喫茶店ローズ3話
ノックの音が聞こえ、颯太は少し驚きながらドアを開けた。
「はい…」
中から現れたのは、先ほど自己紹介をしたばかりのセドリックだった。紙袋を持っているわけでもなく、ただ静かに立っている。
「セドリックです。夕食ができましたので、よかったら一緒に食べませんか?」
その声は、先ほどの整った所作と同じく、穏やかで優しい響きを持っていた。
颯太は少し戸惑う。誰かに誘われて食事をするのは、久しぶりだった。いや、正確にはこんなに自然に招かれたことはなかった。
でも、その目は強制でもなく、期待でもなく、ただ“一緒に食べてくれると嬉しい”という、控えめな温度を持っていた。
「あ、はい…」
声は小さかったが、自然と体が前に出る。
誰も無理に強要していないのに、心の奥の緊張が少しだけほどけた。
異世界に来て、まだ居場所もわからず、不安でいっぱいだった。
それでも今、この人が差し伸べてくれる手は、安心をほんの少しだけくれる。
颯太は軽く頷き、セドリックと一緒に部屋を出た。
夕食の匂いが鼻をくすぐる。
今日一日、よくわからないことだらけだった。
けれど、この小さな誘いが、まだここでやっていけるかもしれない、という気持ちを生み出していた。
食堂に入った瞬間、颯太は足を止めかけた。
長いテーブルの向こう側に、すでに何人もの姿があったからだ。
今日の晩ご飯は、オスカー特製のにんじんのピラフ。
中央には温玉が乗っていて、湯気と一緒にやさしい香りが広がっている。
席には、アレクシアとアンナ。
向かい側にはエドワードとアルフレッド。
調理を担当したオスカーは、少し落ち着かない様子で背筋を伸ばして座っている。
エリオットは紅茶のカップを整え、ガブリエルは大きな体を少し縮めるようにして椅子に収まっていた。
知らない顔ばかりのはずなのに、不思議と騒がしくない。
視線が一斉に向くこともない。
ただ、そこに「空いている席がある」という雰囲気だけがあった。
「こちらです」
セドリックが静かに声をかけ、空いた椅子を引く。
颯太は小さく礼をして、そこに腰を下ろした。
少し遅れて、セドリック自身も席に着く。
それだけの動作なのに、場が落ち着いた。
「いただきます」
誰かが言い出すわけでもなく、自然にその言葉が重なった。
スプーンを入れると、にんじんの甘みが先に立つ。
思っていたよりもずっと、普通で、ちゃんとした味だった。
――ああ、ちゃんとしたご飯だ。
そんな当たり前の感想が、胸の奥に広がる。
今日一日、気を張り詰めていたことに、今さら気づいた。
オスカーがちらりと颯太の方を見る。
「……お口に、合いますか?」
不安げな声。
颯太は慌てて頷いた。
「すごく、美味しいです」
それだけで、オスカーの肩が少し下がる。
誰かが笑うわけでも、からかうわけでもない。
アレクシアは何も言わず、淡々と食事を進めている。
アンナは時々颯太を気にしているが、必要以上に話しかけてはこない。
エドワードとアルフレッドは低い声で何かを話しているが、内容までは聞こえない。
ガブリエルは静かに手を合わせ、食事を口に運ぶ。その動きはゆっくりで、落ち着いていた。
颯太は思う。
歓迎されている、というよりも――
ここでは「いること」が特別扱いされないのだと。
居場所がある、と大声で言われたわけじゃない。
それでも、この席、この料理、この空気が、十分すぎるほどだった。
スプーンを置いたとき、胸の奥にあった重たいものが、少しだけ軽くなっている。
異世界に来た実感は、まだ消えない。
不安も、疑問も、山ほど残っている。
それでも今は、
ここで一緒に夕食を食べている。
それだけで、今日はもう、十分だった。
ガブリエルは一度、場を見回した。
誰かを立たせたりはしない。ただ、視線で一人ずつなぞる。
「では、改めて。店の者を簡単に紹介しますね」
その言い方が、「覚えなくていい」「今日は聞くだけでいい」と言っているように聞こえて、颯太は少しだけ肩の力を抜いた。
「まずは、アンナ・ハーヴィーです」
声をかけられ、ツインテールの少女が小さく背筋を伸ばす。
「私、アンナ・ハーヴィーです。よろしくお願いします」
敬語なのに、どこか柔らかい。
年齢を聞かされなくても、まだ幼いことは分かった。けれど、子ども扱いされることに慣れきっている様子もない。
「最年少ですが、接客は誰よりも安定しています。困っている方を見つけるのも早いですね」
アンナは少し照れたように笑っただけで、余計なことは言わなかった。
“ここでは、そういう立ち位置なのだ”と、颯太は直感的に理解する。
「次に、店長のアレクシア・ハーヴィー」
赤紫の髪を低く結んだ女性が、軽く顎を引いた。
「アレクシアよ。無理はしなくていいから」
言葉は穏やかだが、視線は鋭い。
こちらを値踏みするというより、「境界線」を確認しているような目だった。
この人は、踏み込ませない。
同時に、守ると決めた線の内側は、きちんと管理する。
そんな空気があった。
「エドワード・ハーヴィーと」
「アルフレッド・ハーヴィー」
二人が、ほぼ同時に視線を向ける。
「僕、エドワード。まあ、気楽にしなよ」
穏やかな声なのに、なぜか背筋がぞくりとした。
「僕はアルフレッド。怖いことはしないよ。多分、今のところはさ」
冗談めいているのに、冗談だけでは済まなさそうな気配。
颯太は、反射的に「触らないほうがいい人たちだ」と判断した。
特に、「今のところは」には妙に引っかかる。
ガブリエルは咳払いをし、誤魔化すような様子だった。
「ちなみに僕ら双子だよ〜」
「よろしく〜」
そうは見えない。けど、口に出したら絶対にダメやつだ。
「そして、調理を担当しているのが、オスカー・ハーヴィーです」
ひときわ背の高い男性が、びくっと肩を揺らす。
「ぼ、僕、オスカーです……。あっ、えっと、基本調理担当です……はい…」
説明になっていない説明に、場の空気が少しだけ緩んだ。
包丁を扱う人間特有の、指先の落ち着きだけが印象に残る。
「そして、こちらがエリオット・ハーヴィー」
穏やかな老紳士が、柔らかく微笑む。
「初めまして。何かあれば、いつでも声をかけてください」
その言葉は、社交辞令ではなかった。
本当に“そうする人”の言い方だった。
「最後に、セドリック・ハーヴィーです」
颯太を部屋まで案内した人物が、軽く会釈する。
「先ほどは失礼しました。改めて、よろしくお願いします」
この人が、さっきノックをした人だ。
それだけで、食堂という場所が少しだけ安全な空間に思えた。
「私が、ガブリエル・ハーヴィーです」
最後にそう名乗り、ガブリエルは話を締めた。
「ここでは、無理に馴染む必要はありません。分からないことは、分からないままで構いません」
颯太は、返事をしなかった。
ただ、胸の奥で固まっていたものが、少しずつ溶けていくのを感じていた。
居場所があるかどうかは、まだ分からない。
けれど――いきなり追い出される場所ではない。
温玉付きのピラフは私の趣味です。
むしろ大好物です。イェイ




