喫茶店ローズ6話「……普通だ」
厨房の奥で、油のはぜる音が一段落した頃だった。
店内の方から、足音が重なる。
最初に現れたのはアレクシアだった。きちんと整えられた服装、眠気を感じさせない目。もう一日の段取りを頭の中で組み終えている顔だ。
その少し後ろから、アンナとアルフレッドが続く。アンナはまだ完全に目が覚めきっていない様子で、歩幅が小さい。アルフレッドは欠伸を噛み殺しながらも、周囲を一度ぐるりと見渡した。
「おはよう」
アレクシアの声は低く、淡々としている。
アンナも遅れて頭を下げる。
「おはようございます」
アルフレッドは軽く手を挙げた。
「おはよー」
その時、颯太は気づく。
店の中央、ソファーの一角。
エドワードは、最初からそこにいたかのように新聞を広げていた。背もたれに深く身を預け、足を組み、紙面から視線を上げることもない。
今朝、蹴られて起こされた相手だ。
颯太の腹の奥が、きゅっと縮む。
視線を向けられていないのに、存在だけで圧がある。
逃げ場のない感じ。けれど――。
「……」
エドワードは新聞をめくるだけで、何も言わない。
それが逆に、不思議だった。
何かを言われる覚悟をしていたのに、干渉がない。評価も、追及も、ない。
無視、というよりは「関心を向けていない」に近い。
颯太は、その事実を噛みしめる。
ここでは、全員が自分に注目しているわけじゃない。
守られているわけでも、監視されているわけでもない。
ただ、朝だから起きてきただけ。
新聞を読む人がいて、厨房で火が使われていて、挨拶が交わされる。
世界は、自分が来る前から続いていて、自分がいても壊れない。
その感覚が、胸の奥をじんわりと温めた。
アレクシアは一度だけ、颯太の方を見る。
値踏みでも確認でもない、短い視線。
「朝食はもうすぐよ」
それだけ言って、椅子を引く。
颯太は小さく頷いた。
返事の声は、まだ少し掠れていたが、喉は詰まらなかった。
ここにいていい。
そう断言されたわけではない。
けれど、この朝の流れの中に、無理なく組み込まれている。
それだけで、十分だった。
厨房の向こうから、静かな足音が聞こえた。
「……おはようございます」
銀髪の男、エリオットが少し眠そうに目を擦りながら頭を上げる。隣には黒髪の白髪交じりのセドリック。
「おはようございます…」
颯太は寝ぼけているエリオットとセドリックに挨拶をする。
エリオットは目を細め、微かに笑む。
「拙いですが、少しでも朝の支度を手伝おうと思いまして」
セドリックも淡く頷き、手際よくテーブルを整える。
朝の柔らかな光の中で、彼らの存在は、颯太に「ここは安心できる場所だ」と静かに伝えていた。
だが、その安定は長くは続かなかった。
エリオットはテーブルを拭き終えたあたりで、一度だけ瞬きをした。
次の瞬間、動きが止まる。布巾を持ったまま、背筋だけは妙にまっすぐだ。
「……」
返事がない。
セドリックはというと、椅子を引いたところで腰を下ろし、肘をついた姿勢のまま視線が宙を泳いでいる。まばたきが、やけにゆっくりだ。
颯太は最初、二人とも考え事をしているのだと思った。
だが、数秒経っても動かない。
「……あの」
小さく声をかけても、反応がない。
次の瞬間、エリオットの頭が、こくりと前に傾いた。
布巾が、はらりと床に落ちる。
同時に、セドリックの顎が胸元に触れ、そのまま静止した。
完全に寝ている。
厨房の空気が、わずかに緩んだ。
オスカーが包丁を持ったまま固まり、恐る恐る二人を見る。
「……あ、あの……?」
悟真は胡座のまま、ちらりと視線を向けるだけで何も言わない。
エドワードが新聞の向こうから一言。
「だから言っただろ。あいつら、朝は弱い」
アレクシアは小さく息を吐いた。
「無理しなくていいって言ったのに」
アンナは声を潜め、どこか安心したように呟く。
「いつものエリオットさんとセドリックさんですね……」
颯太は、その様子を見つめながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
昨日までなら、こんな光景を「場違い」だと思っていたはずだ。
だが今は違う。
完璧じゃない。
全員がきちんとしているわけでもない。
途中で眠ってしまう人もいる。
それでも、誰も責めない。
誰も追い出さない。
「……いい朝だな」
思わず零れた独り言に、自分でも驚く。
その横で、ガブリエルがそっと毛布を二枚持ってきて、眠り落ちた二人の肩に静かにかけた。
「冷えますからね」
その声は、祈りのように穏やかだった。
颯太は、初めて気づく。
ここでは、ちゃんとしていなくてもいいのだと。
役に立てなくても、眠ってしまっても、居ていいのだと。
胸の奥にあった硬い塊が、少しずつ溶けていく。
朝の匂いと、包丁の音と、規則正しい寝息。
それらが混ざり合うこの場所は、もう「仮の居場所」ではなかった。
アンナは二人の前に立ち、少しだけ背伸びをした。
「起きてくださーい」
声は明るいが、大きすぎない。
叱るでもなく、急かすでもない、いつもの調子だ。
エリオットの肩にかけられた毛布が、わずかに動く。
眉が一瞬だけ寄り、しかし目は開かない。
「……朝、ですか」
寝言のような低い声。
セドリックの方は、反応がさらに遅い。
顎がわずかにずれただけで、再び静止する。
アンナは一度、二人を見比べた。
それから、小さく息を吸う。
「朝ですよ。もう」
今度は少しだけ強めに言う。
エリオットが、ようやく目を開けた。
焦点が合うまで、数秒。
「……失礼しました」
反射的に姿勢を正そうとして、毛布に気づく。
視線を落とし、状況を理解したらしく、ほんの少しだけ気まずそうに瞬きをした。
「寝て、いましたね」
セドリックも遅れて目を開ける。
「……ああ。これは」
自分の肘に残る体重と、周囲の視線で察したのだろう。
苦笑に近い表情が浮かぶ。
「見事に、やってしまいましたね」
エドワードが新聞を畳みながら言う。
「見事すぎて逆に清々しい」
アレクシアは腕を組んだまま。
「だから無理するなと言ったでしょう」
責める口調ではない。
事実確認に近い。
エリオットは深く一礼した。
「申し訳ありません。起きたつもりだったのですが」
「つもり、ね」
アンナはくすっと小さく笑う。
そのやり取りを、颯太は黙って見ていた。
起こされても、謝っても、場の空気は壊れない。
誰も声を荒げないし、居場所が揺らぐ気配もない。
それが、少し不思議で。
同時に、少しだけ羨ましかった。
「……朝って、こんな感じでいいんだな」
心の中でそう思う。
悟真は胡座のまま、視線だけを動かした。
「騒がしくなってきたでござるな」
それだけ言って、また目を閉じる。
厨房では、オスカーが火加減を見直している。
朝食の匂いが、ゆっくりと広がっていく。
颯太は、その匂いの中で、確かに思った。
ここにいていい。
今は、それだけで十分だと。
テーブルに並んだのは、驚くほど簡素な朝食だった。
焼き色のついたトースト。
皿の中央に、ふっくらとした目玉焼き。
葉物中心のサラダ。
湯気の立つ紅茶と、香りの強いコーヒー。
それだけだ。
豪華でも特別でもない。
けれど、颯太はその光景から目を離せずにいた。
「……普通だ」
思わず、心の中でそう呟く。
異世界だとか、不老不死だとか。
昨日から、現実感のない言葉ばかりが頭を通り過ぎていた。
それなのに、目の前にあるのは、見慣れた朝食だった。
オスカーが少し緊張した様子で言う。
「あ、あの……口に合うといいんですけど……」
「十分です」
セドリックが静かに答え、紅茶に手を伸ばす。
「朝は、これくらいが体に優しいですから」
エリオットも同意するように頷き、トーストを割った。
「重すぎると、後に響きますしね」
ガブリエルは手を合わせ、小さく祈りを捧げてから席につく。
「では、いただきましょう」
悟真はすでに椅子に胡座をかき、無言で卵を口に運んでいる。
味を評価する様子もないが、手は止まらない。
颯太は、少し遅れて手を伸ばした。
トーストを噛む。
さく、と軽い音。
バターの香り。
それだけで、胸の奥が緩む。
「……あ」
思ったよりも、喉が詰まった。
昨日まで、自分はどこで寝て、何を食べていたのか。
それを思い出そうとすると、うまく形にならない。
でも、今はここに座っている。
名前を呼ばれて、皿が用意されて、飲み物を選べる。
紅茶にするか、コーヒーにするか。
そんな些細な選択が、ちゃんと自分に与えられている。
颯太は紅茶を一口飲んだ。
少し渋くて、温かい。
「……生きてるな」
誰にも聞こえない声で、そう思う。
派手な歓迎も、感動的な言葉もない。
ただ、朝が来て、食事が出て、皆が同じように席についている。
それが、今の颯太には何よりも救いだった。
この場所は、まだ仮の居場所かもしれない。
いつまでいられるかも分からない。
それでも。
少なくとも今朝は、追い出されない。
空席ではない。
その事実が、静かに、確かに、颯太の中に根を下ろし始めていた。
目玉焼きは半熟派です。




