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喫茶店ローズ5話「僕達も知らない」

颯太はスプーンを置き、皿を片手に持ち上げた。立ち上がろうとした瞬間、オスカーが小走りで近づいてきて、必死に手を押さえた。


「い、いや、いいです!片付けは僕がやりますから……!」


「え、でも…」


「お願いです、颯太さんはそのまま座っていてください!」


オスカーの目が必死に潤んでいる。緊張と不安が混ざった表情に、颯太は仕方なく頷くしかなかった。


「颯太。今日はもうシャワー浴びて寝たほうがいいわよ」


アレクシアが軽く笑い、颯太の肩に手を置いた。言葉は柔らかいが、どこか命令のような力がある。


「はい…わかりました」


颯太は小さく頷き、席に戻った。少しずつ体の力が抜けていくのを感じながら、今日のことを頭の中で整理し始める。人の名前や関係、背景――混乱する情報が多すぎて、まだ全部は把握できない。


それでも、ここでなら無理に背伸びせず、ただ座っているだけでいいのだと思える。


オスカーがそっと皿を片付けに向かう間、アレクシアの言葉が心に残った。


「ここでは、無理に頑張らなくていいのよ」


その言葉が、颯太にとって小さな救いとなった。

朝になったら、どうなるんだろう。


その疑問を最後に、意識が沈んだ。


鈍い衝撃が、腹に走った。


「っ……!」


息が、一瞬で詰まる。

反射的に体を丸め、空気を求めて口を開く。


「起きろ」


低く、冷えた声。


視界が揺れたまま、颯太は必死に目を開ける。

逆光の中に立つ人影。

白い髪。整えられた燕尾服。

感情の読めない蒼い目の老人。


「……え?」


もう一度、腹に圧がかかる。

蹴り、というほど雑ではない。

だが、明確に“起こすため”の一撃だった。


「朝だ」


その言い方は、事実を告げているだけだった。


「エ、エドワードさん……!?」


名前を呼んだ瞬間、自分の声が上擦っているのが分かった。

心臓が早い。

体が、まだ状況を理解していない。


エドワードは、表情を変えない。


「五時だ。仕事をするなら起きろ。寝たいなら出て行け」


選択肢は二つだけ。

余計な言葉はない。


颯太は、布団の中で小さく息を整える。

腹の奥が、じんと痛む。

けれど、それ以上に。


――ああ。


不思議と、安心している自分に気づいた。


怒鳴られない。

理由を聞かれない。

同情も、励ましもない。


ただ、ここにいるなら動け、と言われただけ。


「……起きます」


自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。


エドワードは一瞬だけ颯太を見下ろし、

それから興味を失ったように踵を返す。


「遅れるな。厨房に顔を出せ」


それだけ言って、扉を開けた。


残された部屋に、静寂が戻る。


颯太は、ゆっくりと上半身を起こした。

腹を押さえながら、苦く笑う。


優しくはない。

守ってもくれない。


それでも。


追い出されなかった。


その事実だけが、胸の奥に残っていた。


この世界で迎えた最初の朝は、

思っていたよりも、冷たくて、

思っていたよりも、現実的だった。


そして、なぜか…。ちゃんと、生きていけそうな気がした。

颯太が部屋を出た時、体はまだ完全に起きていなかった。腹の奥に鈍い痛みが残り、足取りも不安定だった。


厨房に近づくにつれて、音がはっきりしてくる。


扉の前で一瞬、立ち止まった。そのまま入っていいのか分からなかったが、他に行き場もない。


中に足を踏み入れた瞬間、音が止まった。


オスカーが肩を跳ねさせ、勢いよく振り返る。


「あ……。おはようございます……」


声がわずかに裏返っていた。視線は颯太の顔を一瞬だけ確認し、すぐに手元へ落ちる。逃げるほどではないが、明確に怯えている反応だった。


「あ、あの……おはよう、ございます……」


言葉を返したものの、空気が噛み合わない。オスカーは包丁を持ったまま、どう扱えばいいか分からない物を見るような距離感で立っている。


少し沈黙が落ちた。


鍋の中で湯が小さく鳴り、その音だけが場を埋める。


オスカーは思い出したように視線を戻し、慌てて作業を再開した。


「す、すぐ朝食、できますので……その……」


語尾が消える。謝っているのか、説明しているのかも曖昧だった。


颯太はそれ以上、何も言えなかった。邪魔にならない位置に立ち、ただ様子を見ている。


この場所に来てから、初めてはっきりと分かったことが一つあった。


自分は歓迎されていないわけではないが、受け入れ方も決まっていない。


だからこそ、全員が少しずつ、距離を測っている。

「手伝います」

オスカーは一瞬、手を止めた。


振り返りはしない。だが、肩の力がわずかに抜けたのが分かった。


「……え?」


「何か、できることがあれば」


声は自分でも驚くほど静かだった。断られても仕方がない、と最初から思っている言い方だった。


少し間があってから、オスカーはゆっくりとこちらを見た。警戒は残っているが、拒絶ではない。


「じゃあ……野菜、洗ってもらってもいいですか……?」


控えめな頼み方だった。命令でも指示でもない。試すような響き。


颯太は小さく頷き、流しへ向かう。


水に手を入れた瞬間、冷たさが指先に広がった。現実感が、ようやく追いついてくる。


何もできない存在ではない。


ここにいて、何かをしていい。


それだけのことが、胸の奥に溜まっていた不安を少しずつ削っていった。


オスカーはそれ以上、余計なことを言わなかった。颯太が作業を始めたのを確認すると、黙って自分の持ち場に戻る。


同じ空間にいても、会話は最小限だ。それでも、空気は先ほどよりわずかに柔らいでいた。

野菜を洗い終え、ざるに上げて水を切る。


次に何をすればいいのか分からず、颯太は一度だけオスカーの背中を見た。声をかけるべきか迷い、そのまま立ち止まる。


オスカーはその気配に気づいたのか、手を止めずに言った。

「……そこ、置いてもらえれば大丈夫です」


颯太は黙って指示された台にざるを置いた。


用は終わりだ、という合図でもあった。だが追い払う響きではない。必要な分だけ関わり、余計な踏み込みはしない。そういう距離の取り方だった。


手が空いた途端、胸の奥にまた不安が戻りかける。


何かしていないと、ここにいていい理由が消えてしまう気がする。


それを察したわけではないだろうが、オスカーは少し間を置いてから、今度は振り返って言った。


「……コーヒー、飲みますか?」


ただの確認だった。気遣いでも、社交辞令でもない。


颯太は一瞬だけ迷い、頷いた。


「はい。いただけるなら」


オスカーは小さく頷き返し、棚からカップを一つ出した。来客用ではなく、普段使いのものだ。


それを見て、胸の奥がほんの少しだけ緩む。


特別扱いされていない。だが、排除もされていない。


ここでは、それが十分な安心だった。


カップに注がれる音を聞きながら、颯太は思う。


いきなり知らない世界に放り出されて、居場所がないまま立たされるのは、誰だって耐えられない。


自分だけじゃない。


そう思えたことで、朝の冷えた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

カップに手が伸びた、その瞬間だった。


「拙者もいただこう」


低く落ち着いた声が、すぐ背後から差し込んだ。


颯太は反射的に肩を跳ねさせ、振り返る。


いつからいたのか分からない。音も気配もなかった。厨房の隅、壁際に近い床に、悟真は胡座をかいて座っている。背筋は伸び、目は半眼。そこにいるのが不自然なはずなのに、空間だけは妙に馴染んでいた。


颯太の喉が一度鳴る。


「……い、いつから……?」


悟真は表情を変えない。


「野菜を洗い終えたあたりからだ」


普通に答えた。その事実のほうが、かえって異常だった。


オスカーは一瞬だけ手を止めたが、驚いた様子はない。軽く息を吐き、淡々と言う。


「……悟真さん。勝手に入るの、やめてくださいって……」


「忍びは忍ぶもの。致し方なし」


謝罪でも弁解でもない。事実確認のような口調だった。


オスカーはそれ以上言わず、もう一つカップを出す。ため息混じりだが、動きに拒絶はない。


そのやり取りを見て、颯太はようやく気づく。


ここでは、悟真の存在そのものが“異物”でありながら、同時に“処理済み”なのだ。


驚かれるが、排除はされない。


理解はされなくても、否定はされていない。


悟真は胡座を崩さないまま、差し出されたカップを受け取る。


「かたじけない」


その所作は妙に丁寧で、武骨な体つきと噛み合っていなかった。


颯太は、自分のカップに視線を落とす。


さっき感じた安心が、まだ消えていない。


異世界に来たから不安なのではない。


「ここにいていいのか分からない状態」が、不安なのだ。


少なくとも今、この厨房では、黙って立っていても、座って胡座をかいていても、コーヒーを飲む資格はあるらしい。

「僕らも、悟真さんの正体は、わからないんですよ…」

「えっ…」

厨房に、足音が一つ増えた。


扉が静かに開き、体格の大きな影が差し込む。


「おはようございます。オスカー君、颯太さん、悟真さん」


低く、よく通る声だった。穏やかで、朝の空気を乱さない。


ガブリエルは、修道服風の服装のまま、ゆっくりと厨房を見渡す。背の高さと体格のせいで空間は一瞬だけ圧迫されるが、不思議と緊張は生まれない。


オスカーは少し背筋を伸ばす。


「おはようございます、ガブリエルさん」


颯太も、遅れて頭を下げた。


「……おはようございます」


名前を呼ばれたことで、胸の奥がわずかに緩む。自分は認識されている。ここに「いる人」として扱われている。


悟真はというと、カップを持ったまま、視線だけを上げた。


一瞬、ガブリエルを見る。


それだけだった。


挨拶も、反応もない。ただ確認するような、静かな一瞥。


ガブリエルは気にした様子もなく、軽く頷く。


「今朝は、静かですね」


そう言って、作業台の端に立つ。誰かの領域を侵さない位置だった。


オスカーは火加減を調整しながら答える。


「ええ。……今のところは」


悟真は再び視線を落とし、カップに口をつける。


颯太は、その横顔を盗み見る。


拒絶ではない。警戒とも少し違う。


悟真は、ただ「深入りしない」だけだ。


その距離感が、なぜか救いだった。


ここでは、無理に馴染まなくていい。


話さなくてもいいし、説明できなくてもいい。


朝が来て、朝食を作る人がいて、挨拶が交わされる。


それだけで、世界は一応、回っている。


颯太は、自分の立っている床を確かめるように、足裏に力を込めた。


少なくとも今朝、この場所は、踏み抜けない。

悟真はアレクシア達とは、まあまあ長い付き合いだけど、誰も悟真の正体は知らないです。

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