奇跡的なのではないかと、彼は自嘲するように思った。肉体的な疲労のみならず精神的にも衰弱しきっていた。幻覚や幻聴が意識を苛むことさえある。

 死神のような形相の自分とおさらばするように、彼は、だれもいない食卓に急いだ。


 朝食を味わえるような心のゆとりはない。時間的な余裕はあっても、精神的にはむしろ焦りがある。恐れと言い換えてもいいのかもしれない。たったひとりの食卓。がらんとしたリビングには、恐ろしいほどの静寂が横たわっている。四人がけのテーブルには、朝食が盛りつけられたお皿が丁寧にラップされていた。その脇に置かれた弁当の包が所在無げに立ち尽くしているように見える。

 共働きの両親の朝は早い。高生が浅い眠りから目覚めたころには影も形もないことがしばしばだった。幼い頃こそ寂しく思ったものの、今では慣れたものだ。むしろ、平日の朝に両親と顔を合わせる方が気まずく思うほどだ。特に何があるわけではない。やましいこともなければ、隠し事だってそうそうあるものでもない。

 たった一つのことを除いては。

 誰もいない食卓で朝食を済ませると、彼は自室に戻って制服に着替えた。学校指定の学生服を身に纏ったところで、彼の心境に何らかの変化が生まれるはずもない。いつも通り、朝の憂鬱さがより一層深くなるだけだ。

 学校へ行くべきか、行かざるべきか。

 紺のブレザーに袖を通したものの、彼には迷いがあった。学校に行ったところで自分の人生に大きな影響はないように思える。親しい友人などもいない。おせっかいな幼馴染みだけが彼の世話を焼こうと近寄ってくるだけだ。居場所はない。ならば、行く必要もないのではないか。

 そんなことを思いながらも、高生は、再び死神じみた自分の顔と対面していた。血の気のない青ざめた肌は相変わらずで、見れば見るほど気味悪くなってくる。規則正しい生活を送っていたならばこんな顔にはなりえないのだろう。おせっかいな連中のまばゆいばかりの表情を思い出しながら、彼は嘆息するしかなかった。

(行くかな……)

 こんな自分にさえ屈託なく接してくれる人達を心配させるわけにもいかないだろう。ため息とともに決断する。それに、今日はなんだか調子がいいように思えた。

 目が覚めてからというもの、あの現象に遭遇していないのだ。


「おっはよーん!」

 語尾に音符でもついていそうなほど陽気で飾り気のない挨拶が鼓膜に突き刺さったのは、高生が自宅を出た直後のことだった。朝の静寂と呆気なく叩き壊した大音声に、彼はその場でこけかけた。

「今日もいい天気だねえ!」

 なんとか踏みとどまった彼に追い討ちをかけるかのように大声をぶつけてきたのは、おせっかいな幼馴染みのひとりだ。声の方向に顔を向けると、冬服の少女が栗色の髪を振り乱しなが駆け寄ってくるところだった。名前は宮森加奈子みやもりかなこ。どこにでもいそうなといえばそうだが、決して特徴がないわけではない、そんな少女。

「おはよう……」

 高生は、肩で息をしながらあまつさえ爽やかな汗をかいている彼女の姿に多少の驚きを覚えずにはいられなかった。いつものことではある。それでも、彼は彼女の存在には圧倒されざるを得ない。朝の街を支配する凶悪なまでの冷気さえ吹き飛ばすほどの存在感。まるで真夏の太陽のような輝きが、彼女にはあった。

「なんだか元気ないねえ」

「普通だ、よ」

 上気した顔を間近まで近づけてくるなり、こちらの瞳の奥まで覗き込もうとする相手に彼は大袈裟に後退りした。

 いつもどおりの朝だ。閑静な住宅街の入り組んだ路地を、ふたり並んで歩いていく。学校まではバスで向かうことになるが、バス停までの十数分はふたりきりだった。高生の幼馴染みのうち、同じ学校に通い、なおかつ近所に住んでいるのは加奈子だけなのだ。それが悪いわけではない。しかし、彼女の度を越した干渉には辟易するのだ。

「ちゃんと朝ごはん食べた?」

「うん」

「歯磨きした?」

「したよ」

「ちゃんと寝たの?」

「十時には布団に入ってるよ」

「でも寝足りないって顔してるしー」

「寝つきが悪いんだよ」

「だいじょうぶなの?」

「加奈子は心配しすぎなんだよ」

 毎日のように繰り返しているやり取りの行き着く先は、彼のうんざりとしたため息だった。

 とはいえ、そうまでしてこちらのことを心配してくれるのは彼女ら幼馴染みくらいしかいないので、彼も悪態をつくわけにもいかなかった。それに多少毒づいたところで顔色を変えるような、そんな心の弱い少女ではなかった。むしろこちらの心が折れそうになるくらいにまばゆく、烈しい。

 だからこそ彼は、彼女ら幼馴染みを鬱陶しく想いながらも邪険には出来なかったし、それ以上に感謝してもいた。加奈子のように屈託もなく自分に関わってくれるひとがいるというだけで、絶望的な孤独感から救われる。

「なにか変わったこととかあった?」

「なにも」

「そっかー」

 素っ気ない高生の返答に彼女は表情をわずかに曇らせるだけだった。それ以上を求めない。それが彼の精一杯であるということを理解しているかのように。いや、実際理解しているのだろう。十年以上の付き合いだ。こちらの限界くらい見透かしていても不思議ではない。

「それならいいの!」

 彼の目の前で兎のように跳ねる少女の元気さに半ばあきれながら、高生は、加奈子の褐色の瞳に自分の顔が映り込んでいるのではないかと夢想した。病的なまでにやつれた少年の顔。死神のような。

「あ、そうだ」

「どうしたの?」

 めずらしく自分から口を開いた高生に対して、加奈子は驚きを隠せない様子だった。しかし、高生が告げたのは、きっと彼女が望んだものではなかっただろう。

「今朝、死神を見たよ」

「え?」

 案の定きょとんとした顔で生返事を浮かべてきた少女に、高生は内心苦笑するしかなかった。似合いもしない冗談なんて口にするものではないという教訓かもしれない。

「死神って?」

「なんでもないよ」

 微妙な空気の中、滑った会話の内容について追及されることほど辛いものはない。彼は、頭を振ると、彼女の視線から逃れるように歩き出した。

「ねえ、待ってよー」

 気持ち小走り気味に進みだした高生ではあったが、追いすがる加奈子を振り切る意味もないのですぐに速度を落としたのだった。と。

 皮膚が凍り付くような感覚が、高生の全身を突き抜けた。その奇妙な感覚の意味を身を以て思い知っている彼にしてみれば、愕然と肩を落とす以外にほかなかった。目が覚めてから今の今までそれがなかったこと自体が奇跡のようなものだったのだが、だからこそ、彼は、この悪夢のような現象から解放されたいという願いが今日こそ叶うものかと、淡い期待さえ抱いていたのだ。

 もちろん、そんな期待が裏切られることも分かっていた。物心ついてからずっと付きまとってきたものだ。何の前触れもなく消え去ってくれるとも思えないのだ。

 高生は、視界に移るすべてをありのままに受け入れながら、おもむろに後ろを振り返った。

視界に入るのは、いつもと変わらぬ通学路の風景。一つだけ奇異な点があるとすれば、高生に追いすがろうとする宮森加奈子が、足を上げた体勢のまま凍り付いたように静止していることだ。瞬きどころか呼吸さえしていない。いや、彼女だけではない。遠方を歩く学生や、自転車に乗った大人たちも、皆等しく静止していた。

 まるでビデオの静止ボタンを押したかのような光景。

 彼は、ため息をひとつもらすと、その場で大きく伸びをした。時が止まったのだ。こうなると、彼にはどうすることもできなかった。時が静止した世界に干渉したところで、すべてが無駄になる。何かを壊したとしても、傷つけたとしても、時が再び動き出した時にはすべてが元通りだ。

 これまでの十数年、この時間停止した世界を何度となく経験してきたのだ。

 静止した時の中では、絶望的な孤独だけが横たわっている。音もなく、他者の介在しない世界。いや、目の前にいるはずなのにいないのと同じなのだ。触れたとしても、反応もなければ、体温を感じることさえかなわない。なにをしても、どんなことをしても意味がなかった。何もかもが凍り付いた世界。耐え難い孤独の時は、永遠のように長く感じた。

 その永久に近い孤独は、再び時が動き出すまで続く。数十秒から数分の静止世界。ただ、耐えればいい。耐えるだけでいい。凍り付いた時の中では。どんな行動にも結果は伴わないのだから。

 時が再び動き出せば、なにもかもが元通りになるのだ。静止した時の中であった出来事は、すべてなかったことにされてしまう。例え誰かを傷つけたとしても、例え自分の手首を切りつけたとしても、時が動き出せば元に戻る。

 高生の記憶だけが肥大していく。

 静止した時の中でも高生の意識は、時を感じずにはいられないのだ。意識がある以上、思考は生まれるもの。無意識でいられるはずがない。度重なる時間停止は彼にとって大いなるストレスになったし、同年代の少年少女とは同じ時を生きていないのではないかという言い知れぬ不安が、彼の精神を蝕んでいた。

 実際、同じ時の流れを感じてはいまい。彼の意識は、同じ十七歳の少年少女よりも長く生きていると認識しているのだ。世界はそれを認めていないのかもしれない。すべてがリセットされるのだから。

 それならば、自分の意識もリセットされるべきだ。

 高生は、静止した加奈子の困ったような顔を見つめながら考える。時が動き出すのとともに、高生の記憶が静止前に戻るのならば、なにも起きなかったのと同じなのだ。時が止まるたびに驚くかもしれないが、少なくとも、いまのような精神状態にはならなかったかもしれない。

 時が動き出すまでの数十秒、彼が考えていたのはそのようなことだった。

 静止した時が再び動き出した時には、彼は前方に向き直っている。すべてが元通りになるのだから、当然だ。彼の行動もすべて否定される。心に異常をきたさないほうがおかしいとさえ言えるのかもしれない。

 時が動き出せば何もかもが元通りだ。街の喧騒が戻る。通学路の賑わいは、寂蒔とした静止時間の中とは比べ物にならないくらいの騒音だった。だが、それくらいの騒がしさがないと寂しいものなのだと、彼は思っていた。

「ちょっと、急に立ち止まらないでよぉ」

 つい立ち止まってしまった彼の背にぶつかった加奈子が声を上げてくるが、高生は、取り合わなかった。妙な感覚が、うなじの辺りに残っている。いつものとはなにかが違う。なにかが起こる。そんな漠然とした予感が、彼の心をざわめかせていた。


 嫌な予感ほど当たるというのは、どうやら本当らしい。

 事が起きたのは、高生と加奈子が、交差点で信号機に足止めされたときだった。学校までの距離は近い。自転車で通学する必要のないほどの距離だ。別に自転車通学が認められていないわけではない。高生だってできれば自転車で通いたかった。が、時間静止に巻き込まれて事故を起こして以来、自転車に乗るのが億劫になっていた。

 時が止まれば自転車も止まる。高生は、勢い余って転げ落ちて怪我をしたのだ。無論、時の再動とともに傷口は消えてなくなり、痛みさえ失せてしまったが。

  いつもは交通量の多いわけではない道路も、この時間帯は、会社や勤め先に向かう自動車でいっぱいだった。行き交う色とりどりの自動車も、時が止まれば一斉に静止するのだから、見ようによっては面白いのかもしれない。

 数え切れないほど見てきた高生にとっては、苦痛以外のなにものでもなかった。

 横断歩道の手前で足止めされたのは、ほとんどが学生だった。高生や加奈子と同じ高校に通う高校生もいれば、中学生の姿もある。もちろん、学生だけではない。駅に向かっているらしい中年男性や女性も、信号機が青に変わるのを待っていた。

 不意に時が止まった。それだけならいつものことで、高生もいつも通りに処理しようとした。なにもかもが静止した世界。時が再び動き出すまでの短い時間。別段なにかをするわけではない。なにをしても元に戻るのだから、行動を起こすことに意味はないのだ。黙想する。時間停止から解放される日を想像するのだ。

 だが、そのとき彼の視界に違和感が生じ、妄想は砕け散った。

 ひとが動いたのだ。

 トレンチコートを羽織った中年の男性だった。コートと同じ灰色の帽子を目深に被っており、背丈は高生より随分高かった。高生が一瞬のうちに認識した情報はそれくらいのものだったが、それでも十分すぎるくらいだっただろう。

 自分以外の存在を認識したことへの驚きと、同じ境遇の仲間を見出だしたことへの歓喜が、高生の思考を真っ白に染め上げたのだ。一人ではない。もう孤独ではない。絶望から解放される。そんな思いが、高生の心情を埋め尽くした。

 しかし。

 トレンチコートの男は、なにを思ったのか、懐からナイフを取り出すなり、隣に立っていた女性の首筋を切りつけたのだ。時間停止した世界。切りつけられた女性は悲鳴をあげることもなければ、血を流すこともない。元より、時が再び動き出せば、切りつけられた事実は消えてなくなるのだ。なんの意味もない。

 だからこそ、高生は、その男に妙な親近感を覚えたのかもしれない。トレンチコートの男は、静止世界を認識し始めたばかりで、混乱しているのだ。昔の高生のように。

 だが、男の様子は、静止世界初心者のそれではなかった。

 男は、血のついたナイフを足元に捨てると、その場を離れようとしたのだ。まるで、なにもかもが予定通りだとでも言わんがばかりの手際の良さだった。静止した世界のルールを知っているのかいないのか。いや、そんなことはどうでもいい。

 高生は、胸騒ぎを覚えた。なにかがおかしい。何かが不自然だと思った。いや、自然なことが不自然なのだ。

 男の手際の良さは、静止世界を経験したばかりの人間のそれではなく、熟練者のそれだった。

「ちょっと待っ――」

 高生が呼び止めようと口を開いた途端、時が動き出した。

いつも通りすべてがリセットされるかと思っていたのもつかの間、高生は我が目を疑った。先ほど男に切り付けられた女性の傷口から血が溢れだしたのだ。青空の下、鮮血が嘘のように噴出した。まるで堰を切ったかのようだった。悲鳴が上がる。女性のものではない。周囲の人々が、何が起きたのかわからぬまま騒ぎ出したのだ。

 高生も愕然とした。

 トレンチコートの男の凶行はリセットされることなく、事実として世界に刻まれた。それは、高生のこれまでの経験からでは考えられない出来事であり、目の前で起きた凶悪な事件の成り行きよりも男の正体に興味を持ったのも仕方がなかったのかもしれない。

 男は、時が動き出すよりも前にその場から退避しようとしていたし、時が再動した時には現場から離れていた。騒ぎ出した人々の中のだれもが、男が犯人だとわかってもいないのかもしれない。高生だけが、それを理解していたし、男の行動を目で追うこともできていた。

 被害者の女性は、即死だったのかもしれない。思った以上に深く切られたのかもしれなかった。血の量が傷の深さを物語っている。時間静止から復帰した瞬間、出血とともに死んだ女性。痛みさえ感じたのかどうか。

 本来ならば、静止した時間の出来事はリセットされ、女性が切り付けられた事実も、彼女が死に至るという結果も消え去るはずだった。高生のこれまでの行動がすべて掻き消されたように。

 だが、女性は悲鳴をあげることさえできず崩れ落ち、歩道は騒然となった。だれかが悲鳴をあげれば、だれかが携帯電話を取り出し、またあるひとは被害者に駆け寄る。

 そんな中、高生は、無意識のうちに駆け出していた。加奈子が呼び止めてきたが、彼の関心は女性を切りつけた事実を現実にしてしまった男に注がれていた。恐れはある。衝撃もある。男は、静止した世界ど殺人を繰り返してきたのかもしれないという考えだってある。しかし、現場を離れ、動揺の走る人混みに消えようとする殺人犯こそ、静止した時と正常な世界の秘密を握っているのではないかという期待は、高生を突き動かすには十分な理由だった。

 男の手にかかり殺されるかもしれない危険性よりも、時の秘密を聞き出せるかもしれない可能性のほうが勝ったのだ。

 被害者の女性を中心とした人だかりを潜り抜け、犯人を追う。周囲の声も視線も気にならなかった。高生の意識は、男の背中に注がれていた。

 人混みを抜け、道を左に折れる。広い路地には、殺人犯の姿しかない。立ち止まっている。まるで高生の到着を待っていたかのようだ。

 高生は、足を止めた。そこで自分の呼吸の荒さに気づいた。大した距離ではないが、運動不足の体には全力ダッシュは堪えたのかもしれない。興奮と緊張もあるだろう。

 人殺しを目の当たりにして、その犯人を追いかけているのだ。そして、その男は、彼の長年の悩みであった時間静止の秘密を知っているかもしれないのだ。興奮するなというほうが無理だろう。

「やれやれ……」

男がひどく疲れたような声を出したのを高生は聞き逃さなかった。それほど大きなため息だった。まるで人生のすべてに疲れ果てたような声音。低く、それでいてよどみがない。

「わたしになにか用事かね」

 男が、こちらを振り返るなり問いかけてきた。あまりにも淡々とした声音は、彼が、ついさっき人を殺したのだということを忘れさせるくらいだった。殺人による興奮も動揺も見当たらない。その上、高生を見据える冷ややかな眼差しにも、感情の揺らめきはなかった。

 高生は、息を飲んだ。目の前に人の姿をした化け物が立っているような錯覚さえ感じて、荒い呼吸を抑えることもできない。胸の内に波打つ興奮と動揺が、彼の口調を激しいものにした。

「あんたがあの人を殺したんだろっ! 止まった時の中で!」

 高生は、自分でなにを口走っているのかもわからなかった。冷静さを失っていたのだ。

「……なるほど。あの時感じた視線は君のものか」

 男は、合点がいったというような顔をした。四十代半ばの男の顔は、その一瞬だけ何倍にも老けて見えた。

「才能だな」

「なにを言ってるんだ!」

「なに、こちらの話だ。君に関係なくもないが、もう遅い。良いのかね? 逃げなくて」

 殺人者の言葉を理解するには、高生の意識は、あまりに熱を帯びていた。が、男がこちらの後方を一瞥したことに嫌な予感がした。

「え……?」

 後ろを向くと、血相を変えた男性が警察官にこちらを指し示したところだった。凶悪な殺人犯を捕まえるために投入されたのであろう複数の警察官が、こちらに向かってくる。その視線は、高生に注がれていた。

「世界は君を生け贄にするようだ」」

 背筋が凍るほど冷徹な声で告げてきたのは殺人犯であり、高生は、彼の言葉が意味するところを理解する前に逃げなければならないという衝動に襲われてどきりとした。

(なんで……?)

 なにもしていない自分が、逃げなければならないのか。

 なにも後ろめたいことなどない。犯罪に手を染めたこともなければ、警察に追われる理由などひとつもない。追われるべきは目の前の男だ。

 だが、妙な焦燥感があった。追われているという自覚がある。恐れがある。そして興奮。殺人犯を追い詰めたことによる興奮ではない。

 高生は、奇妙な違和感の中で、自分の右手がなにかを握っていることに気づいた。興奮状態では気付かなくなる程度の重み。

 見下ろして、愕然とする。

「なんでっ……」

 高生の右手が強く握りしめていたのは、べったりと血のついたナイフだった。

 男が女性を切りつけ、歩道に投げ捨てたナイフのようだった。遠目からはっきりと見えたわけではないが、なぜか確信があった。このナイフで殺害したのだ。

 高生にナイフを拾った記憶はない。それどころか、拾う余裕もなかった。時間停止が解除されると同時に男を追いかけたのだから。

「早く逃げないと捕まるよ」

「そんなことはわかってるよっ!」

 高生は、自分が口走った言葉に驚きながらも、男の言う通り、こんなところに立ち止まっている場合ではないとも思っていた。こんな男に構っている余裕はないのだ。

 警察はすぐ後ろだ。逃げなければならない。捕まったら最後だ。人を殺したのだ。

(俺が、やった……! いや、違う?)

 高生の頭の中は、混乱の極みに達していた。手にしたナイフは人殺しの記憶を呼び起こすのだが、しかし、高生は、被害者の女性が殺される瞬間を目撃しているのだ。

 静止した世界で無造作に切りつけられる女性の姿が、網膜に焼き付いている。にも関わらず自分が凶器を手にしているという事実が、彼の焦燥感を煽った。逃げなければならない。

 声が聞こえた。警察官たちが声をあらげている。ほんの十数メートルほどの距離。いまさら駆け出したところで追い付かれるのが関の山だ。相手は鍛え抜かれた警察官で、こちらは貧弱な子供に過ぎない。

 それでも、高生は、捕まるわけにはいかなかった。

逃げよう。

 心に決めて背後を一瞥したとき、異変が起こった。

「おや」

 男が不思議そうな声をあげたのも、その異変が原因だった。

 高生に向かって走ってきていた警察官たちが、動きを止めたのだ。走るのを止めたのではない。立ち止まったわけではない。周囲を見れば一目瞭然だった。

 時が静止したのだ。

 警察官は全力で駆けている最中だったし、その少し後方には野次馬がいた。携帯電話をこちらに翳している連中もいれば、不安そうにこちらを見ている人たちもいた。誰もが時間停止に巻き込まれている。その後ろを流れるはずの車の列も動きを止めていたし、流れる雲も、雲間の太陽さえも例外ではなかった。

 数少ない例外は、高生と、トレンチコートの男だけだった。

「ふむ……何処かで誰かが仕事を始めたらしい」

「仕事……?」

 高生は、男に向き直って反芻するように尋ねた。先程までの焦燥感は消え失せ、興奮も後悔も、罪の意識も消えてなくなっていた。ただ、いつもの自分がいる。

「そうだよ。世界の時が静止しているのは、わたしやわたしの同僚が仕事をしているからなんだ」

「人殺しが仕事なのか!?」

「そうだね。殺人課が負うのは人殺しだけさ」

「殺人課……!?」

「わたしは死神なんだよ」

 男は、驚くほど穏やかな声で告げてきた。突拍子もない、有り体にいえば誇大妄想のような常識はずれの言葉に否定しきれないほどの説得力があったのは、男が目の前で人殺しをして見せたからだろう。時間静止という異常事態が拍車をかけている。

「死神……」」

「便宜上、そう呼んでいるだけさ」

 その声は、目の前の男のものではなかった。高生の背後から聞こえてきたのだ。よく通る声だ。何処か軽薄な響きがあった。

 そちらに目を向けると、一人の男が、凍りついた警察官たちを押し退けるように歩いてくるのが見えた。青いスーツの男。

 静止世界で行動できるということは、高生と同じ境遇の人間か、男の言うような死神か。後者に違いない。

御谷みたにか」

「お久しぶりです、神原かんばらさん」

 互いに囁くように口走っているのだが、ふたりの声は、高生の耳朶に刺さるようだった。

 青いスーツの男――御谷は、数歩手前で立ち止まると、高生を一瞥した。異彩を放つ目だった。高生は、彼と目が合った瞬間、自分のすべてが見透かされたような錯覚に教われた。

「彼は?」

「才能があるんだよ」

「巻き込まれてしまったんですね。可哀想に」

 御谷は、別段可哀想などとは思ってもいない様子だったが、ひとしきり息を吐くと、静かにこちらに視線を注いできた。高生は、ふたりのやり取りをまるで夢の世界の出来事のように効いていたから、突然の視線にびくりとなった。

「事が終われば、君は無差別連続殺人の現行犯として捕まることになるだろう。可哀想だが、死神の仕事に口を突っ込んだ君の責任でもある」

「無差別連続……殺人……?」

「君は先程体験しただろう。自分が人殺しをしたような錯覚に囚われただろう。それは、世界がそのように是正したからだ。錯覚はやがて事実となって君の意識を支配し、わたしの殺人も、彼の殺人も君の手によるものとして世界に記憶され、記録される。君がわたしに関わろうとしたがために、世界は君を生贄に選んでしまったんだよ」

 とても穏やかな声音は、まるで親が我が子を諭しているかのようだった。

「さて、彼への説明はもういだろう。御谷、君はわたしを殺しにきたのだろう?」

「はい」

「ならばさっさとすることだ。わたしのように物分かりのいい死神ばかりとは限らないのだからね」

「覚悟……できているんですね」

「七百年」

 肺に満ちたすべての空気を吐き出すように、彼は、言った。

「七百年、死神として生きてきた。もう疲れたよ」

 神原の言葉は、高生には衝撃的に過ぎたが、しかし、それもいまさらだった。時間停止と、静止した世界で殺人を行う死神の実在を知った以上、死神の寿命が何百年であろうと些末なことに過ぎない。

 神原の顔が、時に外見年齢以上においさばらえたように見えたのは、彼の実年齢から考えれば当然だったのだろう。むしろ、四十代の中年男性に見えるほうが不思議だった。

 死神は、この世界の物理法則から解離した存在に違いなかった。もはや、死神であるかどうかなど疑う必要もなかった。彼らの実態がどうあれ、その言葉には嘘がなかった。彼らは本当のことを口にしているに過ぎない。きっと彼らは死神で、静止した時の中で殺人を繰り返してきたのだろう。考えるだけでぞっとする話だが。

 高生は、これまでの人生で数えきれないほどの時間停止を経験している。それこそ気が狂いそうになるくらいだ。そして、その発狂しそうなほどの時間停止の数は、死神が殺した人間の数なのだ。退屈でどうしようもない静止世界の何処かで人が死んでいたのだ。高生が寒気を覚えたのも無理はなかった。

「七百年……」

「君の倍ほどは生きているのかな」

「そうなりますね」

「次に生まれるなら、普通の人間としてありふれた生涯を送りたいものだね」

「その願い、きっと叶いますよ」

「君らしくもない慰めだが、ありがたく受け取っておくよ」

 神原が笑うと、御谷も笑った。ふたりの死神の間になにがあるのかなど、高生には知る由もなければ知りたいとも思わなかった。

 時間が静止した奇妙な世界で繰り広げられる異様な光景は、悪い夢以外のなにものでもない。しかし、これが現実であるということを痛いほど理解しているのが高生だった。

 悪夢ならば、どれだけ良かったか。

 夢は、目が覚めれば泡のように消えて失せる。

 だが、現実は、どれだけ逃避しようと目の前に立ちふさがり、思い知らせるのだ。

 悪夢などではない、と。

 高生は、茫然と事態を受け入れ、成り行きを見守るしかなかった。

 死神が死神を殺す様を見届けるしかなかったのだ。

「さようならだね」

「さようなら、先生」

 別れの言葉を交わすと、御谷の右腕が一閃した。

 あまりの速度に高生の目では残像しか捉えられなかったが、結果だけを見れば、どうやら御谷が素手で神原の胸を貫いたようだった。神原は苦痛を感じることもなかったらしい。御谷が腕を抜いた後も、神原は穏やかな微笑みを浮かべたまま突っ立っていた。

 立ち尽くしていた。

 心臓辺りに刻まれた生々しい傷痕から血が流れ落ちることもなければ、彼の体が崩れ落ちることもなかった。

 時が止まったかのように――いや、実際、神原の時は止まったのだろう。彼は、その死によって、死神ではなくなったに違いなかった。静止世界に干渉する力を失ったのだ。おそらく。

 高生は、目の前で起きた出来事に声も出せなかった。人殺しを目撃したのは二度目。だからといって衝撃が薄れるわけもない。特に神原が殺されたのは、高生の目の前だ。

 一見、ただのサラリーマンとしか見えない男によって行われた殺人は、死神による死神の殺害だというのだから、高生が自分の頭がおかしくなったのではないかと疑ったのも無理はないのかもしれない。

「これで時が動き出せば、君は、連続殺人の犯人として追われることになる」

 御谷の冷淡な声に、高生は我に返った。見ると、御谷の冷ややかな目がこちらを見下ろしていた。

「なんで……」

「簡単な話だよ。君は、死神の才能を持って生まれてきてしまった」

「死神の才能ってなんだよ」

 高生は、うめくようにいった。いつ動き出すともしれない静止した時の中で、冷然とこちらを見下ろす男を睨み返すしかない。御谷の両目は淡い光を発している。まるで漫画みたいに。

「時が静止した世界を知覚し、干渉する力のことさ。君はこれまでの人生で嫌というほど体験してきただろう。あらゆるものの時が止まった末に訪れる、絶対的な孤独を」

 御谷の目の光に飲み込まれるような感覚を抱いて、高生は頭を振った。飲まれてはいけない。聞き入ってはいけない。抗わなければならない。だが、高生は、男の声に耳を傾けるしかなかったのだ。

「先天的なものでね。いくつかの例外を除けば、後天的に開花する才能ではないんだよ」

 簡単な推理だとでもいうのだろうが、高生が理解するには時間がかかった。時が止まった世界でかかる時間などに意味はないのだろうが。

「死神の才能を生まれ持っただけならば何の問題もない。普通の人間には理解のできない悩みを抱えながらも生きてはいけるだろう。しかし、君は死神を見てしまった。死神の仕事を目撃してしまった。世界が君を認識してしまったんだよ」

 死神はまるで歌うように言葉を紡ぐ。

「世界は無法者を許さない。無法者の存在を認めない。君が、静止した時の中に介入しているという事実を許しはしないんだ。だから、死神の仕事の結果を君に負わせるんだ。君が連続殺人の犯人となって極刑に処されるよう、世界は動くだろう。その流れはだれにも止められない」

 淡く輝く双眸に射竦められ、高生は口をぱくぱくさせていた。まるでエサを求める鯉のように。

「君だって実感したんじゃあないか? 自分が殺してしまったと思ったんじゃあないか?」

「あ……」

 御谷の言葉に、高生ははっとした。神原を追いかけていたときに抱いた違和感の正体を知った。御谷の言う通りだ。高生は、まるであの女性を自分が殺したのだと思い込みかけていた。現場にいた人たちも、警察もどうやら彼を追っていた。殺人犯に仕立てられかけていた。いや、高生の意識そのものも殺人犯になりかけていた。神原に詰め寄った時の興奮と衝動は、人を殺したことによるものだったのかもしれなかった。

「時が動き出せば、そうなれば、君は凶悪な通り魔殺人鬼として世界に記録される。だれもがそう認識する。君の友人だろうが知人だろうが家族だろうが、そんなことは関係なく、ね」

「そんなこと……!」

「理不尽だろう。だが、世界なんてそんなものさ。死神の存在自体が理不尽なのだからね。だが、この世界の平衡を保つためには、我々は必要であり、我々の存在を脅かしかねない無法者は処断するしかない。是正するしかない」

 御谷はそこまでいうと、肩を竦めて嘆息して見せた。

「そう、世界は考えているらしい」

 彼にとってはそうではないのだろうが、高生にしてみれば御谷の意見などどうでもいいことだ。どのみち、この静止状態が解ければ、高生の身に降りかかるのは災難だ。そして、それは災難と認識することもできないのだろう。

 是正と彼は言った。正されるのだ。世界とやらにとって正しい状況へと是正される。静止世界での変化がリセットされるように。死神の殺人だけが結果として残るように。死神の行動が人々の記憶に残らないように。

 神原は生贄といった。

世界が高生を生贄にするのだと。

ようやくその言葉の意味を理解して、高生は慄然とした。畏れ、慄くのだ。圧倒的な世界の意思の前には、ただの人間など為す術もないのだ、と。

「ただ、ひとつだけ、君の運命を変える方法がある」

「……ひとつだけ」

「そう、ひとつだけ。そうすれば、君は死の運命から免れることができる。今まで通りの生活を送ることもできなくはない」

「どうすれば……いい?」

「簡単な話さ。死神になればいい」

 死神は法の執行者だ。無法者として処分されることはない、とも御谷は言った。恐ろしいほど醒めた声音だった。悪魔の誘惑とは違う。むしろ突き放すような言い方だった。

「あんたたちの仲間になれっていうのか」

「生け贄になりたくないのなら、ね。強制はしない」

 御谷にしてみれば、高生がどうなろうとどうでもいいことなのだろう。声音でそうと知れた。

 だから、高生は冷静になれたのかもしれない。逆上するのではなく、むしろ冷徹なまでに自分の置かれた状況を理解できた。自分の手を見下ろす。手の中には、血塗られたナイフがあった。神原が通行人を殺したナイフだ。刃についた血が、高生の意識を締め付けるかのようだった。

 ナイフは拾ったわけではない。いつの間にか手の内に有ったのだ。知らぬうちに、握りしめていた。犯行に使われた凶器。高生を犯人に仕立て上げるために持たされたのだとしか考えられなかった。そして、高生自身がそう思い込みかけていた。

(どうすればいい)

 御谷は、強制しないだろう。提案でしかない。いや、助け船か。高生が、生け贄として捧げられないための方法を教えてくれたに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。

 冷たい光を湛えた男の瞳が語るのは、絶対的な拒絶だ。高生の感情など理解するつもりも、必要もない。情けをかけたつもりさえないのかもしれない。

 彼が気にしているのは、スーツの袖が血に濡れていることだけかもしれなかった。

 時間はない。御谷がいつまでも待ってくれるわけがない。彼にとっては取るに足らない出来事なのだから。

「……死神になれば、本当に助かるのか」

「救いではないよ。生け贄の山羊であったほうが良かったと後悔する可能性のほうが大きい」

 御谷はにべもなく告げてくる。

「死神は、死ねないんだ」

 彼は神原を見ていた。その淡く輝く瞳は、どこか羨ましげに時とともに凍り付いた男を見つめている。七百年生きた死神の最期だ。あまりにも呆気なく穏やかな死。神原は、きっと死にたがっていたのだ。だから、御谷に抵抗もしなかったのだろう。

 度重なる時間停止の中で気が狂いそうになった高生には、神原の気持ちがほんの少しだけ理解できた。ほんの少しだけ。

「寿命もなければ、病もない。生老病死――この世の理から隔絶された存在なんだ。死の神というのもあながち間違いでもないのさ。世界が必要としなくなるまで生き続けなければならない」

 それは死を看取り続けるのと同じだよ、と、御谷はいった。

「君は、死の運命を免れる代わり、無限に近く生き続ける覚悟はあるかい?」

 そう問いかけてきたとき、御谷は、初めて人間らしい感情をその瞳に覗かせていた。どこか寂しげで、悲しげな瞳だった。さっきまでの超然とした様子からは考えられないくらい人間臭い表情。彼が死神であることを忘れてしまうほどの。

「そんなの……わからないよ」

 わかるはずがなかった。覚悟などあるはずもない。ただ、この直後の悲劇を回避したいという一心でしかないのだから。生贄に捧げられるくらいならばなんだってなってやる――開き直りにも似た感情が、高生の心を埋めていた。

 そのために死神になるしかないのなら、それ以外の選択肢がないのなら。

「でも、それしかないんだろう?」

「そうなる。君が生を望むのなら、道は一つだ」

「だったら、死神にだってなってやる」

 高生は、吐き捨てるように言った。そうでもしなければやりきれなかったのだ。抗いようのない現実を前に膝を折るしかない。立ち向かうことなどできない。運命に取り殺されるだけだ。それがわかっていてもなお立ち向かおうとするのは愚か者だけだ。

 御谷は、高生の反応に意外そうな顔をした。予期していなかったのかもしれない。彼はただ目を細めた。悠久の時を感じるような瞳には、高生の顔が映り込んでいるのだろうか。

「まあ、いいさ。せいぜい後悔するといい。こちらも人手不足なんだ。猫の手も借りたいほどにはね」

 そして、時が再び動き出した。

 最初にあったのは音の洪水。すべてが静止した時の中では音さえ無かったのだ。鼓膜が破れるかと思うほどの大音響が津波となって襲い掛かってくる。もっとも、それも慣れたことだ。驚きはしない。鼓膜は破れない。聴覚は狂わない。なんの心配もない。

 神原の時間停止の時に感じなかったのは興奮状態でそれどころではなかったからに違いない。そんなことを考えるゆとりさえあった。心が安定していた。事件なんて何一つなかったかのように。

次に神原の体が崩れ落ちた。くずおれる寸前、彼の口から息吹が漏れた音を聞いたが、気のせいだったのかもしれない。彼はすでに絶命しているらしく、ピクリとも動かなかった。女性の時もそうだったが、死神は普通に殺しているように見えて、その実態は違うのだろう。仰向けに倒れた男の胸元には、御谷が空けた穴はなくなっていた。

 不意に声が聞こえた。高生に迫っていた警察官たちだ。が、どうやら高生に向かって叫んだわけではなかった。神原が倒れたことに驚いたような、そんな響きがあった。そして、高生は、彼らの眼中に自分がいないことに気付く。

 高生の手の中にあったはずのナイフは消え失せていた。高生が殺人犯ではなくなったことの証明だろう。

「これで君は死神の仲間入りだよ。喜びたまえ」

 言いながら、御谷は歩き出していた。高生も、彼に誘導されるまでもなく続く。さすがに神原の亡骸の傍で会話している場合ではない。それに、警察官たちはこちらを気にしている様子もないが、そのまるで魔法にでもかかったかのような状態がいつまでも続くとは限らない。御谷の行動を見た限りではどうとでもとれそうだったが。

「死神……か」

 高生は、暗澹たる面持ちになった。直面した最悪の事態は免れた。連続殺人犯として捕まるという状況からは逃れられた。しかし、代価として差し出したのは、人間としての生涯なのだ。

 実感はない。即座に理解できるようなものでもないのだろう。それはわかるのだが、だからといって、明るい希望を持つことはできそうにもなかった。

「なに、正式に死神として働くのはまだまだ先だ。適性検査も受けてはいないんだからね。結果次第では雑務に回る可能性だってある」

 まるで慰めるような物言いだったが、彼にはそんなつもりもなかったのだろう。御谷は、懐から携帯電話を取り出していた。一昔前の携帯電話。今や使い物にならないような代物だったが。

「あ、御谷です。仕事は無事に終わりました。ええ、大丈夫です。ちゃんと、見送りましたから」

 御谷は、目線で高生に「行け」といっていた。有無を言わせぬ眼力だったが、その眼はもはや輝いてはいなかった。

 高生は、御谷がなにひとつ説明してもくれないことに不満を覚えたものの、問いかけたところで答えてくれないような気がして嘆息した。連絡方法や適性検査のことについて知りたかったのだが。

 神原を一瞥する。姿態を取り囲む警察官たちのせいで、彼の亡骸はもはや見えなくなっていた。彼の死に顔だけが網膜に焼き付いている。あらゆる苦痛から解放されたような笑顔だった。

 死神の死とは、そのようなものなのかもしれない。

 高生は、警察官たちから視線を逸らした。見知った町並みの広い通り。遠巻きにこちらを見ている野次馬の姿が視界に入ってくる。いや、高生を見ているわけではない。

(魔法みたいだな)

 高生は、もう一度溜息を吐いた。

「それから、ひとつ報告が。ああ、認識してますか」

 御谷の話し声が気にはなったが、彼はすでに現場を離れ始めていた。声も次第に聞こえなくなる。警察官たちが大声で連絡を取り始めたからだ。なぜ高生に向かって走っていたのか疑問の声をあげるものさえいない。だれひとり、違和を感じていない。

 これが正しい世界なのだといわんがばかりに物事は進行していく。

 是正されたのだ。高生が殺人犯であった記憶は改変された。御谷の神原殺害も別の結果になって現れた。

 人だかりの横を通り抜ける際も、野次馬の関心が高生に向くことはなかった。高生は、あまりの呆気なさにほっとすることさえ忘れながら、元いた場所に戻ろうとした。そのとき、

「高生君! どこ行ってたのよー!」

 宮森加奈子の大声が、高生の鼓膜に突き刺さった。見ると、加奈子が、息を切らして目の前に立っていた。突然走り去った高生を探してくれていたのだろう。少女の顔は上気して赤くなっていた。

「あ……ごめん」

「ごめんじゃないわよー。あんな事故があって、急にどっかいっちゃうんだもん。びっくりしちゃったじゃない」

「事故?」

「へ? 高生君も見てたでしょ?」

「え……」

 高生が加奈子の言葉の意味を理解したのは、通学路の交差点に差し掛かった時だった。横断歩道の前に凄い数の人だかりができており、救急車や警察車両が停まっているのが見えたのだ。

「怖かったよね。信号待ってる人のところに突然突っ込んでくるんだもん……」

「……そうだね」

 高生は、寒気を覚えた。これが是正されるということなのかと、身を以て思い知ったのだ。いや、神原の件で理解したはずだった。が、殺人事件が交通事故に捻じ曲げられたことで、理解がより深くなったのだ。

 そして、こうも考える。これまでに数多あった事件事故の中に、死神の仕業がどれほどあったのだろう。そして、どれほどの人間が生贄に捧げられたのだろう。

 高生が深刻な顔をしていたからかもしれない。加奈子がこちらの目を覗き込んできた。

「どうしたの?」

 大きな目だ。彼女の瞳に映り込む自分の顔は、きっと死神そのものなのだろう。そして、いまや存在までも死神となった。笑うに笑えない現実を認めて、彼は、微笑みを返した。そうすることでしか現実に立ち向かえなかったのかもしれない。

「なんでもないよ、行こう。遅れちゃうよ」

「もう、だれのせいなのよー」

 加奈子は頬を膨らませたが、高生は笑って取り合おうとしなかった。

 世界は変わった。いや、変わらなかったのか。なにもかも元通りになった。恐らく、これが正常なのだ。死神の存在を知らない者にとっては、これがあるべき世界の姿なのだ。死神による所業は世界によって隠滅され、だれかが犠牲者になる。それはこれからも変わらないに違いない。

 高生は、漠然と思った。

 この世には、薄明るい絶望が横たわっている。


                                            了。

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