喫茶店ローズ14話「…まあ、いいか」
昼下がり。
店の窓から差し込む光が、木の床をゆっくりと横切っていく。
ゴードンはまだ席に居座っていた。
「よし、坊主。基礎知識の続きだ」
「まだあるんですか」
「当たり前だろ。世界は広いんだ」
ルシアンが静かに手帳を開く。
「簡潔にお願いします、旦那様」
「任せろ!」
任せられない気がした。
「ルミナリア王国はな、交易国家だ。海と陸の中継地。だからゴルドが統一通貨になった。分かるか?」
「……流通量が多いから?」
「そう!」
珍しく、颯太の答えにゴードンが嬉しそうに身を乗り出す。
「昔は国ごとにバラバラだったんだがな、面倒だから統一しちまえってなった!」
「雑ですね」
「商人は合理主義なんだよ!」
ルシアンが淡々と補足する。
「正確には、戦後の経済再編に伴う条約締結の結果です」
「それそれ!」
ゴードンは満足げに頷く。
颯太はカップを下げながら、頭の中で整理する。
交易国家。
統一通貨。
条約。
昨日までゼロだった情報が、少しずつ積み上がる。
「……じゃあ、他の国もあるんですよね」
「当然ある」
ゴードンの目が一瞬だけ鋭くなる。
「だがな、この国は安定してる。王も穏健派だしな」
カウンターの奥で、アレクシアが一瞬だけ視線を上げた。
その表情は読めない。
颯太は気づく。
ここは平和“そう”に見えるだけだ。
表に出ないものがある。
「お前、昨日びびってただろ」
突然、ゴードンが言う。
「え」
「通貨も国名も知らねぇって顔してたぞ」
颯太は言葉に詰まる。
図星だ。
「そりゃ怖いよな。何も分からねぇ場所ってのは」
珍しく、軽さが消えていた。
「でもな」
ゴードンは椅子に深く座り直す。
「分からねぇなら、聞きゃいい。覚えりゃいい。ここにいる連中は、少なくとも金で追い出すタイプじゃねぇ」
ルシアンが静かに続ける。
「旦那様なりの励ましです」
「余計な解説!」
颯太は小さく笑う。
完全に信用したわけじゃない。
でも、昨日よりは不安が薄い。
名前を知り、仕組みを知り、
そして今、説明してくれる人がいる。
それだけで違う。
「……ありがとうございます」
自然に出た言葉だった。
ゴードンは一瞬きょとんとし、それから大げさに胸を張る。
「よし! じゃあ初任給前借りするか?」
「しません」
即答。
ルシアンが紅茶を飲みながら呟く。
「成長が早いですね」
エドワードが新聞をめくる音だけが、静かに響く。
店の外では、荷馬車の音が通り過ぎる。
ここはルミナリア王国。
通貨はゴルド。
昨日より少し、世界の輪郭がはっきりした。
颯太は窓の外を見る。
まだ帰る方法は分からない。
でも今は。
「……まあ、いいか」
小さく呟いて、次の注文を取りに向かった。
ここで生きるなら、
まずは、この国を知るところからだ。
午後の客足は、ゆるやかだった。
忙しくもなく、暇すぎもしない。
颯太はトレイを持ったまま、頭の中でさっきの話を反芻していた。
ルミナリア王国。
統一通貨ゴルド。
交易国家。
知らない単語が、やっと「情報」になった感覚。
「ぼーっとするな、落とすぞ」
低い声。
振り向くと、エドワードが新聞越しにこちらを見ている。
「してません」
「してる顔だ」
図星だった。
颯太は小さく息を吐く。
昨日までは、分からないことだらけで怖かった。
今日は、分からないことが「ある」と分かっている。
それだけで、足場が少し固まる。
カウンターではアレクシアが帳簿をつけている。
無駄のない手つき。
視線も寄越さないが、店全体を把握している気配がある。
「颯太さん」
穏やかな声。
振り向くと、エリオットが立っていた。
「少しよろしいですか」
「はい」
「この国の地図、ご覧になりますか」
颯太は目を瞬く。
「地図?」
「ええ。働く以上、土地勘はあった方が安心でしょう」
押しつけがましくない。
ただ、自然な提案。
セドリックが奥から小さな冊子を持ってくる。
「簡易版ですが」
テーブルに広げられたそれには、港、街道、隣国との境界線が描かれていた。
「ここがこの街です」
エリオットの指が、丸で囲まれた場所を示す。
「港までは馬車で半日ほど」
「隣国との関係は安定していますが、油断はできません」
セドリックが静かに補足する。
颯太は地図を見つめる。
世界が、紙の上に収まっている。
昨日は「どこか分からない場所」だった。
今は「ここ」という一点がある。
「……すごいな」
小さく漏れた本音。
オスカーが厨房から顔を出す。
「そ、その地図……古いやつですけど、だいたい合ってます……」
「えっ」
「市場に仕入れに行くので……道、覚えないと怖いですから……」
怖い、という言葉に少し共感する。
怖いから覚える。
知らないままだと、もっと怖い。
ガブリエルがカップを下げながら穏やかに言う。
「知ることは、防具のようなものです」
悟真が隅で胡座をかいたまま、ちらりと視線を寄越す。
「無知は刃に等しい」
「物騒ですね」
颯太が言うと、悟真はわずかに口元を上げた。
からかわれているのか、試されているのか分からない。
でも、昨日よりは動揺しない。
ゴードンが椅子を鳴らして立ち上がる。
「よし! 今日はこの辺で帰るか!」
「仕事は?」
ルシアンが即座に問う。
「明日やる!」
「本日中です」
即答。
店内に小さな笑いが落ちる。
颯太は地図をもう一度見る。
ここはルミナリア王国。
通貨はゴルド。
港があり、市場があり、この店がある。
そして、自分はここで働いている。
理由は分からない。
帰れるかも分からない。
けれど。
「……とりあえず、覚えよう」
小さく呟く。
世界が敵に見えなくなったわけじゃない。
でも、全部が闇でもない。
夜が来る前に、もう少しだけ、この国のことを知ろう。
そう思えたのは、昨日より確実に前に進んでいる証拠だった。




